23.なぞる痛みは何に似ているか


 典子さんは足首を脱臼していた。
 誰かに引っ張られて連れて行かれそうになった礼美ちゃんに必死にしがみつき、自身の足を引っ張られながらも守った典子さんが、涙をこぼしながら所長に縋る。
「礼美を、連れて行かせないで」
「――もちろんです」
 目を合わせてしっかりと頷いた所長に安堵したのか、典子さんは蒼白な顔のまま少しだけ眉間の皺を和らげた。


 救急車に運ばれていく典子さんには綾子さんが付き添って行った。
 ぐすぐすと泣いている礼美ちゃんは、とりあえずジョンさんが抱っこして私達が使わせてもらっているゲストルームへ運んだ。
 そこで渋谷さんがミニーのことを聞き出そうとしたが、どんどん厳しくなる追求に萎縮して声を詰まらせて泣き出してしまう。見かねた麻衣ちゃんが庇うと、礼美ちゃんはしゃくりあげながら口止めされていたというミニーとの秘密を話してくれた。
 この家に引っ越してきた当初、突然ミニーが話しかけてきた。引っ越したばかりで周りには友達もいない。寂しかった礼美ちゃんは、ミニーという秘密の友達が出来て嬉しかったのだ。ミニーの悪戯に困った顔をする大人たちがちょっとだけ面白くて、そんな秘密をミニーと共有しているのが礼美ちゃんは楽しかった。
 けれど、笑い飛ばしてくれていた一家の大黒柱である仁さんが出張でいなくなって、家の中が次第にぎくしゃくし始める。子どもは大人たちの空気に敏感だ。
 もうやめよう、と止めようとした礼美ちゃんはミニーに脅されてしまう。魔女である香奈さんと、その仲間から守ってあげる代わりにミニーの言う通りにしなければならなかった礼美ちゃんは、つい言い付けを忘れて誰かと喋る度に、沢山いるというミニーの家来たち(礼美ちゃんと同じぐらいの年の男の子や女の子だそうだ)に虐められた。
「お姉ちゃん、怪我をさせられちゃった。ジョンのお兄ちゃまがくれたプレゼントもミニーに壊されちゃった。あたし、ミニーにひどい目に遭わされちゃう」
 怯える礼美ちゃんに、二度と近づけないように遠いところにやったから大丈夫だと私は言い含めた。
「でも……さっき、いた。ミニーも、他のお友達も」
「駄目」
 それはお友達なんかじゃない、ときっぱり言った麻衣ちゃんに頷く。
「あのね、礼美ちゃん。自分を虐めて楽しそうに笑っている子を、お友達とは呼べないよ」
 私は静かに諭した。
「ミニーが礼美ちゃんに酷いことをしないようにジョンや他のみんなと一緒に守るから、何かしようとしてきたらすぐに教えてね。絶対に、助けてあげるから」
 言い聞かせる麻衣ちゃんに、礼美ちゃんは真剣な表情で頷く。そして抱えていた秘密を打ち明けて安心したのか、麻衣ちゃんに縋るようにして今度こそ声を上げて泣き出した。


 典子さんが戻ってきたのは、明け方近くになってからだった。靱帯を痛めていて、暫くはテーピングで固定して動かさないようにしないといけない。
 礼美ちゃんと典子さんには、私達のゲストルームで寝てもらうことになった。ツインベッドだけど礼美ちゃんは典子さんにくっついて眠るので、もう一つベッドが余ることになる。
 森下邸に来てからよく遊んでもらい、更には心を開いた相手がいるほうが安心なのか、礼美ちゃんがしきりに麻衣ちゃんと一緒に寝たいと主張したので、麻衣ちゃんは二人の隣のベッドで眠ることになった。
 ぼーさんのお札と綾子さんのお浄めで二重に結界を張り、さらには綾子さんが不寝番として付く。
 暗視カメラを設置し、ベースからも厳重に監視するよう徹底した。


 窓から差し込む太陽の眩しさに眼を覚ます。私はその場で背筋をぐうと伸ばした。
「ん〜〜……」
 そこで、はたと気づいた。
 ……私、いつソファーに横になったんだ?
「お、起きたのか」
 固まる私に声をかけてきたぼーさんは、ゆったりと向かい側のソファーに腰掛けてからかうような笑みを浮かべた。
 どうやら私は徹夜しようと意気込んでモニターの監視をしている途中で、眠ってしまったらしい。
 しかも、隣のリンさんに寄りかかるようにして私が寝落ちしてしまった為、仕方なくリンさんが私を抱きかかえてソファーに横たえてくれたそうだ。ちなみに靴を脱がせてやったのは俺な、と呆然とする私にぼーさんはとどめを刺す。
 平謝りするしかない私にぼーさんは鷹揚に頷いた。リンさんはというと気にしなくていいと首を振り、それよりも顔を洗ってきなさい、と無表情に促してきた。
 言われた通り洗面所で顔を洗い、身支度を整えてベースに戻ろうと玄関ホールに差し掛かった時、渋谷さんにジョンさん、ぼーさんがバケツや脚立を用意したりと慌ただしく動き回っていた。
「どうしたんですか?」
「ああ、飛鳥さん。……あれどす」
 ジョンさんの指差した方を見上げて息を呑む。
 吹き抜けになったホールの壁一面に、文字が書かれていた。
『わるい 子には ばつを あたえる』
 拙い子どもの字だ。でも、地面から三メートル近くも高い壁にそれは書かれている。
「麻衣ちゃんたちはもう起きましたか?」
 ついさっき起きだしてきた、と所長が頷いた。
「礼美ちゃんには麻衣がついているが――樋口、お前も念の為についていてくれ」
 例え所長に指示されなくともそのつもりだった。
「分かりました」
 私は神妙な顔で頷いた。


 ジョンさんから三人は外にいると聞いて、ひとまず玄関から外に出ると、庭のテラスの椅子に座る典子さんの後ろ姿が見えた。
「おはようございます。……あれ?」
 小走りに駆け寄ると、礼美ちゃんと麻衣ちゃんの姿だけない。
 首を傾げる私に気づいた典子さんが微笑んだ。
「あら、飛鳥ちゃん。おはよう。花を摘みに行った礼美に、麻衣ちゃんが付き合ってくれてるの」
 私へのお見舞いのお花なんですって。
 擽ったそうにはにかんだ典子さんは、足のテーピングが痛々しかったが、昨日よりは顔色が良くなっている。
「ふふ、そうなんですか」
 そう、私が微笑んだときだ。穏やかな雰囲気を壊すような悲鳴が庭のほうから聞こえてきた。
 これは礼美ちゃんの声!
「礼美!」
 片足飛びの要領で無理やり駆けていこうとした典子さんの背中に慌てて腕を回して補助した。
 支えながら出来るだけ急いで花壇のほうに向かっていると、泣きながら礼美ちゃんが籔から飛び出してきた。隣には籔を掻き分ける麻衣ちゃんの姿がある。
 典子さんが悲鳴を上げた。
「礼美! 待って!!」
 礼美ちゃんは止まらず四阿の向こうに駆けて行く。顔を上げた麻衣ちゃんに、典子さんがほとんど叫ぶように言った。
「麻衣ちゃん、止めて! そっちには池があるの!!」
 なんだって!
 ミニーに謝りながら何かから逃げるように走る礼美ちゃんが、池の傍の繁みを避けるように回り込んで足を滑らせた。
「礼美っ!!」
「礼美ちゃん!!」
 典子さんと私の悲鳴が重なる。
 麻衣ちゃんは礼美ちゃんの後を追って、躊躇うことなく池に飛び込んだ。
「礼美……!」
 取り乱した典子さんは怪我をしていて泳げないのに今にも池に飛び込みそうだった。私は体を張って止める。
「っ典子さん駄目!」
「でも……!」
 ――水深が深いのだろうか。礼美ちゃんと麻衣ちゃんは一向に浮いてこない。ぎりっと唇を噛み締める。その時、私達の横を誰かが走り抜けていった。
 ばしゃん!
 水渋きが上がってはっと冷静さを取り戻す。勢い良く池を見ると、二人が水面から頭を出していた。
「礼美っ!!」
 身を乗り出して典子さんが叫ぶ。あれは……。
「……曽根さん?」
 麻衣ちゃん達は、曽根さんに抱えられるようにして岸まで戻ってきた。


 岸に引き上げられた礼美ちゃんを典子さんが固く抱き締めている。騒ぎに気づいたのか所長たちが駆けつけると、気丈に立っていた麻衣ちゃんはがくりと膝を追った。
「はは、安心したら力が……」
 咄嗟に駆け寄って支えると、麻衣ちゃんは小刻みに震えていた。怪我がないかつぶさに確認する。
「本当に無事で良かった……!」
 私は思いっきり華奢な身体を抱きしめた。わわっ濡れちゃうよ飛鳥、と慌てる麻衣ちゃんの声には聞こえないふりをして。
 礼美ちゃんと典子さんを家に連れ戻し、玄関でバスタオルを構えて待っていた綾子さんとジョンさんに託す。
 水を被って済ませようとした麻衣ちゃんに私は切れた。礼美ちゃんは一階のお風呂に入れるから、二階のシャワー室はお借りしてもいいですよね!? と眉を釣り上げて所長を見ると無言で頷かれる。綾子さんから受け取ったバスタオルで麻衣ちゃんを包み、先に行かせた。
 バスタオルは脱衣場に置いてある筈だから、着替えを取ってこないと。ゲストルームに向かうとチェストを開けて中から適当に麻衣ちゃんの服を引っ張り出した。
 そこでじわじわ後悔が襲ってくる。あんな言い方しなくても良かったんじゃないか。キツく言い過ぎたかもしれない。
 ……麻衣ちゃんを、傷付けてしまった。
 私は麻衣ちゃんが気にしないように手早く着替えを済ませると、脱衣場に向かった。着替えの服をそっと置いて、まんじりともせずシャワー室の前で待った。
「ごめん。……さっきは言い過ぎた」
 出てきた麻衣ちゃんに開口一番に謝る。
 麻衣ちゃんは目を丸くしてぱちぱち瞬いている。そしてううん、とやんわり首を振った。
「混乱して頭回ってなかったから、助かったよ」
 悪戯っぽく笑う麻衣ちゃんに私はほっと息をついた。
 そのまま二人で一緒にベースに向かうと、パジャマに着替えた曽根さんが書斎のソファーに腰掛けて頭を拭いていた。
 麻衣ちゃんは曽根さんの傍に行き、深々と頭を下げる。私も頭を下げた。
「ありがとうございました」
「礼美ちゃんと麻衣ちゃんを助けてくださって、本当にありがとうございました」
 曽根さんはぶっきらぼうに、いやと答えた。
「たまたま、お嬢ちゃんが池に落ちるのが見えたんでね」
「たまたま、ですか?」
 険しい声色の所長に、曽根さんは怪訝そうな様子だ。
「あなたは礼美ちゃんを見張っていた。今回もそうだったのでは?」
「何の話しだい」
「曽根さんは、礼美ちゃんをしげしげと見守っている姿を何度も目撃されているんです。それも物陰から身を隠すようにして。あれはひょっとして、礼美ちゃんを監視していたのではないのですか」
 曽根さんはむっとしたように口許を曲げた。
「この家に何があるんです?」
 渋谷さんが問いかけると曽根さんは不思議そうな表情を浮かべ、ぼーさんは不審気に眉をしかめた。
「あなたはずっと礼美ちゃんに注目していた。曽根さん自身の言を信じるなら、森下家で異変が起こっていることを知らなかったにもかかわらず、です。それはなぜです?」
 所長はここぞとばかりに畳みかけた。
「何か気になることがあったのでしょう。――あなたはこの家に出入りして長い。この家の歴史を最もよく知っている人物です。その人物が、異変の有無さえ分からないうちから礼美ちゃんに注目していた。だとしたらこの家には、礼美ちゃんのような少女を警戒しなければならない何かがあるんです。それは何ですか?」
 追求の手を緩めない渋谷さんが更に質問を重ねると、頑なだった曽根さんがとうとう重い口を開いてくれた。

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