18.望むかたちには滲まなかった跡


「陰謀説って?」
 おうむ返しにたずねた麻衣ちゃんに、綾子さんはむすっとした口振りで答えた。
「義妹と義理の娘が共謀して、気に入らない後妻を追い出そうとしてるって」
「……香菜さんがそう言ってるんですか?」
 二人のやり取りに口を挟む。 
「はっきりそう口にしたわけじゃないわ。ただ、そういうニュアンスだったの」
 異常だって言いながら、どうしても悪戯の可能性を忘れられない感じ。悪戯とは思えないしって台詞を何度も口にするのよ。だから逆に、これは悪戯を疑っているんだなって思ったわ。それも質の悪い悪戯で、このまま放置しておくと、自分の身に危害が及ぶんじゃないかと怯えてる。――いや、質の悪い悪戯をするような悪意を恐れてる、って感じ。
 そう思い返すように喋る綾子さん。所長は肯くと柴田さんは、とぼーさんに訊いた。
「本当は守秘義務の範疇だと思うんだがなあ……ま、いいか」
 ぼーさんは両手を上げると、声を低めた。
「おばちゃんは全てを疑ってる。何かあったに違いないってのが本音だ。その一方で、典子さんと礼美ちゃんの共謀も疑ってるよ。二人が香奈さんに対する嫌がらせで何かをしてるんじゃないか、って可能性。同時にその逆も疑ってる」
「香奈さんによる嫌がらせ?」
「そう。――彼女が本当に怖がってるのはそれらしい。つまり、人間関係が拗れて、このままだと家の中で、本当に不幸な事件が起こるんじゃないか、という」
「虐待の話は」
「出なかったな。でも、何か言いにくいことを隠しているふうではあった。けども、おばちゃんがもっとも気にしていたのは、ここに住んでない役一名だ」
 所長が怪訝そうにたずねた。
「……森下仁?」
 しかし、ぼーさんは首を振る。
「いや、曽根の爺さん。爺さん、ふらっとやってきては、礼美ちゃんをひたすら見てるんだとさ。物陰から、じっと観察してる」
 あ、温度計を車に取りに行った時に、麻衣ちゃんが言っていた……。
 綾子さんの言葉は、今の話を聞いた全員の気持ちを多分代弁していた。
「……なんなの、この家……」


◇ ◆ ◇



 昼食のあと、改めて麻衣ちゃんは典子さんのところへ、ぼーさんは柴田さんのところへ、綾子さんは香奈さんのところへ家の中の人間関係について詳しい話を聞きに行った。
 私はベースに残り、やってきた尾上さんに話を伺う所長の補佐兼モニターの監視係だ。
 それというのも、事前調査で曽根さんの自宅の場所を知っているリンさんが、曽根さんに話を聞きにベースを離れたからだ。
 午後、みんなで顔を突き合わせて集めた情報を整理する。
 全員が、異常現象に怯えている。これは確かなことだ。柴田さんは特に幽霊の仕業だとか、祟りだとかを疑っている。しかしそれは、半ばそうであってほしいという願望が含まれているようだ。
 他の人は全員半信半疑だ。妙なことが起こっているのは間違いないし、気味悪くも感じているけど、ここで誰か専門家が来てなんでもない。気のせいだ、と確約されれば納得出来なくもない。
 だが、何の根拠もなく大丈夫と言われただけでは、夕べのこともあり、もう信じられないだろう。
 そして家の中の空気が不穏で気味が悪い。悪意が充満している気がする、と訴えたのは香奈さんだ。
 誰かは分からないが、何者かの悪意が家の中に漂っていて、それが妙な現象になって現れている、という印象を柴田さんも香奈さんも典子さんも抱いている。
 始まりは引っ越してきてから――これも全員一致する点だ。
「それまでは普通だった、とおばちゃんは言うんだよな」
 そう言ってぼーさんは言葉を続ける。
「引っ越す前には人間関係も別段可怪しくはなかった。もちろん、香奈さんと典子さんの間は微妙だったんだろうが、双方ともそれを表に出したりはしなかったし、表面上は上手くやっていた。それが引っ越してから、何かが噛み合わなくなったんだとさ。まあ、妙なことがあれば気になるだろうし、気になれば当然のことながら気分も尖る。すると人間関係はぎくしゃくするだろうが」
 私と麻衣ちゃんは頷いた。
 典子さんは正直に言ってくれた、と発言したのは麻衣ちゃんだ。家の中に他人が入ってきたわけだから、こちらも気も遣うし、相手だって気を遣うだろう。
 おっとりしたタイプの典子さんと、はきはきした香奈さんはタイプも間逆で、どうしたって噛み合わない部分は出てくるが、それを特別不快に思ったことはなかったらしい。ただ、お兄さんの再婚を機に一時は独立を考えたそうだ。互いに気を遣うことは分かりきっていたから。
 けれど、典子さんはお兄さんが離婚して以来、礼美ちゃんの親代わりで森下家の主婦だった。高校生の頃から家の一切を切り盛りしてきた。それ以外のことが出来るのか不安で躊躇しているうちに機を逃した訳だが、実際お兄さんが再婚してみると香奈さんは自分のお店が忙しくて、結局典子さんが家の切り盛りをする。
 なので実を言えば安心した、と典子さんは言ったらしい。
 逆に香奈さんは、あまり互いに気を遣ってどうこう、ということを気にするタイプではないようだ、と綾子さんは言った。
 最初はお互い気詰まりで当たり前。時間が経てばどうにかなるものだ、と楽観的に構えていたそうだ。典子さんが同居することについては、再婚するにあたって当然そうなるだろうと思っていたから特に居心地悪く感じたことはないそうだ。
 むしろ礼美ちゃんの母親になる訳で、こちらの方が上手くいくか心配だったが、意外と礼美ちゃんは香奈さんによく懐いた。典子さんがいてくれるお陰で結婚前のように仕事だって出来る。不満もなければ不安を感じたこともない。
 ただし引っ越すまでは、だ。
「仁さんが海外に行ってしまってから、ぎくしゃくし始めたんじゃないのか訊いてみたけど、それは関係ないって言ってたわ。旦那さんが出掛けることになったとき、もうすでに嫌な感じはしてたんだって。やっぱりこの家に越してきてから。それはどうやら動かないみたい」
「お兄さんがいなくなったことで、クッションが取れた感じはする、って典子さん言ってたけどね」
 同意した麻衣ちゃんに、訳知り顔の綾子さんが頷く。
「典子さんと香奈さんの間の緩衝材が失くなったんだものね」
 しかし、麻衣ちゃんはそっちじゃないの、と首を振った。
「典子さんによるとお兄さんって大雑把というか太っ腹っていうか、……ちょっと図太いというか。あまり細かないことを機にしないタイプらしくて。妙なことが起こっても気のせいだろうって笑っておしまい。実際それが自分の身に起こっても、勘違いしたって笑いの種にするのが関の山。だもんで、お兄さんがいる間はみんな引きずられてなーんとなく、納得しちゃってたみたいなんだよね」
「あ、なるほど。そういう意味」
 お昼前に綾子さんが言ってた鈍い人ってお兄さんみたいな人のことを言うのかな。
 笑い飛ばしてくれるお兄さんがいなくなって、細かいことがのしかかかるように気に障ってくると、家の中の空気は妙にぎくしゃくし始め。
 典子さんが礼美ちゃんの痣について怖い想像をするようになったのは、このあたりからだそうだ。
「それまでも妙な痣があることには気がついてたけど、ごく普通に怪我したんだろうって思ってたって」
「そっか。――柴田さんの方は?」
 言いながら私はぼーさんに視線を向ける。
「やっぱり虐待を疑ってはいたみたいだな。もっとも痣には気づいてないみたいだったけどさ。とにかくあの子の様子が可怪しくて、気になってたようだ。もともと天真爛漫な子がものすごく暗くなったってえ話だったぜ。どうしたのか訊いても言わない。しかもそれが、言ったら酷いことをされる、という口の噤み方だと言うんだ。ただし、犯人が誰かは確信が持てないらしい。疑わしいのは香奈さんだが、おばちゃんが観察したところどうもそうとは思えない。だとしたら考えにくいが、典子さんか……」
「そんな」
「まさか」
 私達が思わず非難の声を上げると、ぼーさんは肩を竦めた。
「おばちゃんの意見だからな。もともと礼美ちゃんは香奈さんに懐いていたらしいんだよ、再婚した当初。綺麗なお母さんができたのが嬉しくて何かというとついて廻って真似をしたがったんだとさ。だからむしろ面白くないのは典子さんのほうで、典子さんが姪を脅して妙な悪戯をさせているんじゃないか、と」
 これには黙っていられず口を開こうとした私よりも先に、麻衣ちゃんが反発した。
「典子さんは礼美ちゃんを本当に心配してたもん」
「だから、おばちゃんも考えにくいと言ってたさ。親代わりみたいにして育てた姪だから、ものすく可愛がってるらしいからな。どっちも疑わしいが、どうも信じがたい。だからこそ、幽霊とか祟りとか、そういう方面なんじゃないか――そういう感じ」
「そうですか……」
「ふうん……」
 出鼻を挫かれた私はすごすごと引き下がる。ぼーさんは眉をきゅっと寄せた麻衣ちゃんを宥めた。
「香奈さんは礼美ちゃんについて、扱いにくくなったって言ってたわ」
 綾子さんがため息をつく。
「最初は懐いてくれてるふうだったのに、どっかの時点から上手くいかなくなった。反抗期になったと感じることもあったみたい。これも気づいたらそうだった、という感じのようね。始まりがあるとすれば引っ越したあたりから」
 綾子さんは言葉を切ると、ちらりと気まずそうにこっちを見た。
「あんた達は嫌がるだろうけど、時々、典子さんが何かを吹き込んだのかなと思うことがあるって言ってたわ」
 私達は顔を見合わて苦笑した。
「こんな状況だったら仕方ないと思います」
「うん。嫌がってもしょうがないよ。……じゃあ、やっぱり香奈さんは典子さんが何かをしてる可能性を疑ってるんだ」
 みたいね、と綾子さんが頷く。
「ただ、引っ越してまでは典子さんとも決して上手くいってなかったわけじゃない。引っ越してからぎくしゃくするようになって、だから香奈さん的には、引っ越してから典子さんの人柄が変わった、って印象を抱いてるようよ」
「なーんか、ややこしい家だなあ」
 ぼーさんは大仰なため息をついて、んで? 秘書と爺さんは、と話を振った。
「樋口」
「はい」
 渋谷さんに名前を呼ばれる。私は頷いて、書記に徹した際に走り書きしたクリップボードの用紙を読み上げた。
「尾上さんもどうやらお兄さんと同じタイプみたいで、人間関係について深く考えてはいなかったようです。家の中がぎくしゃくしている様子には気づいていたみたいですが、後妻と義妹だから色々あるんだろう、女ばかりの家は大変だな、と言っていました」
「じゃあ、爺さんは?」
 問いに答えたリンさんは、曽根さんは留守にしていて直接話を訊くことは出来なかったらしい。近所の人によれば朝出掛けていたから、多分戻ってくるのは夕方以降だろうと。
 近隣の住民の間では曽根さんは無口で人付き合いは良くないが、不審な挙動もなく全うな人物という評価のようだ。
 曽根さんが礼美ちゃんをこっそり観察している、と森下家の中では柴田さんだけが主張している。
 それからRSPKではないか、と推測するぼーさんや、ポルターガイストとは無関係だとしても虐待を受けているかもしれない礼美ちゃんを放っておけない、と綾子さんは真剣な表情で言った。
 真面目な顔でぶつぶつと児童相談所……いや、病院の診断も仰ぎたいなと独りごちている綾子さんの声を聞きながら、私はアパートの一員であるクリのことを思い浮かべていた。
 母親に虐待されて殺された二、三歳の口がきけない男の子の幽霊。その傍らにいつも寄り添うのは育ての親である犬のシロだ。
 死して尚、母親の妄執によって形を成した穢れをうけて天に昇ることが出来ないクリは、母親の執念が薄れるのを待っている。アパートで暮らしながら何年、何十年後になるか分からない成仏の時を。
 虐待を受けた子どもは得てして心に深い傷を負っている。
 生前愛情を注いでもらえなかったクリは、アパートの住人を始め(自称)パパと言って憚らない夕士くんの親友である長谷さんに猫可愛がりされて、寿荘に預けられたばかりの頃より少しずつ感情を表現することができるようになっていっているらしい。けれど、一般家庭で育った普通の子どもに比べてしまうと、その表情は乏しかった。
 もし綾美ちゃんが虐待を受けているのであれば、医師に見てもらったほうがいいと思う。
 ……しかし、今ひとつ確信が持てない状況だ。

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