00.わたしの涙腺にふれて


 降り積もる雪に飛び散った赤。倒れ伏したままぴくりとも動かない少年。幽鬼のような形相をした女の顔。
 私はただ呆然と立ち尽くしてそれを見ていた――…。


◇ ◆ ◇



 中学の冬休みを利用して、家族揃って母方の実家に帰省していた。実家は地方の山間部にあり、当然周りにコンビニなんて便利なものはない。こたつを満喫していた私は、祖母に頼まれたお使いに難色を示したものの、お釣りで好きな物を買っていいという甘言に釣られて、しぶしぶ心地良いぬくもりに別れを告げた。
 貸してもらったトートバックに財布と買い物のメモを放り込む。セーターの上にダッフルコートを羽織り、手袋を嵌めてマフラーを巻く。足元はもこもこのスノーブーツを履いて完全防備だ。
「いってきまーす……」
 これまでにも祖母の家には毎年帰省していたし、近所の子供と遊びまわっていたので周辺の地理は頭に入っている。
 迷いなく山道を下り、私はざくざくと雪を踏みしめて実家から少し離れた場所にある目的のスーパーに辿り着いた。
「うう、あったかい……」
 さっさとお使いを済ませようと、メモに書かれた物を買い物籠に次々放り込んだ。お駄賃は少し迷ったが、自分用にホットミルクティーを籠に入れて会計の際に少しお高めの肉まんをゲットした。買った物をトートバックに詰めて、支払う際に邪魔だからと外していた手袋をはめ直す。歩く内に緩んでいたマフラーをきっちり結び直し、私は準備が終わると意を決して外に出た。
「ぎゃー! 寒いいいい」
 店内との温度差に小さく悲鳴をこぼして、私は湯たんぽ代わりにホットミルクティーを頬にぴたりと当てて暖を取った。
 上り坂に息が上がる。刺すような風が痛かった。山の上にある母の実家は兎に角寒い。こたつが恋しくてたまらなかった。ほかほかの肉まんを頬張りながら、私は無心になって足を動かし続けた。
 私は祖母の家まで半分ほどの距離を歩いた所で立ち止まると、ホットミルクティーを飲んで一息入れた。気合いを入れ直して、マフラーに顔を埋めて再び歩き出した時。
 キキィー…! ドンッ!!!
 急ブレーキをかける音と――それから何かにぶつかったような、鈍い音が道の先から聞こえてきた。
「……なに?」
 私は不穏な音の正体が気になり、山に沿うようなカーブを急いで曲がった。
「……っ」
 その瞬間息を呑む。私の目に飛び込んできたのは、雪の上に飛び散った赤と、車の中で顔を青褪める女の姿だった。
「あっ……!」
 現実を認識出来なくて固まっていると、女は乱暴に車をバックさせてUターンしたかと思えば、そのまま走り去ってしまった。
 轢き逃げ事件に遭遇してしまったのだ。
「ど、どうしよう……!」
 私はトートバックをそこら辺に放り投げた。ガードレールの端、崖からダム湖に落ちないギリギリの位置で倒れ伏している少年の元に無我夢中で駆け寄った。
「大丈夫ですか?!!」
 私よりも年上だろう男の子は、必死の呼び掛けに応じない。何度か声を張り上げたがぴくりとも反応がなかった。意識を失っているのだ。
 車に跳ね飛ばされたのだろう体はぼろぼろだ。素人目にも怪我の状態は酷く、特に腹部からはどんどん新しい血が流れて雪が赤く染まっていっている。
 半ばパニックに陥る思考とは裏腹に、どこか頭の片隅にあった冷静な部分がつい先日見たばかりのドラマのワンシーンを反芻した。私は雪の積もる地面に勢い良く座り込むと、恐る恐る口元に耳を近付けた。
 ……湿った吐息を微かに感じる!
「っ生きてる……!」
 震える手をポケットに突っ込んだ。引っ張り上げた携帯を開く。ぶるぶると指先が震えて焦点が定まらなかったが、私は何とか電話帳を呼び出した。
「あら、飛鳥? どうしたんだい?」
 やさしい祖母の声に、ひくっと喉が震える。
「っおばあちゃん! 男の子がっ私の目の前で車に轢かれて…! 血、血があ…っ。死んじゃうっ……!!」
 直ぐに電話に出てくれた祖母の声に安堵して、私は喘ぐように訴えた。


 切羽詰まった声にただ事ではないと判断した祖母は、恐怖の余り上手く喋れない私を宥めすかして場所を聞き出すと、すぐに救急車を呼んで現場へと駆けつけてくれた。
 周囲に知り合いらしき人がいない重体の男の子と、私の様子を心配した祖母と二人で救急車に同乗した。
 それから男の子の手術室の前の椅子から梃子でも動こうとしない私を気にかけていた祖母は、出掛け先から連絡を貰って駆けつけた両親に飲み物を買ってくるわねと告げ、席を外した。
 母は実家に寄ってから来たのか、セーター姿の私に持ってきたらしいコートをそっとかけてくれた。隣に座った父が労るように私の頭を無言で撫でる。頑張ったわねと二人にかわりばんこに抱き締められて、私は堰を切ったように涙をこぼして泣いた。
 祖母も戻ってきて、夜の帳が降りる頃。
 唐突に赤いランプが消える。中から手術着姿のお医者さんが出てきた。先生は固唾を呑む私にやさしく微笑むと、口を開いた。
「一時は危なかったですが、峠は越えました。手術は無事成功です」
「よかったあ……っ」
 ずっと神経を張り詰めていた私はやっと緊張から解放されて、涙声で呟いたのだった。


 警察は彼の身内や親族を一生懸命探したが、その捜査は難航している。と言うのも、男の子は轢き逃げ事件に合った時の所持品と、車にひかれた弾みでダムに落ちたらしい鞄の中身を改めても、身元を特定出来る物が何も出なかった、と聞き込みにきた警察官がぼやいていた。
 年も明け、既に都心に帰って三学期も半ばを過ぎる頃。私の元に一本の連絡が入った。犯人が捕まったらしい。あの時は事細かく事情聴取されてへとへとになったが、その甲斐はあったようだ。協力してくれた君のお陰だ、と取り調べを担当していた刑事さんから電話越しにお礼を言われて、照れ臭かったが嬉しかった。
 無我夢中だった私は、実は男の子の顔をよく覚えていない。透き通るような白い肌に、黒髪とのコントラストが綺麗だったことだけは、朧気な記憶の中で唯一覚えていることだった。
 帰省の間、男の子の面会謝絶が解除されることはなく。だから私は終ぞ彼の顔を知らないままだ。

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