春の迷い子、花びらの魔法



 可憐な薄紅が散り、葉桜になって久しいある月曜日のこと。
 慣れない業務を頭に詰め込み、すっかりくたくたになった帰り道。狭苦しい車内の中で、なまえは疲れたように目を瞑った。
 いつものように帰宅ラッシュの波に揉まれながらもどうにか人波を掻き分け、最寄りの駅で降りた。改札を通り、なまえは背中に夕闇を背負って帰路に着く。
 びっしりとメモが書き込まれた手帳に水筒や化粧ポーチ、その他諸々が入った重い鞄を持ち直すと、卸したばかりのトレンチコートの裾を翻すように風が通り抜けていった。
 賑やかな商店街を通り抜け、ようやく覚えてきた職場から自宅であるアパートまでの道のりを進む。
 冷蔵庫は週末に行った買い出しでぱんぱんに食材達を詰め込んだから、スーパーには寄らなくて大丈夫だろう。
 確か卵が特売だったから嬉々として購入したんだっけ……よし、なら今日の夕飯は親子丼にしよう。汁物は……出汁の素をベースになんちゃってお吸い物でも作るか。
「ありがとうございましたー…」
 つらつらと献立を考えながら歩いていたなまえの耳に、爽やかな声が届いた。ちらりと聞こえてきた方を見ると、水色の髪の透明感溢れる紺色のスーツ姿の男性が、口元に笑みを刻みながらこちらへ歩んでくるところだった。片手に持った白い箱を、大事そうに携えて。
 何となく気になって、すれ違いざまに男性が持っていた箱をさり気なさを装ってチェックする。
 あの形状からして……ケーキの箱かな?
「へえ、この辺りにケーキ屋さんなんてあるんだ…」
 就職のために最近この地域に引っ越してきたばかりのなまえに、土地勘はあまりない。
「確かあの曲がり角……」
 家への帰り道にいつも通る道だが、お店なんてあっただろうか。
 訝しく思いながら、すれ違った男の人の姿を目撃した曲がり角に向かった。立ち止まり、きょろきょろと辺りを見渡す。
「……この道かな?」
 曲がり角を左に曲がった先、住宅と住宅の隙間に、まるで隠れるようにして細い路地があった。
 ───この先に何かあるのかもしれない。
 なまえは少しばかり悩み、けれど膨らんだ好奇心には勝てず、路地へと足を踏み入れた。



◇ ◆ ◇



 路地に踏み入って直ぐにひっそりと佇む看板が目に飛び込んできたのだが……。
「うう、読めない……」
 それには達筆な文字で店名らしき外国語の筆記体と、矢印のマークが印されている。
「この先にあるってことだよね……?」
 ふつふつと込み上げる不安と高鳴る期待に苛まれながらも、恐る恐る奥へと進んだ。それから幾ばくも経たないところで、急に広場のように開けた場所に突き当たった。
 なまえは転ばないようにと薄暗い足元を見ていた顔を上げる。瞬間、目を見開いて固まった。
 果たしてそこには、こじんまりとした赤い屋根が特徴的の可愛らしい家があった。
「わぁ…!」
 まるでおとぎ話から切り取ってきたかのようにメルヘンちっくな外観に感嘆の声を上げる。しげしげと眺めていると、家の扉の近くに先程横道に入って直ぐに見つけた看板に似ている物が置かれているのを発見し、近寄った。
 木枠に填められた黒板に、白いチョークで本日のおすすめ商品が書いてある。少し体を屈めて覗き込めば、幸いなことに秀麗な字ではあったが先程のような達筆とまではいかず、今度は難なく読むことが出来た。

″ベルギー産クーベルチョコレートをたっぷり使ったガトーショコラ。季節のフルーツをあしらったタルト。香りが引き立つ抹茶ケーキ″

「おいしそー……」
 黒板を読んだだけでお腹が空いてくるのを感じた。
 今日も一日酷使された脳は、甘味を求めている。
 残念ながら外から店内の雰囲気を確かめようにも白いレースのカーテンが引かれていて、その様子は確認出来ない。
 少しばかり躊躇ったものの、なまえは意を決して不思議な高揚感に震える右手でドアノブを握りしめた。 
 カラン、コロン。
 恐る恐るドアノブを回して開くと、来店を知らせるベルが軽やかに鳴った。
「こんにちは。いらっしゃいませ」
 デザート達がおさめられたガラスケースの向こうで、白いコック帽を被った整った顔立ちの男性がにこやかに挨拶を寄越した。しかしその片目は黒い眼帯に覆われていて、妙に迫力がある。
 でも、その声色はどこか優しい響きだ。
 なまえはそこまで考えたところであまり不躾に眺めるのはよくないと、そっと眼帯のパティシエから視線を外す。
 こんにちは、と挨拶を返してガラスケースに近寄れば意図せずしてほう、と吐息がもれてしまった。
 並べられたそれらは一つ一つが艶々と輝き、とても美味しそうだった。
 やや隙間が目立つのはこの店がなまえが知らなかっただけで実は人気なのかもしれないという理由以外にも、丁度夜に差し掛かる時刻だからというのも関係しているだろう。
 なまえは早速目にも楽しい洋菓子達をじっくりと眺めだす。
 ここはやはり王道の苺ショートケーキか。いや、ザッハトルテも捨てがたい。色とりどりのフルーツが乗ったこのタルトもいいなあ。ダメだ、家に帰って家事をしていたら食後のデザートとして食べる頃にはきっと遅い時間だ。それか夜ご飯を軽い物にして、心おきなく甘味に走ってしまおうか……。さくさくのアップルパイ、生クリームたっぷりのムースもいいなあ。
 うーん、うーんとガラスケースを覗き込み悩んでいると「なかなか決めかねているみたいだね」と柔和な声が降ってきた。
「あ、ごめんなさい……!」
「いえいえ。じっくり選んでくださいね」
 焦って謝るなまえに、迫力のある見た目とは裏腹に眼帯のパティシエは橙色の瞳を細めて笑いかけてくれた。
 その時、店の奥から無機質な電子音が響いてきた。
「あ、電話だ。くりちゃーん! 店番を頼むよー!」
 パティシエが大きな声で店の奥へと呼びかけると、顔を不機嫌そうにしかめた毛先が赤くグラデーションになっている黒髪の、浅黒い肌の少年がカウンターへと出てきた。
「くりちゃんはやめろ。……ご注文はお決まりですか」
 無愛想に話しかけられて、未だに決めかねていたなまえは慌てて答える。
「えーと、このチーズケーキを一切れと……。もう一つフォンダンショコラかクレームブリュレで迷ってて…」
 クレームブリュレは小さなグラタン皿のような器に入っており、その表面は飴色をしている。フォンダンショコラの方はマフィンのような形状の黒いカップケーキだ。
 少年はなまえが迷っているそれらに金色の目を向け億劫そうに口を開いた。
「……チョコレートのガナッシュをふんだんに使っているのがフォンダンショコラ。電子レンジで三十秒温めて食べると、中に入っているガナッシュが絶妙に溶け出して美味い。クレームブリュレは砂糖を焦がしたカラメルの下にカスタードプリンが隠れている。……ちなみにカスタードプリンは、バニラビーンズにこだわっているから風味がいい」
「へえー…そうなんだ」
 淡々とではあったが、無表情の少年がしてくれた意外なほど丁寧な説明に、ますます選びがたくなってきた。
「……じゃあこのフォンダンショコラと……、やっぱりクレームブリュレも一つ下さい!」
「ありがとうございます」
 悩んだ挙げ句に結局三つ買ってしまった。今日の夕飯、親子丼から野菜炒めに変更だな……。
「ありがとうくりちゃん。助かったよ!」
 代金を支払い、選んだケーキ達を箱に包んでもらっていると、先程奥に引っ込んだ眼帯のパティシエがひょっこりと顔を覗かせた。
「お買い上げありがとうございます。お客様はお帰りまでにどれぐらいのお時間がかかりますか? 一時間以上でしたら、保冷剤を入れるんですが……」
 問われて頭の中にここから自宅までの距離を思い浮かべる。
「うーん……十五分くらいですかね。割と近いので」
「お家がですか?」
「はい。最近引っ越してきたんですよ」
「へえ、そうだったんですか。……実は僕らも政宗公のお膝元から出て来たばかりなんです。三ヶ月に、このお店を始めたんですよ」
「えっ! 仙台のお生まれ何ですか?」
 なまえは思わず驚きの声を上げた。
「あれ? ……もしかして、君も?」
「正確に言うと仙台から車で三十分くらいかかる山間の田舎出身ですけれど……」
「それでもすごい偶然だね! いやあ、驚いたよ」
「……光忠、敬語」
「あ! ……馴れ馴れしくって申し訳ありません」
 少年に注意された途端にしゅんとうなだれた眼帯のパティシエに、なまえは勢い良く頭を振った。
「そんな、謝らないで下さい! 私も同郷の方に会えて嬉しいですから! この町には最近越してきたばかりで、ろくに知り合いもいないので……」
 言いながら今度は逆になまえが肩を落として落ち込んでいく。二人はそんななまえの様子に顔を見合わせると、少年は無言で頷き、眼帯のパティシエはにっこりと微笑んで口を開いた。
「僕は燭台切光忠って言うんだ。あまり名字は気に入っていないから、名前の方を呼んでほしいな。見ての通りパティシエで、この店を切り盛りしてる店主でもあるよ。それで、隣のこの子は高校生のくりちゃん。放課後になると店の手伝いに来てくれてるんだ」
「誰がくりちゃんだ。××高校二年、大倶利伽羅広光。……広光でいい」
「君の名前も教えてくれるかな?」
「? みょうじなまえ……ですけれど」
 いきなり始まった互いの自己紹介に戸惑いながらも流されるままに名乗ると、眼帯のパティシエ───燭台切は満足そうに頷く。
「なまえちゃんだね。よし、これでもう僕らは知り合いだよ」
 この町でのなまえちゃんの知り合い第一号と第二号だね。
 冗談混じりに自身と大倶利伽羅を順に指差した燭台切に、なまえはやっと合点がいく。
 そして頬を真っ赤に染め、じわじわと口角を持ち上げて、満面の笑みで頷いた。
「はいっ!」
「───なんだ。随分楽しそうじゃないか」
 ドアベルが来客を告げた。プラチナブロンドの髪にグレーのスーツを着こなした男性が店の中に入ってきた。
「暫く振りだな」
「鶴さん!」
「国永」
 二人はガラスケースから出て来て、男性を出迎えた。
「元気だったかい、二人共?」
「…ああ」
「うん。鶴さんは?」
「俺は相変わらずさ」
 どうも知り合いらしい三人が和やかに会話する様子を眺めながら、おろおろと自分はお邪魔だろうかと所在なさげに立っていたなまえに、プラチナブロンドの男性は一通り挨拶を終えるとそれで、と視線を向けた。
「あちらのお嬢さんは君たちの知り合いかい?」
「うん。ついさっき知り合い第一号になったばかりなんだよ。ね、なまえちゃん」
「は、はい…っ」
 燭台切が発した″知り合い第一号″に、はにかみながらなまえはこくんと頷いた。
「知り合い第一号?」
 スーツ姿の男性が疑問符を飛ばす。
「ちなみに二号はくりちゃんだよ」
 矛先を向けられた大倶利伽羅もあっさりと頷いて同意を示す。
「……ふむ。何だか面白そうだな! よし、じゃあ俺は三号にでもなるか」
 男性は儚げな外見に反して快活に言うと、なまえに向き直り名を名乗った。
「俺は鶴丸国永。職業はデザイナーだ」
「ええと、みょうじなまえです。……事務の仕事をしています」
「そうか。よろしくな!」
「は、はい! よろしくお願いします……!」
 差し出された鶴丸の手を握り、握手を交わしながら一気に三人も"知り合い"が増えた……! と、なまえが内心感動していると「で。その何号っていうのはどういう意味なんだ」と最もな疑問を投げかけられる。
「……私、最近この辺りに引っ越してきたばかりで知り合いがいないんです。その話をしたら光忠さんと広光くんが、じゃあ僕達が私の知り合い一号と二号だねって言って下さって……」
「なまえちゃんも政宗公のお膝元出身って聞いたら、親しみを感じてね」
「おっ、同郷かい?」
 蜂蜜色の瞳を丸くしてこちらを見る鶴丸に、なまえは慌てて訂正した。
「あの、でも正しくは仙台から車で三十分ほどの田舎出身なんです……」
 しょぼんと肩を落とすと、元気だせと言わんばかりに大倶利伽羅の手が左肩の上にぽすりと置かれる。
 最初になまえが大倶利伽羅に抱いた印象は無愛想な子だった。が、今ではさり気ない気遣いの出来る、口数が少ない良い子に塗り替えられている。
 なまえはありがとう、ともごもご呟きながら今時の男子高校生はすごいなあ、と密かに感心した。
「あはは。ちなみに、鶴さんも仙台出身なんだよ」
「え! ……そうなんですか?」
 ああ、と鶴丸はすんなり頷く。
「住んでいた町が違うとは言え同郷のよしみだ。俺のことは親しみを込めて国永か、鶴さんとでも呼んでくれ!」
「ふふ、はい。……鶴さん」
 おどけたようにぱちりと片目を瞑った鶴丸に、なまえはくすくすと笑いに襲われながら答えた。
「……ところで、三人は昔からのお知り合いなんですか?」
 笑って緊張も解れたなまえは、仲睦まじい三人の様子にずっと気になっていたことを思い切って訊ねる。
「ああ。こーんな小さい時から知ってるぜ」
 鶴丸は言いながら手を腰よりも下にして垂直に置いた。
「僕達は昔から鶴さんにお世話になってるんだ。まあ僕よりもくりちゃんの方が付き合いは長いんだけどね。ちなみにこの店のデザインを考えてくれたのも、鶴さんなんだよ」
「ええ! こんな可愛らしいお店のデザインを……?」
 驚きの事実になまえが目を見開くと、鶴丸は何てことないように答えた。
「洋菓子店だから女子供の受けがいいようにしたんだ。細い路地を抜けた先にこんな店があるなんて、驚きだろう?」
「はい! それはもう! まさか狭い路地を進んだ先にこんな西洋の御伽噺に出てくるような赤い屋根のお店があって吃驚しました。非日常を冒険しているみたいで、楽しかったです!」
 あの不思議な高揚感とわくわくした気持ちを呼び覚まされて、なまえは瞳をきらきらと輝かせる。
「ははっ。そんなに喜んでもらえたならデザイナー冥利につきるな」
 鶴丸はそれを見て嬉しそうに眦を緩めた。
「……なまえ」
 ずっと無言でやり取りを聞いていた大倶利伽羅が、唐突になまえの名を呼んだ。
「なあに?」
 どうしたのとなまえは首を傾げる。
「時間、大丈夫か?」
 大倶利伽羅は注意を向けるように店内の柱時計を指差した。
「わっ、もうこんな時間!」
 つられて店内の時計を確認すると、店に入ってから四十分以上も時間が経過していた。
「……ほら」
 大倶利伽羅が渡してきたのは、なまえが悩みに悩んで選んだケーキ達が丁寧に詰められた白い箱だった。
「ごめんなさい、すっかり長居しちゃって……」
 礼を言って受け取り、眉を八の字に下げて謝ると気にするなと大倶利伽羅は無言で首を振る。
「ううん。こちらこそ、長々と引き留めちゃってごめんね」
 燭台切には申し訳なさそうに謝られてしまった。
「……光忠の話が長いから」
「確かに、光忠の話は長いな」
 ざっくりと言い放った大倶利伽羅に鶴丸もからかうように乗っかると、燭台切はええっ、くりちゃんも鶴さんも酷い!! と盛大にショックを受けていた。
「ふふっ」
 三人の和気藹々としたやり取りに堪えきれずに笑みをこぼす。すると、まあでもとこちらを意味ありげに窺った鶴丸が口角を吊り上げて目映い笑顔で宣った。
「───可愛らしいお嬢さんと知り合えたし、結果良かったんじゃないかい?」
「あはは、確かにそうだね!」
「……」
「ぅえ!? や、あの……」
 可愛らしいという言葉をさらりと口にした鶴丸と、それにあっさりと同意する二人にすっかりなまえは動揺して舌を縺れさせる。
「わっ私も! ……三人と知り合えて、本当に良かったです」
 そして視線を落ち着かなくさ迷わせながらもなまえが消え入りそうな声で呟くと、光忠はにっこりと微笑み、大倶利伽羅は分かり辛く口端を持ち上げて、鶴丸は楽しそうに相貌を崩した。


 辺りはすっかり日が暮れていた。家の近くまで送るという燭台切の申し出を近いから大丈夫と固辞すると、ではせめて路地の外まで見送らせてくれないかと請われた為、なまえは燭台切とそれに賛同した二人と共に外に出た。
 路地を抜けると、なまえは深々と頭を下げる。
「今日は本当にありがとうございました」
「そんな、こちらこそお買い上げありがとうございます。お口に合うといいんだけれど……」
 緊張しているのかぎこちない笑顔を浮かべる燭台切の背中を、解すように鶴丸が軽く叩く。
「光忠の作る物は何でも美味いからなあ。見た目も良いが、味も俺が保証するぞ」
「えへへ……。帰ってから食べるのが楽しみです!」
 ゆるゆると締まりのない顔で笑うなまえに、大倶利伽羅が小さな声で囁いた。
「……また来いよ」
 照れているのか言うなりそっぽを向いた大倶利伽羅に、なまえは勢い良く首を縦に振った。
「……うん! ではこの辺で失礼します。それじゃあ、また」
 優しい笑顔の光忠と、無表情ながらに小さく片手を振ってくれる大倶利伽羅。それとにこやかに大きく手を振る鶴丸に見送られながら、なまえは最寄りの駅で降りた後とは打って変わった軽い足取りで、秘密の隠れ家のような可愛らしい洋菓子店を後にした。
「……素敵なお店、見つけちゃったなー」
 手に持った小さな箱にちらりと視線を流し、なまえは弾んだ声で呟く。
 憂鬱で仕方がなかった月曜日も、これからは楽しくなりそうな予感がした。


 それから何事もなく家に帰り着くと、米を炊いて手早く夜ご飯(贅沢をしたので結局野菜炒めと豆腐の味噌汁だ)を作って片付けた。湯を沸かして食後のコーヒーを淹れ、楽しみにしていたケーキ達を箱から取り出す。
 フォークを握り締め、ドキドキしながら口に運び。
「わああ……!」
 期待していた以上の美味しさに、なまえは感動のあまり打ち震えるのだが。
 それはまた、別のお話。

title by リラン
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