黒い髪、黒い衣服、目印のような紅の瞳。
――あなたは何をしにわたしに会いに来るのですか?



≪06≫



帰宅して、犬を部屋に離す。
時間が時間なので腹をすかしているのだろう、リビングへ駆けて行った。
靴を脱いで後を追うと、その犬に餌をやっている波江が視界に映る。


「ただいま」


わざと挨拶をかわしてみようと試みてみるが、彼女は視線を向けるだけで言葉を返す気配はない。
それに肩をすくめて残念さを表してみる。しかし彼女は相変わらず犬しか見ていない。

――俺がこの犬を飼い始めたのは、言うまでもなく志紀に近づくためだ。散歩は面倒だが、自然に近づくには都合がいい。
それに際して、男の俺が選ぶよりは女の波江が選ぶ方が好みに近いかと思って彼女の好きな犬種を買わせてきた。
だから、こうして波江は甲斐甲斐しく世話をしてくれている。
それこそ、俺以上に。…まあ、弟以下ではあるんだろうけど。

愛玩用犬種だというだけあって懐くのも早く攻撃性もないのでそういう意味では扱いやすい。
世話はほぼ波江がしているし、俺は散歩の時に連れていくくらいだ。

――彼女と会うようになってから、そこそこ経つ。
しかし今日も特に大した収穫はない。
ただ、シズちゃんが気を許すくらいなので一風変わっているのは理解した。
それ以外は特に何もない。
口数が少ないのであちらから話題をふられることがないのは少々面倒だが、女性にしては珍しいタイプだとは感じる。


「で、波江。調査はどうだった?」
「ちょっと用事が入ったから、三時まではやっておいたわよ」
「何、弟くん?」
「そうよ」


俺は一日中見ておけといったのだが、どうやら弟の存在にはかなわないらしい。
仕方がないのでそれまでの報告を聞いておこうと、続きを促した。


「朝の八時に家を出発。30分ほど歩いて大学へ到着。その後は普通に講義を受けているけれど、態度自体はまじめだったり遊んだりしているわ」
「おや。遊んでるって、ゲームでもしてるの?」
「ゲームをしている素振りは見られなかったけれど、紙に書いてるのは文字じゃなかったわ。遠くて何かは確認できなかった」
「ふぅん」


そう淡々と告げる波江。しかし視線は犬に向いている。
興味も嫉妬も浮かばないので、体勢だけ変えて続きに耳を傾ける。


「二限で終わり。昼ご飯は帰宅して自炊。そのあと池袋をうろついていて、途中で平和島静雄と会って話をしていたわ」
「シズちゃんと?」
「ええ。会話自体は他愛もないものばかりでネタにはならないわね。ただ、やはり平和島静雄のうろたえぶりは結構なものだったけれど」


それは傑作だ。カメラでも持たせていけばよかっただろうか。
でもシズちゃんの写真なんてほしくもないので、考えるのをやめる。


「平和島静雄が仕事中だったのもあってか、会話時間はそんなに長くなかったわ。それから彼女は本屋めぐりを開始。五件目までは見張っていたわ」
「五件とか、何か探してたのかな」
「さあ。ただ、五件目に関しては一時間ほどしか見張っていないからよくわからない。一応、用事が終わってから戻ってきてはみたけれど案の定いなかったから追跡はしていないわ」


そう、と短く言えば、彼女は言葉を紡ぐのをやめる。
その後どうしていたかは知らないが、そこで三時というなら俺と会うまでの数時間は何かをしている。
五件目で一時間費やすくらいなのだからまだ何かを探しに行っていたのかもしれないが、公園で会った彼女が持っていた冊数はそんなに多くなかった。
何を探していたのか。公園で中身を聞いてみればよかっただろうか。まあいいけど。

…聞いてみたものを照らし合わせてみても、あまり収穫はない。
そう、良い情報も悪い情報もあまりないのだ。
年齢的に言って、幼稚なことはないにしてもまだ何か悪い情報が転がっていそうなものなのだけど。どうしたことか出てこない。
いつもなら面白みに欠けると思って終わりそうなものだが、この女はどこか気になる点を持っている。そう、水面下に何かを隠している、白鳥のような。
それに、俺が最初の調査で知り得たネタがまだ明確になっていない。

ままならないのが人間だ。
その中でも、この女は特にままならない。
今までのヤツみたいに、揺さぶりにくい。

…そこで思い至る。ああ、揺さぶってみればいいなと。
俺が動いてみるか。周りをそう差し向けてみるか。
考えて、ガラスの向こうの空を見上げる。何を示唆しているのか、淀んだ曇天だった。