「ぼくがまもってあげる」
  ―――ありがとう、

「私は君の赤い瞳が好きだからね!」
  ―――うれしい、

「あなたのお兄さん、殺されるんですってね」
  ―――、……





Sorrido

漆黒に透ける






僕はいつだって、自分が嫌いだった。
兄さんを痛めつける輩も、
重労働する理由も、微笑む理由も
あまつさえ、苦しい表情で僕を包む理由すらわかっていた。

でも、僕は。
嫌いな自分を罵ることも、
重労働を止めることも、微笑む兄さんを見ていて苦しいことも、
苦しめていながら我慢する兄さんに怒ることすらできなかった。

怖かったわけじゃない。
ただ、僕が僕を罵れば兄さんは悲しむし、
がんばってくれる兄さんを止めることも、真心を向けてくれる笑顔も、
苦悶する兄さんにかける言葉を自分が持たないこともわかっていたから。

敢えて怖かったと形容するのなら、


僕が僕を見捨てることで兄さんが傷付くことが、なにより怖かった。





「禍罪の子」
そう、生まれたときから言われてきた僕には、兄さんだけが世界だった。
最初は、ぼくが赤い眼で生まれたことが悪いんだと、思っていた。本当に。
僕の赤い眼が悪いのなら、これを無いことにしてしまえばいいとおもった。

でも、そう兄さんに問いかけてみたけれど
兄さんは悲しそうに表情を歪ませた。
「そんなことしないで」と、言われた。
僕が自分の目を刳り貫くことが、兄さんを悲しませるのだとおもった。

死のうとも思った。
僕が生きていなければ、禍いもなにも関係なくなるのだから。
でも、僕が自らやると兄さんが悲しむから
自分がやっていないように死のうとした。
けれど、結局は出来なかった。
だって、兄さんは見知らぬ動物が死んだだけで泣くほどやさしい。
どんな死に方を選んでも、兄さんが泣くことには変わりがない。
僕が死んだら兄さんが悲しむんだと思うと、できなかった。
…僕は死ぬという選択肢すら、選べなかった。

そうして僕は、死ぬことを諦めた。
目の前にいてくれるだけでいいと言ってくれる兄さんが、純粋に好きだった。
周りは僕を気持ち悪い、禍々しいと言うけれど。
にいさんだけは、僕を大切だといってくれる。
僕は兄さんに大切にされているのだから生きていないと、とおもった。





僕は兄さんが心配だった。
いつも起床は早く、帰りは遅い。
疲れきった表情で帰ってきては、ただいまと笑う。
そこの給金でないと今の生活が維持できないのだと僕はしっている。

けれど、にいさんの顔や腕には痣があった。
明らかに殴られ、叱責されているのだとわかる。
それでも兄さんは微笑む。
「ヴィンスが大事だから」と、疲労した笑顔で。

とても心配だった。
けれど、それしか今の僕らには手立てがない。
がんばってくれる兄さんに、疲れて帰ってきた兄さんに、僕の一方的で感情任せな言葉を浴びせることができなかった。
ただ、小さく「おかえりなさい」と呟くことが、精一杯だった。





ある日、ぼくは強い悪夢に襲われた。
いつだって怖い夢ばかりだったけれど、兄さんが傍にいてくれるから、数日で落ち着けた。
けれど、この夢はほんとうに怖くて。
今までの「兄さんがいなくなる」「何かに追いかけられる」などの夢ではなくて
「兄さんが死ぬ」夢だった。


怖かった
怖くて、怖くて、怖くて怖くて怖くて怖くて


眠ることも怖くて、兄さんが働きに出た後で一人泣いていた。
人間に近い姿なのに、どろどろで形がない。
兄さんだと認識できるのに、それは異形だった。
それが僕に向かって手を伸ばしてくる。
苦しそうに。
それを怖いとおもった。
それが兄さんなのに怖いとおもった。
そんな僕に吐き気さえした。
なんでこんな夢をみるの?
なんで毎日みるの?
怖くて動けない僕に、それの手が伸びてくる。
どろどろして、血なのか肉が溶けたものなのかわからない液状の手が、伸びてくる。
眼は窪んで暗く、空ろだった。


いやだ、いやだ、
たすけてにいさん、


目の前にいる異形が兄であるのに、兄さんに助けてと叫ぶ。

けれど声にはならず、空気が喉を傷付けるだけ。
喉を癒すはずの水は、目からとめどなく溢れる。
それを認識しただけで恐怖と吐き気が増す。


怖かった。
怖かった。
怖かった。


爆発した恐怖が叫び声となって、路地裏に響いた。
金切り声に近いそれは、丁度帰ってきた兄さんが聞いていて。
眠りながらパニックを起こした僕を、必死に兄さんが起こしてくれた。

…その日から、僕は気分も体調も悪くなった。
幻聴などの類はなかったけれど、兄さんといるのすら怖くなった。
一緒にいたら、幻視で兄さんが死んでしまうのだ。
悪夢が根を引いているのだと、わかっている。
けれど僕の認識や意思とは関係なく、それは視える。
ある時は圧死、ある時は轢死、ある時は…
気が狂いそうだった。
けれど、ぼくはしっている。
僕が狂えば、きっと僕は僕を傷付ける。
僕が自傷することを、兄さんは悲しむ。
毎日、それだけで幻視の圧力に耐えた。

けれどそれは根強く、夢に姿を伴って現れた。
それは僕の不安ばかりを煽る。
それは、僕が心を棄てれば楽になると言う。
僕が兄さんを嫌えば楽になると言う。
でも、僕はいやだと言った。
僕が僕を見捨てれば、悲しむのは兄さんだと。
苦しくても、そんなものには屈しないと。
祈りすら込めたそれに、涙を流しながら言葉を力任せに押し出す。
それは嗤って言った。


「じゃあ、自分を傷つけることすらできない子になるんだね」


その言葉の意味が、わかってしまった自分が怖かった。





かくて、僕は今ここにいる。
兄さんが望んだように。身体も心も傷付けることなく。
僕には、自分が大切であるという実感がない。
周りから非難されて育ってきた僕に、自分の価値を付与するのは兄さんだけしかいない。
だから、僕が僕の価値を認識するには、奇しくも兄さんという媒体がいなければ認識不可能な状態ということ。

僕には、一般倫理がわからない。
僕の良い部分悪い部分を反射してくれる人間がいないから。
だから、この歳になったいまでさえ、兄さんが居なければわからない。
一人で出来るようにならなければとは思うのに、そうするには今急かずに兄さんに頼る道が最短でしかないと理解する。

周りの助力は、期待できないほど乏しい。
みんな僕を怖がる。あるいは嫌う。
精一杯身につけたはずの笑顔ですら、帽子屋さんには嫌われてしまった。
結果、僕の周りはサブリエに居た頃と何も変わらない状態だった。
みんなが僕を恐れ嫌う。



…僕は、いつだって自分が嫌いだった。
何をすれば誰が傷付くのか、わかる自分が。
他人の言葉に含まれる嫌悪を理解できる、自分が。
そして説明しても、個々の価値観の概念上理解してもらえないとわかる自分が。

わかりきっている。
すべてわかるとは思わないけれど、わかる。
だから、僕は過ちを実際に犯して間違いに気付くということが殆どない。
そうして傷を晒せなくなっていることがわかっていても、もうどうしようもない状態であることすらわかっている。
それが積もれば僕がおかしくなることも、理解している。
けれど、自分だけでは打開できず、借りるべき他者の手はない。
そんな自分が、大嫌いだった。


―――だって、結局は兄さんを悲しませてしまうのだから。


自分で自分を守れない。
最善を選んでも、そこにあるのは兄さんの涙でしかない。
その終焉をわかりきっているのに、その道を歩んでいる。
僕が今できるのは、自分に負荷がかからないように笑うことだけ。
それが逃げなのだとしても、逃げずに負うものよりは軽いのは確かだった。


たすけてと、悪夢を見て泣いた日のように助けを求めることが
僕にはもうできない。








Sorrido
―――まるで、傷をつくらない自分を嘲笑うように



製作 2009/07/11