空契 | ナノ
38.On my way home, (5/6)

    
   
    

ゆったりとした、エンの声が、響き渡った。
町中にだ。
俺の頭の中だけで弾けて反響したのではない。響く。響く。響く。響く。響く。町中に、茜色に、光に、闇に、影に、記憶に、この世界に、空に、
息を飲んだ。耳を塞ぐこともできず立ち竦む。子供の時間を終わりを告げる、嫌っていたあの町中に建ち並ぶスピーカーから流れ出していた、あのメロディとそれはどこか似ていたのだ。

と、次の転瞬、後、

ざざざざざざざざざざざざざざざざ、
爆発したように機械が狂ってそれは掻き鳴らした。ノイズ、ノイズ、ノイズ、ノイズ。
ノイズ、ノイズが、ノイズが雑音が、世界を茜色を掻き消そうと、俺の意識を覆った。

「や、だ……やめろ………エン……!」

頭の中でノイズがうるさいノイズが声が誰かの声が聞こえる知らない知らない知らない知らない声だやめろやめてやめてやめて。

「お前も分かってんだろ」

頭を押さえ込んで震える足を後退させる。後ろへ。エンの光に溶けた笑み、輝く茶色の、眼、嫌なのに、嫌なのに、嫌なのに、

「夢はそいつにとって大切なものを観せるんだよ」

眼が逸らせない。

「そいつにとって……お前にとって、その夢は、ただの夢じゃない」

耳を塞げない。


「なぁ、レオ」


なにが夢で、なにが現実で、
なにが忘れていて、なにが覚えているのか、分かってんだろ。


なぁ、レオ。


「っ………!」


跳ねた心臓と呼応するように、ノイズが木霊した。
誰もいないこの、俺と、エンしかいない、この町で。
ああ、逃げ出そう逃げ出してしまえ聞こえないふりを知らないふりをそうだまだまだまだ間に合うだろうほら!

「“振り向くな”」
「!」

叱咤して無理矢理足を後ろに向けた。向けたのみで上半身はその注がれた視線で凍り付く。動かない。
聞こえたのは、前を向けと呟く、優しいのにどこか有無を与えない声。

「俺はそう言った」

───忘れることも、人の力だと彼は言った。

「それがお前にとって重みなら、
いい記憶も、嫌な記憶も、どうせ過去だ。
捨てちまっても、いい」

残酷な、優しさを囁いた。

「けどな、
忘れちまったとしても、記憶が零になる事はねぇ」

すべて無かったことにするなんて不可能だ。
淡々と、彼は口にする。
俺にとっての絶望を。

「夢ってのはその捨てちまった記憶が、てめぇの足を引っ張って形になるんだよ」

つまり? どういう事か。
ああ、そんなの聞くなよと笑った。どうせ解っているんだろうと。
否定もできず、肯定もできない俺に、微笑む。


「お前は、ずっと後悔してたんだろ?」

───すっ、と、茜色が消えた。

「後悔する生き方は無駄っつった俺の真似でもして、
後悔してないふりをして、」
「ぇ、ん、」

太陽が消えた。
沈んだんじゃない。
消えた。

「ッエン!」

エンの足に影が忍び寄る。訪れたのは夜なんかじゃなくて静寂。全ての崩壊。俺の世界の死。

そうだ、そうだ、そうだ、そうだ、そうだった。
ずっときづいていたんだ。ずっと分かっていたんだ。

───くすり、
陰って見えない。でも、微笑んで、手を伸ばしてきたエンが確かにいた。
何も考えれず反射的にだ。俺は弾かれたように俺は地面を精一杯蹴る走る駆ける届け。
この、手よ、届け、と、伸ばす。

「だから」

届け。

「俺が此処にいる」


今度こそ、



「だから、
こんなくだらねェ“夢”を視るんだよ、お前は」



届け。
願った手は、溶けて、解けて、熔けて、融けて、とけ、て、



「これは、夢だ」


お前の、未練を具現化した、悪夢だ。



───ああ、わかっていた。

わかっていた。
覚えていたんだ。
覚えていたことに気付いてしまったんだ。
気付いてることに気付いてしまったんだ。



こんなの夢だ。



一生叶うことなんてないと知っていた。
ずっと夢描いてきた、俺の、記憶の破片。
ただの、幻。

知っていたくせに。

「いやだ……いやだよ……!
やだ、やだ、やだぁ……!」


俺を置いていかないで、エン。
惨めに、理由も解らないまま、俺はすがり付くしか、ない。







───レオ、?


……ふと、暗闇の中で、声が聞こえてきた。
その声に向かって手を伸ばした。無我夢中に。そうしてやっと指先が、確かに温もりに触れたんだ。夢みたいな不確かではなくて、ちゃんと、あたたかい、
やっとの思いで掴んだ手を、離しまいと握るとその手がぴくりと震えていた。でもそんな事に気付かず俺は、閉じていた瞼を震わせて叫んだ。

「え、ん……えん……まって、エン、行かないで、おねがい、えん」

動揺しているのが見てとれた。ぼやけた視界で、そこで立ち竦む彼が、言葉もなく立っていた。
どうだって構わないと思ったのだ。   
ただ彼が居なくならなければ。
この手が届けば。
その手を掴めればどうだって、

“あの時”、
“あの夢の中での俺達”が、
幸せならどうだって、よかったんだ。
  
「レオ」

知らない声が俺を呼んだ。どうでもいいと思った。どうでもいいと。心底思った。

「レオ…」

俺と、彼を繋ぐ手に、黒い手が乗せられた。
夢心地の中で声がした。「気付いてるんだろう」と、囁く声。

「───こいつは、エンじゃない」
「…………、……?」

なにを言っているんだ。眼を、見ひらい、た。
見開いた。
意識を取り戻す。
覚醒させた。
手が触れている。温もりがそこにある。
その事実が、リアルティを伝える。
眠っていた、脳に。

───あぁそうかと、妙に冷えきった頭で納得していた俺の手を、そいつは振り払う事も掴み返す事もしない。
───アイク、は、
ただ、碧眼を揺らして、息を溜め込んだような表情で、俺を見下ろしていた。

碧眼と、この、空色という空虚な眼が、ぶつかり合う。
ただその行為。意味なんてなかったんだ。俺もあいつも、伝える言葉なんて、なかった。

俺の手を、アイクではない男が掴み取って和って入ってきた。
その空しいだけの空間を遮るように、視界に現れたのは、銀髪の青年。右眼は前髪で隠されていたけど、晒されているアクアブルーの眼を伏せた。
誰だかわからなかったのも最初だけ。段々と記憶が思い出されていく。覚えていた記憶を、全て頭の中で再生されていく。この青年は、味方だとまず答えが出た。

そして俺は今、白いシーツのベットに寝かされている。
汗が全身を伝っている。
シーツの間から、俺は、手を伸ばしていたんだ。
アイクに。

エンなんかじゃない、彼に。

ああ、わかっていたというのに。

「…………」

アイクは視線を逸らした。前髪で碧眼を隠して、口を強く閉ざした彼の、解放された手は、宙ぶらりん、行き場をなくして、空中をさ迷っていた。
一瞬、それが俺へと向いた。一瞬だ。ピクリ跳ねた指先が俺の髪に触れる直前で、彼は踵を返して歩き出した。

…………あれはアイク。エンなんかじゃない。俺は、夢を視ていたんだ。
それを分かっていても、どうしてか、この自分の言葉も凍り付いたまま音になることもないを

彼の、あいつの小さく見えた背が遠ざかるのを、この部屋の扉の向こうに消えてしまうのを、黙ってただ見送っていた。だけ、だった。

アイク。
その名前を忘れた訳じゃなかったのに、何故か喉の奥にこびりついて息もできず口にすらできなかった。

「レオ、……すまなかった」

茫然としていた俺の頭を、その青年が撫でた。赤色のマフラーで覆っていた口元を僅かに綻ばせると、彼が覆い被さるように包んてくる。

彼に、名も知らぬ、銀髪の彼に、抱き締められていた。
それに対して、なにか反応をすべきだった。へらりと笑うとか、恥ずかしがるふりをするとか、なんだか、色々今までの自分にはあった気がする。気がするのだけど。

「……」

ぼぅっとしたまま、体が動かない。
頭の中は空っぽ。
ぎしぎしと軋む体の感覚がないみたい。
深い、海に沈んだみたいな。

「……」
「レオ。」
「………」

「頼む。
泣いてくれよ」

……?

「悲しいのなら、泣いてくれ」

懇願するような声。
なにを言っているのかがわからなかった。

「ずっと、悲しかったんだろ」

なにを、

「ずっとずっとずっと、
忘れてた、んだろ。
……痛みを、忘れてたんだろ。
なくしたつもり、気づかないフリ、してたんだろ」

なにが、

「思い出して、辛いんじゃないのか…」

どうして、

「……っ、
なんで、お前はいつも、泣かないんだ」

泣く? なにが? どうして?
泣きそうなのは、アイクだった。泣きそうなのは、いや、泣いているのはこいつだった。
強く抱き締められた。圧迫感に息が詰まる。それでも、それすらもどうでもよくて、




彼が、なにを言っているのかわからない。どうしてアイクがあんな顔をしたのかわからない。俺がどうしてきつく抱き締められているのかわからない。

「(悲しいってなんだ? 痛みってなんだ? 辛いってなんだ?)」

わからないふり。しらないふり。
いや、違うんだ。

「(ほんとうに、ほんとうに、わからないんだ)」

───頭の中、巡る記憶で、
アースと名乗った男の笑みと、緑色の笛のペンダントだけが、クリアに残っていた。

「(ほんとうに、わからないんだ)」


   
    
    

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