36.静寂 (3/6)
ドクリ、
全身の神経が、血液が、感情が全てが揺さぶられ、ぞわりと肌が粟立つのを感じた。
降り注いできた声と共に、意識が───プレッシャーが、全てのし掛かってきた、のだ。
あの黒コートを再度視界に入れる間もなく、背後から静かに風を斬る音が聞こえた。
「レオ!」「っな、!」
後ろの気配に振り返る暇も、突き出された赤いハサミのような腕を避ける暇もなにもない。
アイクに腕を引かれたときには、俺の肩から紅が吹き出していた。
なにが起こったのか分からない一瞬の出来事で、肩から胸元にかけて鋭利なもので切り裂かれた。アイクに助け出されたものの、肩から出血した。その紅が地面に落ちるよりも早くアイクが行動に移す。
「くそっ!」「アイクっ、ダメだ!」
片手で庇われた俺が咄嗟に止めるも、既に舌打ちと共にエナジーボールが放たれていた。
だが俺の危惧した通りその攻撃はかわされる。前触れもなく斬り付けてきた赤は軽々と飛ぶと、刹那、姿を消した。一瞬だった。次気配を残したのは背後でアイクが敏感に反応する。
しかし、また刹那に消え、
「右だ!!」
「っくそ!」僅かに聞こえた羽音に構えた。衝撃。『ほぅ…』静かな声と対照的に荒々しい攻撃にアイクは受けきれず、俺を抱えたまま後ろに圧された。
頬を斬ったらしいアイクが方膝をつき、睨み付けた相手は、ふたつのハサミを持ち赤色の体、そして黄色の目で俺らを見下ろしていた。
『…うむ、それなりにやるよう』
───アイクが押される程の素早さと、力を持った───ハッサム。
そいつは、値定めするかのように俺とアイクを見る。その様子に隙はなく、反撃のチャンスは見当たらない。
そして、それがあったとして、どうすればいい。いや、そもそも、だ。
「……なんだ、あんた」
突然攻撃してきて、なんだと言うのだ。
肩を押さえながら問う。何故、何故唐突に攻撃されなければならない。
しかも、今の攻撃はただの攻撃ではない。
「───娘よ」
ど くり、
後ろから、聞こえた男の声が、震わ、す。
「知っているか。
世界の始まりを」
掛けられた声に、時が止まったように感じた。
「このテンガン山はシンオウ地方の始まりの場所。
そのような説があるようだ」
どく、ん、どくん、どく、ん、どく、
加速する心拍、
響く、響く、響く、甲高く、響く、警鐘。
ここにいてはダメだ。ここにいてはダメだ。ここにいてはダメだ。ここにいてはダメだ。ここにいてはダメだ。今すぐ逃げないと。今すぐ今すぐ今すぐ今すぐ、
「あぁ、そんな場所で貴様を見付けられたか」
ど くん、
「娘よ」
ドク、ン、
「貴様は、レオだな」
「っ………てめぇは」
今すぐ今すぐ今すぐ今すぐ逃げ出したいのに、足が、凍り付いてうまく動かない。名を呼ばれた瞬間、どうしようもなく感じた震え、拒絶、今すぐ、今すぐ、ここから、
ドクン、ドグン、ドクン、ドクン、ドクン、
肩越しに、振り向いて、そこに立っていたのは男。
眼深に被られたフード下で、僅かに見えた薄いその唇が、にぃ、と、ゆっくり、弧を、描い、たのを、見た。
ド ク ン 、
───こ、こ、に、い、て、は、だ、め、だ。
「っ──…!!」
肩の痛みとか、ここに立っている感覚、全てが霞む、全てがふっ飛ぶ。ぐらりと世界が歪んで、笑みが引き攣る。なんだこれ、なんだこれ、なんだこれ、なんだこれ、なんだこれ……!!!
震えが止まらない。手足が、動かない。プテラと対峙した時と、比べ物にならないような、これは、この、感情は、
「貴様の噂は聞いているぞ。
我々の邪魔を行く先々でしているらしいな。
そして、ポケモンの言葉が分かるという、稀少な存在なのだろう」
「なん、だよ、なんの話だ」
絞り出した言葉はとても俺らしくもない、もっと他に言うことはあっただろうに、吐き出した言葉はそれだ。
震えてはいないだろうか。そんなことすらも判断つかないくらい、余裕なんてない。実際は、その言葉も震えていたと思う。
違う、違う、今やるべきことは、他にある、はずなのに、
「───えらく怯えてるじゃないか」
「っ」
「マーズやジュピターに聞いた話じゃ、追い込まれてもへらへらとだらしがない笑みを浮かべていて、
余裕そうだったと聞いたのだがな」
「……マーズ、ジュピター…」
息を短く吐いて、混乱した意識を集中させる。マーズ、ジュピター、あぁ、聞いたことがある名であるはずだ。
でも、こいつのことは知らない。
嘘だ、知ってる、知ってる、この声、どこかで、
「あんたは、なんだ」
確信に近いものを抱きながらも持て余す。そうしてながら睨み付けると、そいつは「ふぅん…」と面白そうに笑って言った。
「こうして会うのは初めてか。」
ドクリ,
「俺はギンガ団、ボスの側近、
アース 」
ドク、ンッ
「っ……やっぱり、な!」
ここに、こいつの傍にいては駄目だ。
アース、その名を聞いた瞬間そんな警鐘音は確かなものだと確信した。逃げなければ。弾かれるように俺は素早くズボンのポケットに手を押し込んだ。そして念じる。アイクに届けと願いながら。
───逃げるぞ!!───
「っ!」アイクが動く。心は通じたのか、彼は再び俺を抱え込むと察知し動き出したハッサムを牽制するようにナイフを投げ付ける。
そして俺は同時にポケットに入れておいた、小さなボール。──煙幕を、地面へと叩き付けた。
ぼふっと溢れ出た灰色の煙で視界は悪くなる。そんな中をアイクは俺を抱えながら、走り出した。───この煙幕は、谷間の発電所でしたっぱを伸ばした時に頂戴したものだ。今の今まで忘れていたが、必死に巡る俺の思考回路。どうにか今すぐ逃げ出したいという意識がそれの存在を思い出したのだ。
アイクは俺の意図に一瞬で理解するとハッサムはうまくかわしたらしく煙幕の中を駆ける。俺も、そしてアイクもなにも見えないだろう煙の中で、微かに風の流れを感じた。───こっちだ。
風の流れを沿って、そしてやっと逃げ出せる。───そう思ったのも束の間、
「江臨(こうりん)」
凛、とした声が、
「5.6m先、南東の方角にシザークロス」
洞窟に響いた。
『行意』「ぇ、」
タンッ、とアイクが再び地面を蹴った瞬間だ。
背後に気配が現れた。見えない筈の中で、的確にアイクの背後へと。そして、呻き声。
「ッ──!」「アイク!?」
次の瞬間には俺らは衝撃により壁に叩き付けられ、そしてアイクは顔を苦痛に染め俺を抱き込んで、膝をついた。なんで、なにが、どうしてと混乱する。一瞬の出来事だ。茫然として、今の衝撃ですっかり見通しのよくなった洞窟を見渡す。
“江臨”───そう呼ばれ、動いたハッサムが───憮然とした態度で立っていた。
「な、ん……アイク、」
アイクを見れば背中を一直線に斬られていた。的確に、狙い済ましたように。
いや、狙い済ましたのだろう。
“5.6m先、南東の方角にシザークロス”と凛とした声。それが何の事だか直ぐには理解できなかったが、今ハッとする。あんな、視界なんて悪かった空間を見通せる、力。
「この俺が、みすみす逃がすとでも思ったか」
じゃり、と小石を踏みつけながら男───アースは嘲笑するように言った。
睨み付けて俺はアイクを庇うように立ち上がり笑った。
「…逃がしていただけたらありがてぇなー……なんて思ってはいるケド」
「無理な話だ」
ですよね、と笑って肩を竦めてみる。その下辺りを密かに見回した。どうにか活路は。今すぐにでも逃げなければならない。
それに気付いたのかそいつは読めない声音で呟いた。
「───理解できんな」
なにが、と睨む。「貴様は俺を探していたのだろう」と、アースは俺を見据え返しているのだろうか。
ドクン、脈打つ。そうだ、その通りだ。───そうだ、ずっと探していた。
この、イレギュラーな存在、アースを。
「マーズとジュピターと貴様は既に出会っているだろう。そこで俺の事を聞いていただろう?
プテラのことと共に」
「──!」
その、余裕ぶった声、ドクン、と跳ねた心臓の音、全てが俺の神経を逆撫でするようだった。眼付きが鋭くなって、俺の中の感情がざわりと波打つのを感じる。笑みが歪んだ。
───そう、だ。そう、だよ。ずっと探していた。
───言いたいことも、やりたいこともあって、
だけど、今はこんなにも脚は震え、体は力んで固まり、背筋は凍り、心臓は痛み、で、なんでと混乱する頭が真っ白になる。
余裕なんてどこかにいってしまった。笑みだけ力なく浮かべて、じりじりと後ずさった。
「…あんたが、俺への報復でプテラを操った、ってことはもう知ってる。
本当は、今すぐにでも殺してしまいたいよ。てめぇをさ」
「“本当は”?」
「……勝てないケンカは基本的に、買わない主義でね」
雰囲気のみで察した。この、格の差を。
張る意地もなくけろりと言えば、くつくつとそいつが笑った。
「なるほど。
俺の主義と同じだな」
ドク、リ、
その笑みが浮かぶ声に気分が悪くなる。
「だがな」とそいつは俺へ、ひとつ、手を向けた。グローブをつけた、大きな手だ。
それは宣言である。
「この俺から、逃げられると思うなよ」
息を吸い込んで吐いた。白い息が宙に霧散する。こくりと乾いた喉に唾を流し込む。
徐々に距離を開けようとしていた足が、ぴたりと止める。
「貴様の波動は特徴的だからな。
人間でも、ポケモンでもない。そんな波動を、視失う事などあり得ない」
「……波動使い、か」
「御明察」
誤魔化す理由もないとそいつは否定することもなく肯定する。波動使い───あのゲンと同じ能力。
拳を握る。ああ、失念していた。夢でディアルガ、パルキアが言っていたではないか。そんな能力があるのだかる、煙幕なんて目眩まし何も意味をなさない。
「貴様は、」
こんなときの自分の記憶力に嫌気が差し、はじめてこの力の乏しさへの苛立ちを笑みに隠す俺を、アースは奇妙そうに見て、そして視線が下に向く。───胸元で、血で汚れてしまった、俺の笛のペンダント。きらりと光った。
「貴様は、何だ」
───無意味だと思うばかりのその問い掛けに、苛立ちは霧散したように感じる。馬鹿らしかったのだ。
何だって、なんだろうね。雰囲気が鋭くなり、答えろと促しているようなアースに、気の抜けた笑みがこぼれた。
「ただの化け物だよ」
「…あくまで誤魔化すつもりか」
遠からず、だと思うんだけどな。そうへらりと笑みを深めると、アースはそれを「黙秘」と受けったらしい。
「いいだろう」と受けて立つように不敵に笑う。
「貴様を捕らえ尋問すればいいだけだからな。
江臨、逃がすなよ」
『勿論でござる』「……まさかのござる口調」
「そこはどうでもいいだろ馬鹿」思わず半眼になって意外だと呟くと、アイクの突っ込みが聞こえチラリと振り返る。
アイクは体制を立て直しており、構えていながら碧眼をギラギラと煌めかしていて、それを見ていたアースが意味深長に口角を上げていたが一々気にしている程俺に余裕はなく、アイクの様子を伺う。
「怪我、大丈夫か」
「大したことねぇ。ただ打ち所が悪かった」「そっか」
「てめぇは」「同じく。大したことはねーや」
「そうか。
…で、」どうするつもりだ。じろりと見た視線の先の江臨、というハッサムは虎視眈々と此方をその黄色い眼で様子を伺っている。こちらは下手に動けず、隙も見せれない。
そしてアイクは「大したことはない」と怪我を評しているが、実際は大きな痛手となっただろう。それくらいの威力だったと思われる。───レベルの差だ。その壁がある。そして、更に“相性”という壁が更に高さを極める。
ハッサムは鋼、虫タイプ。アイクは草タイプ、であり、相性は最悪だ。そんな相手を、どう相手するか。
バックに手を入れ、ボールを掴んだ。今度は紅白の、アイクのモンスターボールだ。
「……アイク、戻れ」
「チッ…」俺が選んだのは“選手交替”。
アイクが手負いの状態で、バトルを続行するのは限界があると判断して素早く彼へとボールを向けた。
彼は不服そうに舌打ちしたもののそれだけだ。彼自身も限界に気付いたのか、反論の言葉はなく、彼は大人しくボールの光に包まれ戻っていった。
その時だった。
『ただにて逃がす訳にはいかぬ』一瞬の出来事だった。
───赤い光に包まれたアイクに、突貫してきた───江臨の攻撃は、アイク直撃して、しまっていた。
「なっ、に……!」
「ぐぁ…っ、───」「アイク!!」
アイクの呻き声と血は一瞬でモンスターボールに飲み込まれて消えてしまった。が、俺の混乱は残る。なにを、今、このハッサムはなにをした。
『主殿は申したでござろう』背後から声がしてハッと我に返った。振り向いたその瞬間、には、その赤いハサミが俺の横腹を挟もうと迫っている。
『逃げられると思う事なかれ』
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