空契 | ナノ
29.とおまわり (7/7)

   
  


「──────、」

腕は、動かなかった。

振り上げ、ナイフを翳した手は、後ろから固く掴まれて動かない。かたかたと震える。
びくともしなくて、少女が顔を上げた。そこには、相棒が、アイクが立っていた。
憤怒や、驚愕、哀愁、様々な感情が混ざり合って複雑そうに眉を潜めた彼の眉間は、いつもより深い皺を苦しげに寄っていた。
レオはそれを見ているようで、何億光年も先を見詰めるような右眼でそれを視界に入れていた。いつもは半透明だった空色の眼が、今では透き通って見えない。
乾いた唇は、弧を描く事もなく横一線で─────アイクは、こんなレオを見たこともない。初めてだった。彼女が、笑みを消すなど。
眠っている時のみ(たまに、寝たまま笑んでいる時もある)だったその表情は、不自然。そして、自然的だったが、その透明で表情もなにもない眼は、サヨリ以上に暗く重く──────見ていたい、とは思えなかった。

「───止めろ」

だから止めたに過ぎない。
この男が死のうが、どうなろうがアイクの知ったことではない。それが本音であるが─────、

「……止めろ」
「なんで、なんで……こいつ、あいつを、あいつを、!
あいつを、殺したんだ……!」

「レオ!」
「っ、」

子供のようだ。なんでと繰り返しながらナイフを握り締めるその様子は、歳相応の姿だろうか。───否、そう見えても、殺意、瘴気、狂気、怒気───そうとまで形容できてしまう気と、人形の如く冷たい眼は不釣り合いである。
大きな声で、彼女の名前を呼ぶ。すると、彼女はびくりと瞼と肩を震わせた。
碧眼が、静かに彼女に近付いた。振り下ろそうとしたもがきは、ぴたりと止まったのを一瞥しつつ、アイクはゆっくりと方膝を床につけると、碧眼と剥いたままの右眼を合わせる。そして、もう一度呟くように「レオ」名前を呼ぶ。できるだけ、優しく、だが慣れないと言うかのようにぶっきら棒に、それでも眼は決して逸らさないで。
……ぴちゃん、
紅い雫が、レオの手を滑って堕ちた。

「ぇ…………、……?」
「……」

悪夢から眼が醒めた。そんな、覚束ないような顔でレオは口を開いた。
丸くなった右眼は徐々に焦点がアイクへと移り変わっていく。
ゆっくり、ゆっくり、アイクが彼女のナイフを掴めばレオの手は呆気なくするりと離れていった。
ぺたんと床に座り込んだレオは、ぼんやり、アイクだけを見詰めていた。
笑顔はまだ戻っていないものの、空色のあの眼は、いつも通りの捕らえ所のない感情が浮かんでいて、それを確認したアイクは静かに息を吐いた。どうやら、元に戻りつつあるらしい。

「……レオ、」
「……」
「…怪我は」
「…………、……」

彼女は、無言で首を小さく横に振った。
嘘であった。直接的にあの男達に何かをされた訳ではないが、殴った拍子に自身の手を痛めてしまったのだ。だが、彼女はその痛みを痛みとして感じていなかったから、彼の言葉を否定する。
その事にアイクは、レオの手を掴んだ時から気付いていたが、深く言及することはなく、彼は「そうか」とそのままの表情で頷いた。

「…………」
「……」
「……」
「………アイ君…?」
「誰がアイ君か」
「いっでぇえっ!?」

ぽかんとした顔で呟いたあだ名は、容赦ない殴りを発動させた。避ける余裕などなく頭にヒットして涙目になって踞るレオは、今のでしっかり眼が醒めたようだ。
ぷるぷると震えて悶絶するレオを見下ろしながら、アイクは立ち上がりふんっと鼻で笑う。
そして碧眼を後ろへ一瞥して……彼はレオに手を伸ばす。ひりひりとする頭を擦っていた彼女は、涙目になりながら見上げて少し、躊躇した。笑みは、うまく浮かべられなくて情けなくなってうまく、彼の碧眼を見れなかった。
そんなレオに呆れた様子でため息をついて、彼からレオの手を掴んで引き上げる。無理矢理立ち上がらせられて、瞬きする少女の背中を、突き飛ばすように押した。

「うわったったっ!」
「おら、キモい顔してんじゃねぇ」
「なにす……、」

なにすんだ。言葉は、レオの眼に飛び込んできたそれに、はっとして喉に詰まらせた。
───ナミが……ピチューを、手当てしていた。
その様子を、サヨリがしゃがんで見守っていて、ふたりの眼がこちらへ向く。彼らは少し、戸惑ったようにしていたが、ナミは少し微笑んで、サヨリは無表情のまま肩を進める。……ピチューは、まだ瞼を下ろしたままだ。じくじくと、胸を締め付ける。

「───おい、勘違いすんなよ。
誰が、死んだんだよ」


殺された。とレオは口にした。だが、ピチューはどんなに耐久力が低いと言ってもポケモンである。
ポケモンはそう簡単には死なない。

「……確かに、瀕死状態を状況が悪い場所に放置し続ければ、危ないかもしれないな」

手当てをある程度済ませたらしい。ナミは優しく言いながら、ピチューを抱き上げてレオに歩み寄った。黄色の小さな体をボロボロにして、傷だらけにしてまで、彼は何を望んだのだろう。
何故、こうなってしまったんだろう。
茫然として立ちすくむ、レオにナミは、彼を託す。

「…だから、レオが気にやむ必要はないのだ」
「…………それ、は…」
「これは、きっとユウが自身の意思で動いたのだ。
それがお前の責任になる事はないのだ」

「……そう…か、なぁ……」

そんなことは、ないと思う。
ピチューを抱き止めて、引き攣った、下手な笑顔を浮かべた。
しゃがんで、膝を抱えて、喚きたい感覚に襲われる。うまく、笑えないから、こんな顔を見られたくなくて顔をピチューに、埋めた。ふわふわの毛がすこし汚れていた。血に汚れ、砂で埃で汚れ───それでも気にせず、抱き締める。

「……ほんっと、
馬鹿だなぁ……」




───こいつも、
───俺も、












「……で……、
さっさと……出てこいよ……人間」



サヨリが静かに部屋の外へ向かってへと凄むと、一瞬遅れて、コツンと女のヒールだと思われる足音が聞こえた。
───コツ、コツと踏み込んできたのは、赤紫の髪をお団子にしギンガ団の服を着た女。
苛立ったように、眼をすがめるその女を見上げて、少女は引き攣った笑みを浮かべ、眼を細めた。



「───……やぁ、こんばんは、
お姉さん」

「……こんばんは、侵入者、サン」







(ただ、)(無駄だった道だったのかもしれない)
(それでも、)(立ち止まれないから)
(───俺も、)(キミも)


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