空契 | ナノ
29.とおまわり (6/7)

   
   
   

あぶねーあぶねーとケタケタ笑いながらフードをしっかりと被り直したレオの様子も、アイク達からすれば十分、緊張のしなさすぎ、である。
敵のアジトに乗り込んでいるというのに、その笑みは一向に消える様子を見せない。にこやかに、彼女は足を進め、吹き飛んだ扉───爆発地点だろう、部屋に近付いていた。
そして、一瞬動きを止め、敵がいるかもしれない中の様子を気配のみで探ってから、一気に彼女は部屋の中に踏み込んだ。その足取りは、緊張した時のようにぎこちないものではないが、ただ、焦って見える。

今の彼女を突き動かすもの。
それは、自分の中でじわじわと広がりつつある──────嫌な予感。

そして、
ぴちゃん、

「、?」

ぴちゃりと、レオの部屋に踏み込んだ足は、水を踏んだらしく、その音に思わず動きを止めた。
その瞬間、鼻を掠めたのは鉄の臭いだった。
足を止めて浮き上がった踵を地面につける。その時もぴちゃん、と何か水のようなものがはねた。
───爆発後に、水?
関連性が見えなくて、レオは怪訝げに下を見た。自分の足元には、小さな水溜まりができていたのだ。

みしり、

思考回路が、停止した音が今聞こえた。

「───」

みしり、

笑みを描く口が、音をたてた。

みしり、

眼を見開く、筋肉が音をたてた。

みしり、みし、

ドロドロとした、
紅色で、
靴を真紅に染め上げてしまいそうな、
水溜まりを、が、
あって、
顔が制止して意識はぷつんと途切れてしまいそうで、

みしり、

心が音をたてて、崩れそうな中、レオは悟る。
自身の足を染める、この水溜まり、は、血の湖。
血が、流れてい、た。

「───、────、──」


────────────え?


血が、流れていた。
自分の血ではない。流れて、そこにある血。
───これは、誰のだ。
誰の、だ。
広めのこの部屋には、男が二人いて、その奥に檻が並んでいた。そして、中央に近い場所には、丸焦げになりぷすぷすと黒い煙を吐くスカンプーと、少し遠い所で眼を回すニャルマーがいた。両者戦闘不能。だが、こんなに血が流れてしまうような傷を作っているようには見えない。
では、誰か。

一歩、歩む。
ぴちゃん、音が響く度に、先程レオが遭遇した黒ずくめの男が放つ言葉が脳裏に再生されるのだ。


───お前の……あの仲間は、


レオは、視界に飛び込んできたその光景。瞠目した。
息が乱れる。息が乱れる。息が詰まる。息が荒い。胸が詰まる。息が乱れる。そんな自分をどこか遠くに感じてしまう、その光景。

血に塗れた、ピチューの姿なんて、知らない。


───死ぬぞ。
───重々しい悔いを、残して。


「はっ───ぁ──はぁ───は、」


──────知りたく、な、い。

何故、こうなってしまった、か、なんて、考えたくない。
紅い水溜まりに沈む、黄色の幼子。
名前は呼べず、立ち竦む。
ドクンと、心臓が跳ねたのが分かった。
血の気が引き、体温が冷めていくのを感じた。
ざわりと、何かが揺れたのに気付いた。
それでも知らないふりをしようと、彼女の頬はいつも通り口角を上げようとする。だが、どうにもならなかった。時間が止まったようだ。レオのみ。笑みも、凍り付いた眼も。

ぴちゃん、
紅い雫の音。
それが時が進み出す合図のようで、心臓がどくんと鼓動し出す。どぐん、どくん、どく、どぐ、どぐ、早まる音、くらくら、くらり、ゆら、ゆら、右眼が目の前のそれを拒否するようにぐらつく。ぐらつき、焦点が合わなくて、崩れ落ちるように膝をついた。
その衝撃で手を地面につく。ぴちゃん。顔に、水がはねる。手と、顔に、ぬめりとした、紅が垂れる。鉄の匂い。

「……、………」

手を上げると、ぽたぽたと指の間から紅い雫が溢れていった。それでも拭えきれない紅。
掌を、染める、紅。

そして頭を占領するのは、ノイズ。
映像。

ぐらつく。意識が、感情が、眼が、視界が、意志が。

「あ、あぁ? 誰だてめぇ」
「此処はアース様の倉庫だぞ! 部外者は入ってくんな!」

部屋でスカンプーに大爆発を命じたその男、ギンガ団のしたっぱは巻き起こった爆風に咳き込みつつ、突然乱入してきた少女の存在に怒鳴った。
自分達が着ているような制服は着ておらず、部外者だというのは分かりつつも、何故こんな所に子供が、という思いが強い。困惑しつつポケモンを戻しながら彼女を睨むと、顔がゆっくりとこちらを向いた。
長い前髪に隠れていた、白い肌と右眼が見えた。
薄暗い部屋の中で、ぎらりと輝いたそれの眼は───瞳孔が開ききっており、眼があってしまったその瞬間、ざわりと男達の中で本能が悲鳴を上げた。鈍い彼等でも十分分かってしまった──────少女の、瘴気のような殺気。

「……なぁ、あんたらさ」
「ひぃ、」

その少女は、レオは、アースというイレギュラーの名前に反応する事は珍しくなく、弧を描いた唇をゆっくりと動かす。

「…このこ、
この、ぴちゅーをさ……こう、したの、って、あんたらだよな…」
「は、はぁ!?」
「そう、なんだろ。
おまえらが、こいつを、」

低く、だが何故かやけに幼く聞こえる声。笑っているのに、何故か突き刺さるように感じる視線。こちらを捉えて離さない、透明のような水色の細く、でも、大きく開かれた眼。
全てが、その少女に自然的で、そしてどこまでも不自然で、思考が何故か止まってしまう。

「そ、そうだよ! こいつが暴れるから───、」
「おまえらが、あいつ、を」

咄嗟に言った言葉をレオは静かに遮った。まるで、そんなこと分かっているかのように。答えなんていらない。そう笑うように。
膝をついたまま、顔を上げて神に祈るかのように反る。大空を見上げるように。

「あいつ、は、
そうか、だから、ああ……」


ザザザッ、
ノイズに紛れて、血濡れた手が、死体が流れて、


「ころしたのか」


ふっと、
笑みが消えた。

ぞくりとその場にいた者達は震えた。
その表情は、凍えてしまうような、冷めていて、
全てを見下している、子供───。

ぴちゃん、

静まり返り何も音がしなかった部屋に、雫の音が響いた時だ。
───レオは地面を蹴り上げた。息をする間も与えない。否定をする。そう訴える氷の眼が迫る。
それまでの、悲鳴は聞こえなかった。僅かな時間で男の懐に飛び込んで、拳を腹に叩き込んだ。
今度は、悲鳴が漏れた。腹を押さえて体を丸めた反射的な行動に、更に少女は肘を低くなった相手の後頭部に叩き込む。
ガッと音がして、勢い良く男は顔面を床へと強打した。意識はまだあるらしく、鈍い悲鳴を上げて芋虫みたいにのたうち回る男の姿。それほ酷く滑稽だった。
つい、反射的に、目それを笑おうとする自分がいた。それは通常だ。のに、
───あれ……?

「がぁっ」

男の足を片足で踏みつけながら、少女はこてんと首を傾げた。
表情は一切変わらなくて、更に疑問を抱く。あれ?…あれ?
なんで、笑えない。
なんでだろう。
あれ?
ほっぺの筋肉が固まってる。
動かない。
…あれ?
おかしいな……。

俺、どうやって笑ってたんだっけ?

ザザザザ、煩いノイズに顔をしかめて、苛立ったように彼女は自身の足に体重と力を込めた。みしみし、音が、途切れた。───それこら男の足からボキッと耳を塞ぎたくなるような音が鳴った。そして、上がる悲鳴。悲鳴、呻き声。耳を汚い声が突き刺す。うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。足を振り上げ、頭を今度は踏みつけ、固い地面に叩きつけた。鈍い音。───今度は悲鳴もなく、男はだらんとして動かなくなった。

それでも笑えないのは、何故だろう。

───何故、笑っていたんだろう。

嗚呼、それは簡単だった。

「あ、ひ、ひぃ……っ!」
「…………おまえが」

ザザザッ、ザザ、
ノイズに紛れて、男がそこにいるのが見えた。
ザザ、真夜中のテレビのような砂嵐が邪魔して見えないけど、そこにいた男。
そいつのせいだ。

「おまえが、あいつを殺したから」
「ふ、ふざけんなぁ!」

震えた声で激昂した男は、恐怖で動かない体で咄嗟にベルトからモンスターボールへと手を伸ばした。先程戦闘不能にしたスカンプーではなく、まだ体力のあるポケモンを出すのだ。いくら、あの少女の格闘術が強いと言っても所詮は人間だ。ポケモンの力の前では無力だろう。
まぁ、それもボールに出すことができたら、なのだが。
────そのボールの開閉ボタンを押すより速く、レオは隠し持っていたナイフを鋭く投げたのだ。

「ぁ、ああ、ぐぁああ!」
「……、」

ダーツを思わせる投げ方で風を切り裂き、ボールを持つ男の手に突き刺さると紅が舞った。痛み悶える男がボールを落とす。
その隙に距離を詰めたレオが顔面を蹴り飛ばす。避ける暇すらなく、その痛みに悲鳴を上げる間もなく、少女は倒れた男の腹を更に蹴った。くぐもった音。曇った音。そして頭の中で反響するノイズ。
全てが煩くて五月蝿くて頭が締め付けられるような痛みと、胃の中に何もないのに全てを吐き出したくなる気持ち悪さが蝕んでくる。ああ、嗚呼、これも全部、こいつのせいだ。
ガンッ、顔を蹴り上げると力なく転がった男の喉に、膝を殴るように突き立てた。
そして、振り上げた手に、新たに取り出して、綺麗に輝くナイフ───。
それを、明確な殺意を持って、少女は振り下ろすことしか道はなかった。


   
     

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