29.とおまわり (2/7)
あっさり、イーブイの能力を見せ付けられたピチューは唖然とした。
それは記憶していたというのだから、開いた口が塞がらない。
40何日……つまり、一ヶ月以上も、自分がこんな真っ暗な部屋での生活を送っていたとして、そこまで覚えていられる自信がない。
『へぇ……凄い記憶力だね』『いえ、そんな事はないですよ。
……それに、記憶力というより………たまに“知り合い”から時刻を聞けたりするので、そこで確認を取っていますので』
知り合いに、
その言葉に少なからず、疑問を抱いたピチューだが些細な事だと捨て置いた。
だが、それがこれから大きな影響を及ぼす事となるのだが、まだ誰も知らぬことである。
ピチューがそんな未来まで見通せる筈もなく
『あーびっくりした』と笑いながら頷いた。
『だよねー、流石に40何日も記憶できる筈ないよねぇー』『まぁ、ただの確認でしたので。
ほぼ間違いはないようで、ほっとしていた所在です』
『マジかよなんだこのひと』とんでもないひとが目の前に居るようだ。思わずぽかっと口を開く。何だか上げられて落とされたような衝撃だ。
敵中なのに、思わず脱力してしまったピチューを、イーブイはくすくすと可愛らしく笑っていて、思わずこちらの頬も緩む。
良い人なんだなとピチューは思った。何だか、硬く感じていた周辺の空気が、ほんの少しだけ柔らかいものと変わったようだった。これを彼女(彼?)は意図したようで、満足そうに微笑んでいる。
ピチューが緊張していることを気遣ったのだろうか。
『……羨ましいなぁ、そんなに記憶力があるなんてー』『そうでしょうか?』
『うんうん、ほんとほんと』強張っていた肩の力を抜いて笑いながら、冗談のような口調でユウは言った。
すっかりいつもの調子に戻っている。明るく、幼げな口調。
その調子だから気付かず、この言葉を口走ってしまったのだ。
『あー、もぅ、レオにも分けてあげてほしいよ』なんて、呆れたような言葉で。
いつも通りだからこそ、自然に零れたこの
『その記憶りょ…く…』言葉。最後の辺りはしぼんで、消えそうになりながら紡がれる。
『──────』だけど、それまでだった。
笑顔が、空笑いへと変わっていく。引きつって、今にも崩れていきそうな笑顔だったが、辛うじて保つことはできた。
───動揺で、見開かれていく目。
『───、?───?』なんだか突然息が詰まったように、言葉は喉の奥で枯れていく。ゆるゆると傾げた。
───あれ? え?
抵抗なく自然に流れた言葉。自然なまま。何もおかしくないような口ぶりで呟いたその単語。
───もう二度と、耳にすることも、口にすることも、思い出すことも、ないと思っていた、思いたかった、その名前。
───なんで?──
『……レオ……、?』
脈拍が明白に乱れたユウの姿と、その単語にイーブイは何かを悟ったように眼を丸めた。
スッと、静かな光が───灰色の眼に差し込んだ。イーブイは、微かに覚えた“動揺”に顔色を変えないようにしながら、彼を見詰めた。
『…それは、貴方の主様でしょうか?』
今の、ユウの口調はそのような響きを含んでいた。
イーブイのこの記憶力を、レオにあったらいいのに。そう言った彼は、呆れているような、少しだけ小馬鹿にするような、でも、優しい───そんな感情があったように見えた。
イーブイ自身もよく抱くその色。それが見えたから、そうなのだろうかと思ったのだが、彼は首を横に振って笑った。
『…………、
……前の話、だよ』そう、今じゃない。
『前?
では──────……捨てられた、という事、ですか』
ならば、今の───まるで息ができない、水の中にいるような顔の、意味も分かる。
思わず眼を細めたイーブイだが、またもピチューは首を左右へ振るのだ。
『……そうだったら、良かったんだけどねぇ…』幼い笑顔で、そう呟く。先程とは似ても似つかぬ……幼い顔。それが、歪んだように眉は曲げられる。
───否、笑顔だろうか。
苦笑だろうか。
歪んだ笑み、嘲笑……ひび割れた、硝子のような儚い色。
───綺麗には笑えなかった。それを自覚しつつも、どうすることもするつもりがなく、ユウは前を見詰める。───どちらが、前か、後かなんて、もう、分からないのだけど。
『……レオは、捨ててくれなかったよ』『……、?』
『…来るもの拒み、去るもの追わず主義なのかなぁ……ほんっとーに…面倒な子……』『それは、どういう意味でしょうか……?』
まるで、困ったような、ほら、また呆れたような、あの顔。
“そんな主が愛おしい”……そう言っているようにしか、イーブイは困惑する。
なら、何故、そんな悲しい眼をする。
『……』吐いた息は、冷たい。
すきま風があるのか、外のだろう空気が身体を冷やしていく。
寒さに少し細めて見上げた目は、
『────僕が、あの子を捨てたんだよ……』───その、目は、
コンクリートで遮られ見えない、薄い青空を求めているようだった。
─────ユウ!
声が、聞こえていた。
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