空契 | ナノ
28.俺が駆ける道 (7/7)

    

   


ぱちん、となにかが弾けて、消えた。
その瞬間、俺の身体は固まり、動かなくなった。凄まじい重力、気圧、のようなものが身体を縛り付けて動かない。それは俺のみでなく、アイクも同じような現象に襲われているらしく、歯噛みをしている姿が見えた。
指一本動かない。そんな中、黒コートの男が───俺の頬に、触れた。

「ん、っ」
「おい、ッ……ッ!(……レオッ)」
「(アイク……)」

上げてしまった声に、微かにアイクが反応した。ぴくりとも身体は動かないらしいが、気配が変わった。しかし、大丈夫だと握られたままの手に力を籠める。微かしか動かなかったが、伝われ。俺は大丈夫だと。
ただ、男の指先が、あまりにも、冷たかったから。体温なんて、ないように感じたから。それが突然触れてきたから、少し驚いただけ。
大丈夫だと、名前を呼びたかった。それはおそらくお互い様だが、そう、お互い理解している。ここで、名前を上げるのは危険だと。
呼べない歯痒さを感じつつ、俺は黙って耐えていると、男の手は頬を滑り顎を掴んだ。強くはない、弱いが、逆らえない力で顔の向きを強制的に男と向かい合うようにされる。

───そう、されて、
フードの下の水色と、再び、眼が、合う。

そのアクアブルーに、思考が、世界が、時が、空間が、全てが、食われたような感覚に、
堕ちる。


そして、闇の中で、立っていた。


それを認識してから、数秒が経過した。認識したものの、それを納得するまで時間が必用だった。
ぼんやり立ちすくして、何処かを見詰めて、さていくら過ぎた? その時間は数秒だったかもしれないし、数分だったかもしれない。それか、もっとか。一万年過ぎたよ、なんて言われても俺はあっさり納得するかもしれない。信じ込んでしまうかもしれない。曖昧な時間だったのだ。意識が、感覚が、音が、視界が、全てが、くぐもって、まるで夢。

あれ、と言葉を失う。
─────この感覚、知ってる。
つい最近、みた。感じた。
覚えている。

自分の目の前に、ある、
自分自身のこの右眼とは違う発色をする水色。この空色よりもっと鮮やかな色─────アクアの色。
その色は、なにかをのみ込もうとしていた───眼。

目の前に、いる。
あの黒コートの、男、が。

───朝見た夢と、現実が、混同した。
混乱した頭を落ち着かせようとすると、だんだん辺りが見えてくる。ここは、闇じゃない。朝見た、夢の中ではない。町の真ん中。道の真ん中。
立ち止まっている俺らを、避けていく者たち。それが、スローモーションのように見えてきて、時間の流れ、空間の繋ぎが、おかしく思えて気持ち悪さを抱く。
だが男は、俺の頬を撫でる。
その手付きは、震えているような気がした。
そして、やがてその冷たい指先は、俺の左眼──────眼帯に、触れたのだ。
ひどく、優しい、手付きで、


「俺はやはりまだ幸せだったのか、
お前のその呪いに比べたら」


誰の、言葉だか、一瞬、分からなかった。
理解できない俺を無視して、見開いた右眼と、眼帯を見比べた、その男は、どこか、悲しそうに言う。


「お前には、幸せになってもらいたいんだよ、
俺は」


──────と。

もしかしたら、それは夢の中の言葉、だったのかもしれない。現実に混入して、忘れていたものが目の前に現れたのだろうか。

困惑ながらもそう感じた瞬間だ。
一気に、視界や音が、クリアとなる。───周りから音が溢れだし、た。
風景が動き出したのだ。否、止まっていた訳ではないが、鈍く動いていた時。0.5倍速から、1倍速へと戻ったようだ。
それが今、完全に戻り、町行く人の動きが通常に戻った。ように見えた、だけ、なのか。俺がただ、思考を停止させていたから、だろうか。
そんな自分がおかしく思えて、笑ってしまった唇。それを、彼の親指がなぞって──────やっと、その優しい手は俺の顔からも、手からも離れていった。それまで、どれくらい時が過ぎていったのか、分からない。
曖昧な空間の中に居たみたいで、フワフワと気持ちが揺れている。その揺れている波にさらわれた感覚。
───時空のずれ、その錯覚に戸惑ったように、足の力がふらりと抜けそうになる。

「───お前、は……、」

誰?
その問いは、男の人差し指が唇に添えられた所で口の中で霧散しただけだった。
しぃ、と男がフードの下で、吐息を吐き出す。秘密だと、少しだけつまらなそうに肩を落としていた。
そんな男から発しられた声は、俺の欲しかった答えを言うことなかったが、

「予感、したのだろう?」

低い、男のその声は、見透かすかのような水のような色を残していた。
それは夢で聞いた声と同じ。先程、夢と現実がシンクロしたとき聞いたものと同じ声。
───やっぱり、こいつ、朝見た夢の───!

「心に“あいつ”の“声”が届いたんじゃないのか?」

こ、ころ……? あいつ……? 声……?
なんのことだか全く分からないのに。俺が嘘をついているような、とぼけているのではないかと思ってしまうような程、彼の言葉は強く、確信を抱いている。

「見ないふりをするのか?」
「は、」

「気付かないふりを、するのか?
───自分の心に」
「、なんのこと?」

「……お前がいつまでも気付かぬふりをするならば、
俺が何を言っても無駄だろう」

だから、なんのことだ。
───身に覚えが有るその“気付かぬふり”。その覚えすらも忘れ去ろうと、していたのに、必死に、隠していた、の、に、
男は、静かに俺を追い詰める。

「なら、
その選択(みち)に、悔いを持つなよ」

見下ろすその眼は、こちらからは見えないが冷たい視線が突き刺さるのを感じた。
見下しているようではない。軽蔑しているわけではない。
ただ、諭すような、静かな───感情。

「悔いを、持ちたくないのなら、
今すぐギンガビルに行け。

行かなければ、お前の……あの仲間は、死ぬぞ。
重々しい悔いを、残して」

「ッ、は……?」

ドクン、
心臓が呼応するように、鳴り響いた。それは、まるで男が口にした───“仲間”───そんな覚えなんてないはずの音に、反応した、ようだ。
そんなの、自分と無縁なはずだ。
知らないはずだ。
そんなの、だって、いないし、知らないし、
ほら、分からない。
なんのことだと、わからない。そう繰り返し呟くと、男は今度はその口を開くことはなく、なにも言わなかった。ただ、少し息をついて、フードを引き下げる。ゆらりと、冷たい風で紐の装飾が靡く。

「───道を誤るな。
2度と……」

そんな道を、選べ。

それだけを言い残して、黒コートの男は俺とアイクの脇をすり抜けて歩いていった。
自分達の視界からそいつが消えた。瞬間、ぱちんと音が響き、固定していた全てが弾けて消えた。
それと同時に怒りを高めていたアイクが、掌にエナジーボールを宿し振り向き様それを投げ付ける。───だが、視界の中に、その闇の塊のような黒はどこにも見付けることができなかった。
太陽の光が、影を消し去るように、道に降り注いでいる。その光景は何も変化していなく、それが寧ろ気味が悪かった。不発に終わったエナジーボールを握りつぶしたアイクが舌を打つと、道を行く人間達の雑踏に消えていった。

「くそ、なんだあいつ……。
おい、レオ。何かされたか」

「…………、……い、や……」

後ろから聞こえる、アイクの不器用な心遣いに俺は首を振ることしかできなかった。
なにも、されていない。頬に触れられた。それだけだが、それが特別害を催す訳ではない。物理的には、なにも、されていないのだ。それは間違いない。のだが、

「……」

どく、どく、どく……、
不自然な音を刻む胸に、アイクから放した手を置く。…金属の冷たさを、感じて、更に鼓動は鳴る。
首から、いつも下げている、このスカイブルーに輝く笛のペンダント。錆びないように、いつも手入れをしている、大切な、大切なこのペンダント。手に取り、握る。───頭を過る、霞んだ記憶。
忘れていよう。そういう、記憶。まだ思い返そうとは思えない。忘れてしまった、記憶。
感情。

これを、あの黒コートの男は、知っているようだった。



───俺はやはりまだ幸せだったのか、
───お前のその呪いに比べたら。


呪い、
俺はそれを知っている。


───予感、したのだろう?


予感、
それは俺の心を渦巻くこれのこと?


───心に“あいつ”の“声”が届いたんじゃないのか?


こころ、あいつ、声、
知らない知らない知らない……知らなくて、いい、はずだったのに、


───見ないふりをするのか?
───気付かないふりを、するのか?
───自分の心に。

───……お前がいつまでも気付かぬふりをするならば、
───俺が何を言っても無駄だろう。


なら、何故言ったんだ。
自覚してしまうじゃないか。
認めてしまうじゃないか。
見ないふり、気付かないふり、
できなくなるじゃないか。

この、感情、

落胆、に、
理由、に、


───その選択(みち)に、悔いを持つなよ。


そんなの、
そんなの、

無理に決まってんだろ。


───お前の……あの仲間は、
───死ぬぞ。

───重々しい悔いを、残して、


なんで?
なんで、俺は仲間なんて、陳腐な言葉に、
あの、黄色の小さな、あの子を、想像してしまう?

ドクン、
心臓が呼応するように、鳴り響いた。


───道を誤るな。
───2度と……。


───そんな道を、選べ。


それがとても、難しいなんてこと、
俺はよく知っている。

知っている。

ああ、そうだ。
最初っから、知ってた。




なんで、こんなに、自分がぐらついているか、なんて。




「…………」

もう、大分前から吹かなくなったこの笛。
握り締めて───空色の眼を、向けた。背けた、あのビルへと。


───悔いを、持ちたくないのなら、
今すぐギンガビルに行け。


ぼぅ、と頭で反響して消えていった、男の声。それに、不敵に笑う。苦々しい、そして、焦りが滲む笑み。
行くしか、ないじゃないか。
行かなきゃ、駄目じゃないか。

もう、あんな想いはごめんだと、忘れてしまって空っぽな記憶に吐き捨てた。その時には既に俺の身体は駆け出していた。風に身を溶かすように、前へと前へと、焦ったように踏み出す足に戸惑いを感じつつもそれを厭うことはない。
寧ろ───ずっと胸の底にあった感情を凪がすように、一層地面を蹴り飛ばす力を籠めた。

後ろからアイクの珍しく焦った声と、バックの中からのボールが困惑したように揺れる音が、聞こえてきた。
それを無視をする訳にもいかず、俺は眉を寄せて笑った。
ごめんな。少し待ってて。

少しだけ、俺の我が儘に、付き合って。

まだ僅かに曇ったままの空は、太陽を隠したりしている。そんな空を見上げて、呟く。
すると、ボールは静まり、隣にいる相棒と共にため息を吐き出していた。

ごめん。もう一度呟けば、アイクの拳がこつり、と額を殴った。

ごめん。
ごめん。
何度か、それを溢しながら、俺は駆け続ける、しかなかった。









(それはとても)(遠回りだったのかもしれない)


 *←   →#
7/7

back   top