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「#エロ」のBL小説を読む
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※主人公のハンドルネームを「名無し」で固定しています。ご了承ください。


面と向かって会ったことがほとんどない相手を好ましく思うのは、今のご時世においてそんなに珍しいことではないような気がするのだが、さてどうだろう。
そんなことを考えながら、もう見慣れた長い通路を歩く。

目的地に向かう途中で2人組とすれ違った。共に若い女性だ。歳の頃は俺とそう変わらないかもしれない。
ひそひそと会話をしている様子の彼女らを見る。
俺の視線に気付いて頬を赤らめた2人ににこりと微笑めば、きゃっと短い悲鳴のような声が上がった。

「あっ、あの!至くん!」
「はい」
「今日の公演もめちゃくちゃ良かったです!千秋楽も楽しみにしてます!」
「ありがとうございます。また舞台でお待ちしてますね」

右手を差し出すと、話しかけてくれた方の彼女が一瞬だけびくりと肩を揺らして、それから恐る恐る握手を試みてきた。
いや俺は未確認生物かなんかかよ、などという野暮なツッコミは置いておいて、彼女の心情は理解出来る方だと思う。オタクは誰しも、推しを前にして平常心ではいられないものだ。

ちなみに自分のことを推されていると自覚している俺も世間一般的には相当痛い人間に分類されそうだが、完全に主観的な視点で言えば、実のところ、これはむしろ悪くない傾向なのではないかと思っている。
天馬の俺様っぷりには敵わずとも、卑屈な自分を隠してばかりいた頃に比べたら、少しくらいは役者らしくなれているのかな、とか。まあみんなには言わないけれども。

女性たちを見送り、手を振って別れる。
彼女らが見えなくなったところで俺は漸く踵を返した。さて、急がなければ。控え室に客を待たせているのだ。

今しがた通ったのと同じ廊下をもう一度歩きながら、少しだけ緊張している自分に気が付いた。
人前や写真にも多少慣れたとは言え、根本的に引きこもり干物オタクは引きこもり干物オタクだ。ほんの少し自分の限界値を引き上げられたとしても、俺は俺のまま。それ以上にも以下にもなれない。

先程の彼女たちのように、舞台の上に立つ俺しか知らない相手であれば今更緊張などしないだろう。サラリーマンとしての俺しか知らない相手でも同様だ。
いつもやっている通りに、ほんの少しの俺らしさを混ぜながら、“求められている俺”を演じたらいい。

“演じる”と言えばどうも聞こえが悪いが、つまるところ相手にとって不要であろう負の面を隠すというだけのことだ。
ゲーマーであり、オタクであり、まるで生活能力のない干からびた男。そういう“茅ヶ崎至”を取り除いた部分こそが、彼女らの求める“茅ヶ崎至”なのだから。

しかし、今回ばかりはわけが違った。
この先で俺を待っているのは、エリートサラリーマンでもなく、ハニーフェイスでもなく、MANKAIカンパニーの役者でもなく、干物ゲーマーの俺しか知らないイレギュラーな存在だ。

外面のいい俺を後出しで見せるのは初めてだった。
俺よりも後に入ってきた劇団員たちにさえ、はじめは人当たりのいい人間として接していたのだ。
今ではある種家族よりも近い距離にいると思っているあいつらにすらそうだったのだから、自分がひどく緊張しているこの現状も、そうおかしなことではないのではないかと思う。

つらつら語ってみたところで心は落ち着かないままだった。いつの間にか俺は控え室の目の前に立っていて、扉の向こうからは賑やかな声が聞こえてくる。
あまりにいつも通りの雰囲気だから、俺の招いた客人なんていないのではないかと錯覚する程だった。

俺は右手を握ったり開いたりしながら、何となく時間を潰した。
元より小心者の陰キャなのだ。出来れば隣に誰かがいて欲しいし、そいつに扉を開けて欲しいし、俺はその後ろに隠れてシレッと入室したい。何でもない顔で「よ」と片手を上げて軽く挨拶出来ればなお良いが、素っぽく格好付ける勇気が出なければ外面モードに切り替えてもいい。

しかし悲しいかな、部屋の外にいるのは俺だけだった。
他の春組メンバーは俺より先に裏に戻ってしまったし、この様子だと手伝いに来てくれた秋組もこの中だろう。
なぜなら一等大きな声で左京さんの怒声が聞こえてくるからである。どう足掻いても俺はぼっちだった。つらい。

ふるふると頭を左右に振ってから、よし、と小さく声に出して意気込む。
どの道顔を合わせなくてはならないのだ。こうなることを選んだのは俺自身なのだから。

ドアノブに触れようとしたその時、勢いよく扉が開いた。
内側に蝶番がついているので、突然目の前が開ける形になる。

無防備すぎるほどにがら空きだった俺の胸に飛び込んできたのは、栗色の髪を後ろでひとつに纏めた華奢な女だった。
咄嗟に抱きとめ、呆気に取られたのも束の間。

ぱっと顔を上げた彼女と目が合う。
予期せぬ事態で混乱する反面、想像していたよりも随分幼い顔立ちをしているなと考える冷静な自分もいた。

つまり俺は、すでに彼女が自分の客人であることを確信していたのである。
この女性が、“顔も知らない5年来の友人”であることを。

『…………たるち?』

彼女の口から零れた3文字が、それを証明した。

▽△

「おい、勢いよく飛び出すのやめろよ」
『ごめんって。たるちを探しに行こうと思ったんだけど、まさかあんなとこに突っ立ってるとは思わないじゃん』

俺がはあ、と深い溜息を吐き出すと、目の前の彼女はへらりと笑った。
周りを取り囲む劇団員たちから注がれる視線が痛い。

「至さんが……素……?」
「珍しいこともあるんすね……」
「おいコラ。失礼だぞ」

腕を組んでしげしげと眺めてくる綴の脳天にチョップを入れる。
あいた!と頭をおさえた綴は「すいません」と眉尻を下げてから少し苦笑した。

「無難なところで、昔からの知り合いとかっすか?」

訊ねられ、俺は言葉に詰まった。
付き合いは長いが、おそらくこいつらの思っているような“知り合い”ではないだろう。

さて、どう紹介したものか。
内心で思案していると、不意に誰かが口を開いた。

「もしかして、ネッ友?」

思わず振り返ると、化粧台の上に腰掛けた万里がこちらをじっと見つめていた。
左京さんがどこに乗ってんださっさと降りろなどと激昴しているが、本人はどこ吹く風である。相変わらずメンタルの強い男だ。

早くも言い当てられた俺はといえば、力なく頷く他ない。

「正解。なんで分かった?」
「その人、アンタのことたるちって呼んでんじゃん」
「ああ」

確かに。頷いて彼女を見ると、何とも形容しがたい難しい顔をしていた。
小首を傾げた俺の背中をグーで殴るように軽く押しやって、口を尖らせる。
なんだそれ、可愛いな。弛みそうになった口元に力を入れて、平然を装う。そんな俺の内心を知ってか知らずか、彼女はむっとした表情のままで言った。

『だって私、“たるち”しか知らない』

なるほどと納得しそうになって、俺は思いとどまる。

「パンフレット見なかった?」
『始まる前に読んだけど、観てるうちに役名で覚えちゃった。たるちランスロットじゃん。教えといてよ』
「どこで気付いた?」
『最初の台詞。毎日のように声聞いてたらすぐ分かる』
「そりゃそうか」

俺たちの会話を聞いていた面々が頭の上に疑問符を浮かべる。それもそうだろう。
本名を知らないというわりに、毎日声を聞いているなどと恋人のようなことを言う。俺が素のままで接しているわりに、声を聞くまで“ランスロット”が知り合いであることを識別出来なかったと言う。

万里が口にした関係が俺たちを表すすべてだが、この場にいる人間はそういうものに疎いであろうと予想して、俺は少し説明口調で彼女について紹介をした。

「……えーっと。ネットで出会った友人です。会うのは今日が初めてだけど、普段は一緒にゲームしてて……俺と同じくナイランのファンなので今回の再演に招待しました。えー……名前は」
『あ!ちゃんとしたご挨拶が遅れてごめんなさい!みょうじなまえです。舞台、すっごく良かったです!』

慌てたように頭を下げた彼女に、なまえというのか、と場違いな感想を抱く。
心の中で反芻して、控えめにひとつ頷いた。
良く似合う名前だ。出会って5年、ずっとハンドルネームで呼んでいたというのに、なぜだかしっくりくる。

「……茅ヶ崎至です。よろしく」

顔を上げた彼女に声をかけると、彼女は少し恥ずかしそうに笑った。左の口角にだけ現れるえくぼが可愛らしい。

劇団員たちはといえば、俺たちの関係を不思議そうに眺めているだけだった。

▽△

「名無し!?」

そう叫んだのはやはり万里で、着替えを済ませた俺は顔を顰めながらそちらへ歩み寄る。
はじめはゲームの趣味が合うであろうシトロンに相手をさせようかと思ったのだが、俺と同じく春組であるシトロンも自身の後片付けに追われており、それどころではなかったようで。
いつの間にか万里が彼女の隣を陣取り、ふたりは知らぬ間に少しだけ打ち解けているらしかった。

「名無しってあの名無し?」
『うーん、どの名無しだろ。未だにたるちとイカの配信してる名無しなら私かな』
「んじゃ俺が想像してんので合ってるわ。まじか……確かに声が名無しだわ」
『あ、配信見てくれてる系?』
「つーか、1回対戦したことあるよな。俺NEOっす」
『うそ!?NEO!?たるちの粘着の!?』
「ははは!いつの話だよ!」

……こうなるから嫌だったんだ。
同じコミュ力の塊でもシトロンと万里は違う。盛り上げ役として周りを巻き込むのが得意なシトロンならまだしも、万里は個人として距離を詰めてしまうから。

こいつは俺の積み重ねてきた5年を、軽々と飛び越えてしまいそうだから。

おい、もういいからあっち行け。
万里にそう声をかけようとして、やめる。小心者の俺にそんな勇気はない。

誰か、誰か。頼む、誰でもいいから、誰か。
切実な願いが通じたのか、半開きにしたままの扉からひょこりと顔を出した女神が俺に微笑んだ。監督さんだ。

「万里くーん!ごめん、大道具の運び出し手伝ってもらえない?」
「あ?あいつらは?」
「秋組の4人だけじゃ足りないみたいで。今回セット凝ってるから」
「はー?仕方ねえなあ」

何だかんだで頼られることを悪く思わない万里は、すぐにその腰を上げる。ちなみにあいつを頼る人間の最たるは俺だが、今のところ全く反省していない。

監督さんと連れ立って万里が部屋を後にすると、手持ち無沙汰になった彼女が鞄からスマートフォンを取り出した。
俺は漸くそっと近寄り、背後から声をかける。

「イベント周回してるの誰ですかー」
『わっ!び、びっくりしたぁ……たるちか……』

ただでさえ丸い目をさらにまん丸にして驚いたなまえが、心臓を抑えるようにして胸を撫でつける。
挙動がいちいち小動物のようで、ますます愛で倒したくなった。愛で倒すとはなんだ。自分で言っておいてわけがわからなくなってきたが、とにかくその一挙一動が愛くるしいことさえ伝わればそれでいい。

「着替えに手間取ってすまんね」
『構わんよ、お疲れ様。原作ファンから見ても本当に面白かった』
「そもそも主演が原作ファンだからね」
『たしかに。っていうかたるち、想像してた120倍イケメンでびっくりしたんだけど』

なかなかに嬉しいことを言ってくれる。
密かに機嫌が良くなる自分に少し笑えた。自慢ではないが、イケメンなどと言われるのには慣れている方だと思うのだけれど。

『ガウェインもかっこよかったね。身長もあるし、顔立ちシュッとしてるのも解釈通り』
「ああ、あの人ね。確か話したことあるよな?同じ会社の」
『あ、監督さん拐った人?』
「覚え方ワロタ」

彼女にはよく、この劇団の話をしている。単純にネッ友として仲がいいからという以上に、ある程度無関係の間柄だからこそ気安く話せるというのもあるのだろう。
今日のこれだって、俺が招待しなければ顔を合わせることなど一生なかったかもしれないわけだし。

彼女は目を輝かせながら、身振り手振りで公演の感想を聞かせてくれた。あのシーンの演出が神だったとか、あの台詞の語尾が原作通りに上擦っていたとか、とんでもなく細かい部分まで丁寧に観てくれていたことがよく伝わってくる。

そこまで作りこもうと提案したのは俺の自己満足だったけれど、こうしてひとつひとつ拾ってくれる人がいるならば、やはりやって良かったのだと確信できた。
彼女は話の中で俺に向かって「さすがオタク、求めてるもの分かってる」と何度も口にしたが、それはこちらの台詞だ。
さすがオタク、着眼点分かってる。

楽しそうに話す彼女を眺めながら、また見に来てよ、と言いそうになるのを堪える。

5年かけて距離を縮めたからなんだ。趣味が同じだからなんだ。
好きな作品が舞台化したから、運良く観に来てくれただけ。俺たちはあくまでネット上の友人で、たとえどれだけ心を通わせようとモニター1枚の隔たりに敵わない。

分かっていたはずなのに、今日漸く彼女に会えて、俺はすっかり思い上がっていた。
二次元の嫁なんかとは違い、彼女は俺の目の前に現れてくれた。まるで今までよりも距離を縮められたかのように勘違いをしていた。

明日からはまた、ただのネッ友に戻るのに。
彼女には彼女の、俺には俺の、現実があるのに。

彼女に聞こえないくらいの小さな溜息を吐いて、俺は話題を切りかえる。

「暇なら俺のも周回してよ。疲れた」
『暇っていうか……手伝えることあるか聞いたら、客はゆっくりしてろって言われたから』
「誰に?」
『万里くんに』

散らばった私物の中からスマホを探す手が止まる。
胸中になにやら黒いモヤが広がっていくようで困惑するが、それ以上にひどく癇に障った。

万里くん。
彼女の声で先に聞くのが、まさかそちらの響きになろうとは。

「……万里のことはNEOじゃないのかよ」
『え?……だって、NEOって知ったのついさっきで』
「会ったのだってついさっきだろ」
『ええ?何に拗ねてんの?』
「……俺のことは、ずっとたるちって呼んでる」

口に出して、ハッとする。
馬鹿か。俺はいくつだ。高校生でもこんなに見苦しい妬み方などしないだろう。
至極子供じみている。相手はいくつも歳下なのに。

途端に心の狭い自分が恥ずかしくなって、冗談冗談、と笑おうとする。
そうして無理やり口角を上げた俺より先に口を開いたのは、彼女の方だった。

『ごめん……至くん』

刹那、心臓の奥の方がじわりと熱を持った。
つい先程まで感じていた焦燥感は瞬時にどこかへ消えてしまい、代わりに訪れたのは曰く言い難い多幸感だった。

正直、チョロい自覚はある。
恋愛経験は多くはないが、決してゼロというわけでもない。自分で言うのもなんだけれども、この見かけだけは上等だと認識しているので、女性を唆すことだってそう難しくなかった。

にも関わらず、このザマはなんだ。
名前を呼ばれてときめくなど、今どき少女漫画でも見かけないだろう。
読まないので知らないが。

「…………別に、呼び捨てでいいですけど」

馬鹿か。今度こそ本格的に後悔する。
至くんで充分だっただろ。なんで調子に乗ったんだよ。
この口か。この口が悪いのか。
下唇を噛み締めながら、せめて笑ってくれと願うばかりの俺に、またしても女神は微笑んだ。

『え、い……至……?』
「!」

恥ずかしそうに笑った彼女に、俺まで釣られてしまいそうになる。
顔でも赤くなろうものなら舌を噛んで死んでやろうと本気で思ったが、長年培ってきたポーカーフェイスは伊達じゃない。すぐそばの鏡をちらりと見やって、いつも通りの自分であることを確認する。

「何恥ずかしがってんの」

自分を棚に上げて軽口を叩けば、彼女は口元を緩めたまま、うつむき加減にぎゅっと眉根を寄せた。
照れ隠しにしか見えなくて、思わず謎の唸り声を上げそうになる。今のは正直危ないところだった。

『だってさあ。今更名前とか、恥ずかしくない?』
「今日はリアルで会ってるんだから普通」
『自分は呼ばないくせに』
「なまえ」

彼女が顔を上げる。唇が薄く開いて数秒固まったあと、なんの音も発さないまま閉じた。

そうしてもう一度俯く。額を右手で覆い隠して表情すら窺わせないものだから、不安になった俺は少しだけ前屈みになって彼女の顔を覗き込んだ。

……顔を林檎みたいに真っ赤にしたなまえが、必死に唇を引き結んでいるとも知らず。

「…………え」

ぽつりと呟くと、ハッとした彼女が突然立ち上がる。

『トイレ!!トイレどこ!!』
「……え……出て左手……上に表示があるから分かると思うけど……」
『ありがとう行ってくる!!』

すごい剣幕で走り去っていったなまえの後ろ姿を眺めながら、俺はとうとう破顔した。
……いや。なんだあれは。いい加減、可愛いにも程があるだろ。

ついに赤面をも抑えられない。大丈夫だ、きっと彼女の方も落ち着くまで戻ってこないだろうから。

両手で顔を覆って、ふー、と長い息を吐き出した。
暫くそのまま固まって、やがてゆっくりと両手を離す。ゲームの世界から現実へと帰ってくるその瞬間を除けば、普段から切り替えは早い方だ。顔の弛みは既にある程度治まっている。

安心したように肩の力を抜いて、自然と視線をずらす。
……と、不意にこちらをじっと見つめる群青色の瞳と目が合った。
心臓が脈打つ。

にやり。
口角を上げたその男が、俺に向かって言った。

「至さんさあ、そういうのはちゃんと相談してくれねえと」
「……ば、万里お前……いつ戻って……」
「“暇なら俺のも周回してよ”くらいからかな」
「クッソ序盤じゃねーか。力仕事はどうしたんだよ」
「ちょうど鉄郎さんが来たからそっちに任せた」

汗ばんだ手を握りしめて後退る俺と、挑発的な笑みを浮かべる万里。
一瞬たりとも視線を逸らすことなく情熱的に見つめ合っていれば、春組の仲間たちが不審に思うのも時間の問題で。

「万里くん、どうしたの?」
「イタル、大腸苦行ネ?」
「……?……あ!体調不良か!」

……ああ、終わったな、と悟ったのである。

▽△

「至さんはすごいんです!特に今回は座長だから芝居のことだけでも大変なのに、お昼はお仕事もされてて……!」
『あ、えと、はい……存じてます……?』
「茅ヶ崎とはね、同じ会社に勤めてるんですけど。こいつ、若手の中では結構期待されてるんですよ」
『へえ!そうなんだ!すごい!』
「あー、えー、至さんはー……えーっと……顔がめちゃくちゃカッコイイっすよね」
『それはめちゃくちゃそうですね!』
「あー!あー!あー!やめろお前ら!やめてください!あと綴は無理して絞り出さなくていい!」

耐えきれなくなって思い切り机を叩くと、仲間達が揃って吹き出した。
その中でも一等おかしそうにしているのが万里である。腹が立って仕方がないが、リアルの俺ではどうしたって敵わないのが分かっているのでそれがまた悔しい。

大勢が面白がっている中で咲也だけが困惑しているようだが、良かれと思って俺を褒めちぎっているものだから、尚更たちが悪かった。
リーダーに甘いのは春組全員の共通点だと言えるけれど、今日ばかりは甘やかしてばかりもいられない。なぜなら俺の生死に関わってくるので。心の。

「あっち行ってろ!あっち!」
「おーおー、お邪魔だってよ」
「万里お前ほんとにぶっ飛ばすぞ」
「マジ?そのひょろひょろの腕で?」
「馬鹿かよゲームに決まってんだろ22時集合な遅れたら殺す」

オタク特有の早口で捲し立てると、万里はケラケラと笑った。

「ほんっとおもしれー!至さんっていつもそうなんの?」
「うるせえこんなん初めてだわ」
『?』

わけも分からずきょとんとしているなまえに「なんでもないから」と言うと、彼女はいまいちピンと来ていない様子で曖昧に頷いた。おそらく鈍感だ。俺にとっては良くも悪くもある。

不機嫌な表情を隠しもせずにぶすくれていると、今度は誰かが俺の隣に腰掛けた。
微かに眼鏡のフレームを上げる音が聞こえて、そちらに視線をやる。千景さんだった。

「なまえ、かわいいね」
「……は?」
「かわいいね。すぐ言うこと聞きそうだし」
「ちょ、は……?冗談?本気?先輩が言うとマジで分かんないんでそういうのやめてもらっていいですか?」
「ははは!本当に面白いな!」

どいつもこいつも口を開けば「面白い」ばかり。全くもって失礼極まりない。

「でも俺はさておき、こういう女の子は男が放っておかないんじゃない」
「んん……まあ、そうですよね」
「そもそも彼氏いたりして」
「……わかってますよ」

先程までとは一変、憂うように表情を曇らせた俺に、先輩が笑う。

「はは!いやあ、珍しく周りに振り回されてるのも面白いけどね。俺はやっぱり、結構自分よがりな茅ヶ崎が好きだよ」
「……気持ち悪いし、褒められた気もしないです」
「ひどいな。褒めてるつもりなんだけど?」

自ら落としておいて今更フォローするこの人を、不器用だと思う。
先輩はおそらく、らしくないな、と言っているのだ。物分かりよく早々に諦めきっている俺を、らしくないと。好きなことしかやりたくない、面倒事からはなるべく逃げたい、そういう自分よがりなクズこそが俺だと言っているのだ。

自分でもよく分かっている。俺らしくない。
いつも通り、周りの迷惑もさして気にせず、自分の好きなように動いている方が性に合う。

でも、だって、仕方がないではないか。
本当に人を好きになった時、自分がこんなにも臆病になるのだと初めて知った。顔も名前も知らなかった画面の向こうに、おそらくは、5年もかけて恋をしていた。

そんなことは初めてだった。
俺が躊躇うのも仕方がないではないか。

先輩が慰めるようにして俺の右肩を二度叩いた時、なまえが俺の名前を呼んだ。

『私、そろそろ帰るね。長居しちゃってごめんなさい』
「ああ……うん」

彼女が周りに向かってぺこりと会釈をすると、劇団員たちは口々に別れの言葉を口にした。
何だかんだでこいつらもなまえのことを気に入ってしまったらしい。俺を揶揄うためとはいえ、女嫌いの千景さんですら彼女のことを「かわいい」と評したのだから、少なくともここにいる人間には好意的に見られていると思って相違ないだろう。

ドアノブを引いたなまえが振り返り、俺に向かって「じゃあ、またね」と言った。

『今日は誘ってくれてありがとう。何度も言ったけど、すっごく面白かった』
「はは、らしくなく頑張った甲斐があったわ」

……またおいでよ。その一言がどうしても言えない。
にこりと微笑んで手を振る彼女に、同じように返す。
そのままなまえの小さな背中を見送ると、扉の閉まる無機質な音が響き、控え室はそれきりしんとした。

何となく居心地が悪くなって、スマホを触る。
思い返せば来てくれてありがとうと伝えていないような気がして、俺は急いでつぶやきアプリのダイレクトメールを開いた。

瞬間、画面が大きな手に覆われる。

「馬鹿かよ」

顔を上げると、すぐそばに群青が迫っていた。
吸い込まれるような瞳に責め立てられているような気がして、俺は咄嗟に顎を引く。

「至さんさあ、何にビビってんのか知らねーけど、さすがにちょっとダサすぎんじゃね?」
「……俺がダサくないことなんてあったか?」
「論点すり替えんな」

万里の語気が鋭くなる。

……そうだ。俺はビビってる。
なまえは俺にとってずっと、画面の向こうにいる友人だった。家族にすら等しいこの劇団の奴らよりもずっと長い間、他の何より大事な趣味で繋がっている。

ネットで出会った知人と3年以上関係が続くことは殆どないらしいと聞いたことがある。
俺にもなまえ以外のゲーム仲間はいるけれど、確かに1年を過ぎれば徐々に連絡を取らなくなるし、知らぬ間にアカウントが消えているということも多々あった。

消えるのだ。ネット上の繋がりは、ある日突然。
どちらかの意志だけをもって、どちらかの意志に反して。

俺のたった一言で、この繋がりさえ消えるかもしれない。
彼女が俺を拒絶した瞬間、彼女の人差し指1本で、5年続いたこの関係は呆気なく終わるかもしれないのだ。
膨大な情報の海の中では再会など出来るわけもない。

だからこそ、自分の想いは不要だった。

万里は右の拳で俺の胸をどん、と叩いた。
今だろ。今しかねーだろ。そう呟きながら、射抜くような視線で俺を見つめる。

「チャンスはそう何度も都合よく巡ってきたりしねーよ」

下唇を噛み締め、喉を鳴らす。
悔しかった。出会った頃には人生の迷子みたいな顔をしていたくせに、今、こいつは俺よりもずっと先を歩いているようにすら感じる。

「…………なんでお前、そんなかっこいいわけ」

ぼそりと呟いて、俺は走り出した。
運動神経には全くもって自信が無いが、今更なりふり構っていられない。ここの奴らにも彼女にも、格好をつけられたことなど1度もなかった。

控え室を飛び出して、長い廊下を駆ける。
ロビーはこんなに広かったか。すでに息が上がっている。きつい。今すぐ倒れ込みたい。
相手がなまえじゃなければ、とっくの昔にそうしてる。

そうして劇場の入口にまで到達した時、漸く視界が彼女の小さな背中を捉えた。

「なまえ!」
『!』

ぴくりと反応した彼女が、振り返って小さく俺の名前を呼ぶ。

いたる、と零れた3文字が、今度は現実世界で繋がった俺たちの関係を証明していた。

『ど、どうしたの?私忘れ物してた?』
「はあ、はあ、っ……ちが、」

ぜえはあと肩で息をしながら喋ろうとすると、彼女がゆっくりでいいよと俺の背中をさすってくれる。
正直一分一秒も惜しくて、俺は必死に呼吸を落ち着けようと衣装の胸元を握りしめた。

後から幸に怒られるだろうが、今この瞬間さえ乗り切れるなら何でもいい。どれだけでも甘んじて受けよう。

俺の背に回るなまえの手首を掴んで、パッと顔を上げる。

「また呼んでもいい?」
『…………え?』
「演劇に興味ないかもしれないけど……今回はナイランだから来てくれたって分かってるけど……もしまた観に来て欲しいって言ったら、ちょっとくらいは悩んでくれる?」

不安な気持ちが隠しきれず、しりつぼみになって問いかける。
答えを聞くのが怖かった。俺のことを嫌ってはいないだろうが、それと芝居を見るためにわざわざこの街まで足を運んでくれることとは全くの別問題である。

そんな俺の胸中など全く知りもしないなまえは、どうしてかおかしそうに笑った。
わけがわからず、俺は呆気にとられてしまう。

『MANKAIカンパニーのチケットって、倍率どれくらいなんだろう』
「…………?」
『……ずっと考えてたの。もし次誘ってもらえなかったら、自分で取らなきゃいけないから』

咄嗟に言葉が出なかった。すぐに理解が出来なかったのかもしれない。
だって彼女のその言葉を……自分の都合のいいように受け取ってもいいのだとしたら。

俺は長い息を吐き出しながら、へなへなとしゃがみこみ、項垂れた。
なまえは驚いたように「えっ!?大丈夫!?」と声を上げる。

大丈夫なわけがあるか。こんなに緊張したのは……いや、彼女と初めて顔を合わせた時だから、つい先刻ぶりか。
相変わらず腑抜けた自分に嫌気がさすも、今はただ、押し寄せる安堵に表情を崩した。

「今日、来てくれてありがと。本当は初演が決まった時からずっとなまえに観て欲しかったんだ。誘う勇気が出なくてごめん」
『……うん。観れて良かった。こちらこそありがとう』

なんだか照れくさくなって、どちらともなく笑う。
俺は浮かれていた。衣装を着たまま劇場を飛び出してしまったことに今更気付いても、もう少しだけこのままでいいか、なんて思うくらいには。

ふたりでひとしきり笑い合ってから、俺たちは今度こそ手を振り別れる。
去り際、彼女は思い出したように「あ!」と声を上げると、こちらを一度だけ振り返って言った。

『NEOのことボコボコにするんでしょ!私も仲間に入れてよね、たるち!』

夕暮れ時。
暖かなオレンジ色に包まれながら、彼女の髪がゆらゆら揺れる。

……零れたその3文字が。彼女と俺の関係を、証明していた。

「別にいいけど!今日はすぐ死ぬなよ、名無し!」

次に会う時は画面の向こう。
ヘッドホンから聞こえる声と、仮想空間で武器を握る分身が、今日もまた俺の心を震わせるだろう。

俺たちの関係は変わらない。
ネットで出会った大切な友人で、5年来の付き合い。毎晩ゲーム内で顔を合わせては共にモンスターを狩る、相棒のような存在。

それでも間違いなく、昨日とは違うことがある。
素顔を知った。名前を知った。照れると赤面することを知り、笑うと左の口角にだけえくぼが現れることを知った。

小心者の俺はまだ理由もなく会いたいと口にすることなど出来ないけれど、次の公演に誘うことを許されただけ、前進したのだと思いたい。
少なからず彼女はまだ、俺との繋がりを切ってしまいたいとは思っていないだろうから。

控え室に戻りながら、今夜ボコボコにする予定の男の顔を思い浮かべる。
頭の中のそいつは現実と同じく腹立たしい表情を浮かべているが、少しくらいは手加減してやってもいいかな、なんて思い直した。

2対1はさすがに卑怯だ。
俺と彼女の最強タッグなら、尚更。