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「#エロ」のBL小説を読む
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※2年目の夏なので莇くんはまだ在籍していない設定です。



『わー!超きれーい!!』
「スゲー!人がいっぱいッスね!」
「ふたりとも、あんまり乗り出すと危ないぞ」

助手席に座る臣くんに言われて、車窓から顔を出していた私と太一くんが揃って「はーい」と返事をする。
スイッチに左手の人差し指を引っ掛け、全開にしていた後部座席の窓を半分ほど閉じた。

隙間から入ってきた潮風が、つんと鼻に残る海の香りを運んでくる。空は青い。
カーステレオから流れてくるアップテンポな音楽に乗って僅かに身体を揺らしながら、私はじっと窓の外を眺めていた。

そう。
今日はなんと、秋組のみんなに連れられて海にやってきているのです。

『楽しみ過ぎて昨日寝れなかった!』
「遠足か」

隣に座る万里が短くツッコミを入れるので、私はジト目で抗議する。去年の夏、あんたに見張られて課題の山を消化していたせいで海にも行けなかったこと、未だに忘れてないんだからね。

嫌味ったらしく返してやろうと口を開こうとしたところで、左京さんから「狭い車内で何度もやり合うんじゃねえよ」とのご指摘を受けた。
まだ何も言っていないのに、どうして噛み付こうとしたのが分かったんだろう。背中に目でもついているのではなかろうか。

「オッサンは運転に集中してくださーい」
「誰がオッサンだ」
「自分で言うくせに」
「自分で言う分にはいいんだよ」

そう。本日の運転手はなんと左京さんなのだ。
元より免許を持っているということは知っていたものの、実際に運転しているイメージが浮かばなかったので少し驚いた。
普段はほとんど迫田さんに任せているそうなのだけれど、組の方では偉い人たちの運転手をすることもあるらしい。左京さんが下手に出るところなんて、まるで想像ができない。

ちなみにこちらの大きな車は丞さんのもので、みんなで海に行くのだと話すと快く貸してくれた。
今日は丸1日寮で過ごす予定ではあるけれど、万が一車が必要になることがあれば自分は至さんに借りるので問題ないと言ってくれたのだ。心が広い。
その至さんは昨日新作のゲームを買って帰宅していたので、今日は確実に引きこもる予定だろうと推測……否、確信している。

『監督さんも来れたらよかったんだけどなぁ』
「ったく、いつまで言ってんだ。仕方ねーだろ。稽古もあんだし」
『だって本当に残念そうにしてたのよ』

口をへの字にして万里を見上げると、手元のスマホをいじっていた万里も顔を上げてこちらを見た。
監督さんは夏組の公演前でとっても忙しいらしく、今日もお仕事に励んでいる。新入団員である九門が増えたので、稽古にも一段と気合いを入れているようだ。

そういうわけで勿論この日の誘いもお断りされてしまったのだけれど、悩みに悩んだ末泣く泣く、といった感じだったので、次の機会があれば今度こそ一緒に行けるといい。

しゅんとしながら窓の外を眺めていれば、突然前方から「あっ!」と明るい声が上がった。太一くんだ。

「Pって書いてある!着いたッスよ!」
『ほんとだ!駐車場はこちらだって!』

楽しみッスね、と歯を見せて笑った太一くんに、私も頷きを返してから笑いかける。
視界の端では左京さんがサンバイザーを開き、そのポケットに駐車券を収納している様子が見えた。

ちなみに今のところ一切口を開いていない男がひとり存在しているわけだが、奴は太一くんの隣でひたすらにハイミルクのチョコレートを頬張っているだけなので、特に心配する必要はないことをここに付言しておく。

▽△

『……イケメンゴリラ集団……』

男性陣と一旦別れて更衣室へと向かい、水着に着替えて出てきた私は、先に準備を済ませたらしい彼らを遠巻きに眺めながらそう呟いた。
浮かんだ言葉がそのまま口から飛び出すことは私にとってままあることだが、こればかりは私でなくても思わず口に出してしまうに違いない。

揃いも揃って顔がいいことは分かりきっていたけれど、まさか服の下から育成済みの筋肉がこんなに出てくるとは。
カンパニーのアクション担当は伊達ではない。自分でも気付かぬうちに感嘆のため息を漏らしていた。

周囲の女の子たちも緩む口角を隠しきれず、ひそひそと内緒話をしながら様子を伺っている。
こうしている数分だけでも2、3のグループに声をかけられているところを目撃したけれど、そのたびに万里や臣くんが苦笑しながらやんわりお断りしているようだった。
彼女たちはその対応にすら嬌声を上げるほどで、もしかすると劇団のファンの子たちなのかもしれないとすら思えてくる。

尚、こうしてつらつらと目に見える情報ばかりを語っているのは、ただただこんなタイミングで出ていきづらい一心からに他ならない。

「……あ?おいコラなまえ!んなとこで何やってんだ!さっさと来いや!」
『うわバレた』

ふと目が合った途端に万里が叫ぶので、私は肩を揺らして一歩後退る。
双子パワーの馬鹿野郎。こんなところであいつにそれを発揮させるんじゃない。

予想通り女の子たちが一斉にこちらを向いたので、右のこめかみを抑えながら苦笑する。
「なにあいつ、ブスじゃん」などと眉根を寄せる人はひとりもおらず、辛うじて心の安寧が保たれた。私の。
仮に思ったとしても言わずに心の中に留めておいてくれることが何より重要なのだ。

私は仕方なくといった顔をしてから、漸く小走りでみんなの元へと向かった。
近くまで来ると尚更圧がすごくて、もはや無心になるほどですらある。

「おっせーんだよ。あんなとこでぼーっと突っ立ってんな」
『ごめんごめん、みんながあまりに格好良いから近寄りづらくて』
「知ってんだわ」
『あんた以外の話だけど』

脳天に拳を振り下ろされる。何よ、私が格好良いなんて言うとそれはそれで気持ち悪がるくせに。

拳骨を食らった頭を両手でさすっていると、太一くんと目が合った。ぱちりと視線を交錯させた彼は、しかしすぐに臣くんの影へと隠れてしまう。
分かりやすく視線を泳がせる様子に困惑していれば、そのうちに彼の方から口を開いた。

「ぬ!!布がっ!!」
『え?』
「布がっ!!少ないと思うッス!!!」

何のことかと目を瞬いて、それからああ、とすぐに思い至る。

『今年は黒ビキニ買ったの。可愛いでしょ』
「布が少ない!!」
『水着なんてこんなもんじゃん?』
「黒買うならもうワンカップくらい上げて来いって」
『万里アンタ……身内にセクハラって……』
「片割れ相手になーにがセクハラだっつの。金積まれても性的な目で見ることはねーから心の底から安心しろよ」

本当に碌なことを言わない男である。あまりの言われように腹が立ったのでコブラツイストでも決めてやろうかと思ったが、掴みかかろうとした瞬間にするりと躱されてしまった。くそ、あと0.1秒早く動けていたら。

代わりにじろりと睨みあげてから、ふん!と鼻息を荒らくしてそっぽを向く。
お前らなあ、と口を開いたのは左京さんだった。

「寮でも出来る口喧嘩するためにこんなとこまできたわけじゃねぇだろうが」

ぐうの音も出ない。

▽△

『くーやーしーいー!』

わーん!とビーチボールを放り投げながら喚くと、向かいの兵頭が眉をひそめた。

「うるせえ。ボール飛ばすな。取りに行け」
『腹立つー!なんでこいつに勝てないの!?』
「いや、冷静になれなまえ。俺らは兵頭に勝てねーんじゃねえ。臣に勝てねーんだ」
『結局勝てないのやだー!』

じたばたと地団駄を踏み散らかしながら、波にさらわれていくビーチボールを追いかける。
水の抵抗すら気持ちが良くてバシャバシャと不必要にはしゃいで見せると、近くで浮き輪に捕まっていた太一くんが笑った。

さて、現在は万里と2人で兵頭・臣くんチームにビーチバレー勝負を仕掛け、ものの見事に3連敗しているところだ。
私も万里も運動神経自体はかなり良い方だと自負しているのだけれど、如何せん今回ばかりは相手が悪いらしい。
特に臣くん。彼はニコニコ笑顔の下にとんでもない身体能力を隠し持っていたのである。

足の取られやすい砂浜だと言うのに、まるでアスファルトの上を走っているかのような俊敏な動きが出来るのは一体何故なのか。
本人に問えば「海で抗争があったりもしたんだ」などと恥ずかしそうに言うので、それ以上訊ねることはやめておいた。私は空気が読めるのだ。

『喉乾いたし休憩にしよ。私買ってくるけど欲しいのある人ー』
「茶」
『何茶です?』
「何でもいい」
「俺コーラな」
「俺っちも!」
『コーラ2とお茶が1。ほかは?』

指折り数えて残りの2人に目線をやると、同じタイミングで首を振った。先程まで同じチームでバレーをしていたからか、あまりに動きが揃っているので笑ってしまう。

「ついて行くか?」
『抱えられる量だし平気。サンキュー』

兵頭が珍しく気を遣ってくれるので、右手で制してから1人でビーチを離れる。
昼時だからか丁度海を上がって行く人が多いような気がした。


自販機は更衣室のすぐ側にあって、その上3台も並んで設置されていたので購入自体はスムーズに済んだ。
目先の問題といえば現在目の前に立ちはだかる壁。それのみである。

「どこから来たの?ひとり?」
「良かったら飯だけでもどう?」
「友達と来てるなら一緒にでもいいし」

男性陣と少し離れただけでこれだ。ここには女に飢えた黒焦げの男たちしかいないのだろうか。
そもそも何故ひとり?というワードが飛び出してくるのか。普通に考えてひとりなわけがないだろ、ここはパリピ達の集う真夏の海だぞ。

あと私、飲み物4本抱きしめてるんだけど。
1人でこんなにがぶ飲みするような女に見えているということですか。つらい。2分の1はコーラだし。
というかそんな女に見えているなら尚更声をかけないで欲しい。

『大人数で来てるんで。結構です』
「友達何人?みんな一緒でいいからさ」
『5人だけど絶対後悔するのそっちだよ』
「後悔?」

きょとん、と首を傾げてニヤニヤと笑うそいつは、イソギンチャクを逆さまにしたような髪型をしていた。
髪の色もわかめみたいだし、なんだか海坊主みたいな男だ。ちなみに海坊主というのが一体何者なのかは知らない。

面倒臭いのでいっそ煽ってやろうかと口を開こうとしたその時、突然行く手を阻んでいた壁が割れた。
にこりと効果音のつきそうな人のいい笑みを浮かべて、壁と壁の間から顔を出したのは。

「すみません。連れが何かしましたか」
『……臣くん』

名前を呼んで、ほっとする。知らず知らずのうちに身構えていたのかもしれない。
こちらを一瞥した臣くんは、男たちの間を縫って、私とそいつらとの間にするりと身を滑り込ませた。

「彼女がご迷惑をおかけしたのならすみません。ここじゃ周りの邪魔になるんで、お時間よかったら場所を変えてお話しましょうか」

柔らかい笑顔に当たり障りない物言い。
そこまではいつも通りの優しい臣くんだけれど、今日は少し違った。
ここは海。鍛え上げられた筋肉が惜しげも無く晒されているのである。

顎に入った古傷や身長の高さも相まって、この場の誰よりも威圧感があった。恐らくビビり上げているのだろうが、海坊主たちもぽかんと呆けて臣くんのことを見上げている。

「い、いやあ……お兄さんの彼女?あはは、すいませんねえほんと、俺たちちょっと調子に乗っちゃって」

誰だお前は。

先程までの軽薄な態度はどこへやら。男たちは臣くんにぺこぺこと頭を下げてから、今度はじりじり、じりじり、後退りを始めた。

その様子にドン引きしていると、不意に肩を抱かれる感覚がする。
大きな手が私の左肩を掴んで、背中に熱の籠った肌が触れた。

あ、臣くんの腹筋だ。めっちゃ硬いんですけど。
呑気にそんなことを考えながら彼を見上げて、刹那、ひゅ、と息を呑む。

「分かんねえのかよ。さっさとどっか行けっつってんだ」

……いや、こっちも誰。

僅かな感情すら見えない臣くんの表情を見たのは初めてで、思わず抱かれた肩が強ばる。
獰猛な獣のようだった。静かに毛を逆立てて、縄張りを荒らしに来た相手を威嚇している。

男たちは顔を背けてそそくさと逃げていく。
わかめのようなイソギンチャクが先程よりも随分と萎れて見えたが、正直なところ、今は笑い飛ばしてやる気持ちにはなれなかった。

身が竦んだのが伝わったのか、彼はすぐにため息をついて、今度はゆっくりとこちらを見た。そこにあるのはいつも通りの優しい顔で、先程まで同じ場所にいた、私の知らない誰かではない。

「遅くなってごめんな。十座を連れて行ったのかと思ってたんだ」
『えっ。いや全然臣くんが謝ることじゃないし!むしろ来てくれてありがとう!』

両手を振って否定しようとするけれど、如何せん抱えた飲み物がすこぶる邪魔でかなわない。代わりにそのペットボトルごと左右に振ろうとして、それもギリギリのところでやめる。
やばい。コーラがあるんだった。殺されてしまう。

『ところで臣くん』

遠慮がちにちらりと臣くんを見上げると、私の言いたいことが伝わったのか、彼は照れたように苦笑する。

「はは……昔の癖が少し出ちゃったな」

秋組で1番怖いのは左京さんだと思っていたのだが、やはり考えを改める必要がありそうだ。

▽△

ギャッ!とびっくりした鼠のような声を出して飛び上がったのは、低めの岩場に腰掛けていたはずの太一くんだった。
傍らには手を叩いてゲラゲラと爆笑している万里の姿が見える。

「おいコラ摂津、危ねぇことすんじゃねえぞ!」

左京さんが大きな声でそう言うと、万里はいつもの如く「あいよー」と間延びした返事をしてから、また太一くんに向かって何やらちょっかいを出し始めた。
先程5、6本の手筒花火を鷲掴みにして行ったので、また何かよからぬ事を考えているに違いない。
その証拠に太一くんの口からは絶え間なく悲鳴が飛び出している。左京さんの大きな溜息が聞こえた。

花火。夏の風物詩のうち、最も彩り鮮やかで眩しいもの。
まさかこうして夜の海を眺めながら出来る日がくるなんて、去年までの私には想像もつかなかっただろう。

「おい、もっと端寄れ」

ふっと陰が差して、その主を見上げる。
暗闇に馴染む紫頭が、ちょうど頭上に浮かぶ月を覆い隠していた。
こういう風にだいぶ下から見上げていると、幾分か目つきの悪さが目立たなくなるような気がする。

『兵頭はあっちに混ざらないの?』
「わざわざ面倒事に巻き込まれに行く馬鹿はいねぇ」
『ふうん。あんたと万里は大抵セットなんだと思ってたわ』
「そりゃテメェだろ」

お尻をずらして場所を譲ると、隣に兵頭が腰掛ける。
ごつごつした階段なので座り心地は良くないけれど、2人で座るには丁度いい幅だった。

ん、と短く1文字発した兵頭が、私に向かって何かを差し出す。
線香花火だ。10本で1束。
早くない?と苦笑すると、別にいつやったっていいだろと無愛想な返事が返ってくる。

私が束からするりと1本抜き取ると、隣からカチリと音がした。
兵頭の持つライターが、小さな炎をゆらゆらと揺らめかせている。寡黙な男は波風にさらわれてしまわないようそっと左手を添えて、ゆっくりとした動作で私の花火に火を移した。

ぱち、と小さな破裂音がひとつ。
蕾の先がみるみる朱に染まり、鮮やかな閃光が弾け始める。
美しく儚げに散じていく火花を眺めていれば、すぐにもうひとつ、しゅわしゅわと優しい音が聞こえてきた。

『……似合わない』
「うっせぇ。ほっとけ」

つくづく繊細な男だ。毎度意外性に度肝を抜かれる。
一緒に暮らし始めてからは、それにも随分慣れてきたけれど。

こいつだけじゃない。みんなそれぞれにギャップを抱えていて、毎分毎秒新しい。
3月までの私が見ていた彼らのすべてはその一面に過ぎなかったのだと、密かに実感している最中だった。

彼らに出会って、初めて巡ってきた夏だ。
万里が入団した頃から数えると、もう少しで1年になる。早いものだなとしみじみ思うけれど、これから続いていく何年もの時間を考えれば、1年なんて一瞬だとも思った。

環境が随分変わった。家族も増えた。自分を少しだけ好きになれた1年だった。
大好きになってしまったみんなや、癪だけど、万里のおかげで。そんでもって、元を辿ればこいつのおかげで。

仏頂面の横顔をちらりと見遣った瞬間、その薄い唇が「あ」と動く。
最後の火花がぱちりと弾けた。色をなくした蕾が音もなく落ちる。
ふっとあたりが暗くなったような気がして自分の手元を見れば、いつの間にか火球が消えていた。水滴みたいな形になって、震えながら落ちていくそれが見たかったのに。

終わっちゃった。
私がぽつりと呟いたのと同時に、向こうの方から大きな声が聞こえてくる。

「あーっ!十座サンがなまえチャンと2人っきりで花火してるーっ!」
「あ!?つーか兵頭てめぇ線香花火全部持ってったろ!寄越せや!」

砂浜を走ってくる2人に苦笑しながら、私と兵頭は揃って腰を上げた。
眉を下げて小さくため息を吐くと、さて、と呟き腕組みをする。

『ネズミ花火ってまだ残ってる?』
「1個もやってねーな」
『じゃあ線香花火終わるの1番早かった人が左京さんの足元に逃がしに行く係ね』
「鬼ー!!」

太一くんが声を裏返して叫ぶので、あまりの切実さに思わず笑ってしまう。
だって臣くん怒ったら怖いでしょ。今日学んだことを踏まえてそう言うと、そういうことじゃないんだと涙目になって訴えかけられた。

まあでも、よく考えたら臣くんと左京さんは2人で固まっているから、どっちみち双方から怒られることになりそうだな。太一くんには言わずにおくけれど。

兵頭から線香花火の束を受け取ってみんなに配る。
太一くんが覚悟を決めた男の顔をしていたので、それを見てまた笑ってしまった。

「なまえ」

全員に花火を配り終えたところで、万里が私の名前を呼んだ。
ん?と顔を上げるのと同時に、視界いっぱいに真っ赤な何かが現れる。思わずびくりと肩を跳ねさせた。

『わ、びっくりした……何?昼間のコーラ?』
「腹いっぱいだから飲み切ってくんね?もー無理」
『はあ?なんだそんなこと?わざわざ驚かせないでよね』

悪びれもしていない様子の万里をジト目で睨みつけてから、キャップを捻る。少し固い。
抵抗がなくなった瞬間、プシュッとガスの抜けるような音が聞こえてきた。

あれ?
そう思ったのも束の間。

『キャー!!!待って待って待って!!』
「あははははははは!!!ッバーカ!!!」

しゅわしゅわと音を立てて溢れてくる泡、泡、泡。
真っ白なそれは次々に湧き上がってきて、どんどん形を変えていく。なんだか生き物のようだった。

手を伝って流れ落ちていく感覚が絶妙に気持ち悪い。糖分が肌にベタベタと張り付いていくのがわかる。
今すぐに手を洗いたくて仕方がないけれど、これをその辺りに投げ捨てて走り出すわけにもいかないので、うわ、だとかぎゃあ、だとか悲鳴にもなっていないような声を上げることしか出来ない。

そもそも飲みかけならあんなに気持ちよく音が鳴るわけがなかったのだ。気付いたところでその時にはもう遅かったのだけれど。
海に光がないためか、暗闇のせいで中身が減っていないことにも全く気付けなかった。重さで気付けよ、とも思うだろうが、普通はそんなことに警戒しながら人から飲み物を受け取ったりしないだろう。

……って、ちょっと待って。こういうの、前もあったような気がするんだけど。

バッと勢いよく万里の顔を見れば、あっかんべ、と薄い舌を出して悪い笑みを浮かべていた。
ぶち、と私の中の何かが切れる音がする。

「花火してたら去年の思い出した。仕返し」
『あー!もう!クソ万里ぃ!!一発殴らせなさいよ!』
「なんだっけ?“あまーいおてて、拭いてからにしてください”?」
『あああ〜!!ムカつく〜!!!』
「はははははははは!!!!」

腹立たしくてボトルを持つ右手を後ろにぐぐ、と引っ張ると、煽るような表情をしていた万里が一転してぎょっと目を見開いた。
おい馬鹿、やめろ!慌てたように捲し立てるその様子に気分が良くなって、私はにやりと口角を上げる。

『頭から被っちゃっても大丈夫。海水で洗ってあげようね』
「地獄か!!!」

逃げていく万里を追いかけて、砂浜を踏みしめる。
すぐ側で太一くんがスマホを構えていた。なまえチャン頑張れ!と私の応援をしてくれているのは恐らく、先程まで万里に散々遊ばれていた腹いせの意図もあるだろう。

賑やかな笑い声が闇夜に響く。
去年の今頃はこんな風じゃなかったなあなんて、そんなことをぼんやり思った。

形容し難い不安があった。なんだかこれから良くないことが起こるような、そんな予感がしていた。
夏が終わって秋が来て、それから何かが目まぐるしく変わっていくような、捉えどころのない胸騒ぎがしていた。

ねえ。それって結局、何だったの?
あの日の私が問いかけてくる。

私の予感は当たっていたの?何か大きな変化があったの?
私と万里を取り巻く日常は、これからどうなってしまうの?
私たちは今のままでいられるの?

不安そうなその瞳に、私は明るく笑いかけた。
……うん、そうね。たしかに私たちは、そのままの私たちではいられなかったけれど。

『信じられないくらい幸せな毎日が、すぐそこまでやって来てたのよ』

だからなんにも心配しないで。


……夏が終われば。
瞬く間に秋風がやって来て、私は嵐のようなそれに揉まれながら、またひとつ、何かを掴むのだろう。
去年は不安で堪らなかったそんな予感も、今はなぜだか楽しみで仕方ない。

夏夜の海。潮風にロングヘアを絡め取られて、私は駆ける。
彼らの側で過ごす2度目の秋が、少しでも彼らに優しくあるよう、切に祈りながら。