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眠れない夜に求めるもの。
穏やかな音楽。はちみつの香り。ホットミルクに、暖かい毛布。

……それから、優しくて大きな彼の右手。

『東さん……寝れない』
「ふふ、なまえは仕方ないね。どうぞ」

妖艶に笑った東さんに手を引かれて、今日も私は206号室に足を踏み入れる。
僅かに床が軋んだ瞬間、ふわりと甘い匂いに包まれた。

ここはこの寮の中においてたったひと部屋しか存在しない、彼のひとり部屋だった。
というのも、今年に入ってから各組には新入団員が次々と入団して来たため、これまでひとり部屋を満喫していた面々も相部屋にならざるを得ない状況となったのだ。
主に至さんや至さんや至さんなんかが渋っていたのだけれど、結果的にはそれなりに上手くやれているらしい。

冬組だけが未だに見慣れた5人のままだった。
だから新しいメンバーが揃えばこの部屋も2人部屋になるわけだが、私はその日が来るのが楽しみでもあり、少しだけ寂しくもある。
この部屋で過ごす夜は私にとって特別で、1日のうちの何よりも価値のある時間なのだ。

だから少しでも長く続いて欲しいと思っている。
その反面、進化していくこの劇団を近くで見ていたいとも。

『ホットミルク、東さんの分もあるよ』

私がトレイに乗せたマグカップを目線の高さまで持ってくると、東さんは優しく微笑んだ。

「ありがとう。なまえが入れてくれたの?」
『うーん。そう言えたら良かったんだけど……へへ。臣くんがキッチンにいたの』
「臣、まだ起きてるんだ」
『お弁当の準備だって言ってた。私も手伝おうとしたんだけど』
「遠慮された?」

頷いてから、静かにむくれる。
私の料理スキルが皆無であることはこの寮において周知の事実であるが、簡単なことを指示してもらえたなら私にだってそれなりにこなせるに違いない。
……違いない、と表現したのは、未だその域にすら至っていないからなのだけれども。

東さんは笑った。私があまりに子供っぽい振る舞いをしたせいかもしれない。
恥ずかしくなって意味もなく前髪を弄び始めると、東さんが私の名前を呼んだ。

「なまえ。おいで、もう眠ろう」
『……うん』

彼はマグカップをサイドテーブルに置き、ベッドに浅く腰掛ける。
私もそれに倣ってからいそいそと布団に潜れば、視界を覆うようにして東さんの右手が私の瞼に触れた。

ほどなくして私は、瞼のずっと奥の方に意識を沈めていく。
あたたかくて優しい香りのする彼の右手は、他の何よりも私に安寧をもたらしてくれるのだ。

「おやすみ、なまえ」

囁かれ、囁き返す。

『おやすみ、東さん』

▽△

なまえは癒し系だよね、と言われることがある。
みんなの妹だよね、とか、マスコットキャラクターみたいだとか、そんなふうにも。
異論も不満もない。客観的に見ても私はそんな人間だと理解しているし、愛情をもってそう評されることに関してはむしろ嬉しいと思っている。

けれどそれは、ただひとつの場面を除いての話だ。

雪白東という大人がいる。
成人男性と言うだけでなく、どんなときでも落ち着き払ったその言動や気品のある言葉遣い、笑い方や豊富な教養、包容力に至るまで、知人の中の誰より“大人”と表現するに相応しい人間だった。

彼と同じ額縁の中におさまるべきはマスコットキャラクターなどではなく、優しく美しく聡明な美女である。
どんなに自分贔屓で見ても、彼の隣に立つ私という絵面にはどうもしっくりこないのだ。

だから結局、私は子供っぽい自分のことが、まあ、それなりに嫌いなのだった。

「ただいま」
『東さん!おかえりなさい!』

談話室のソファーに腰掛けて収支報告書をまとめていると、帰宅したらしい東さんが扉の向こうから顔を覗かせた。
私はぱっと表情を輝かせ、東さんに声をかける。

彼の声を聞くと条件反射のように口角が上がってしまうのは、正直、私にはどうしようもないことだ。

「よかった。なまえ、すぐに見つかった」
『……?私に用事ですか?』

こてんと首を傾げると、彼が漸く扉のそばを離れてこちらへと歩み寄ってくる。
一歩足を踏み出すたびにゆらゆらと揺蕩う白銀色のロングヘアは、今日も光沢を纏って、差し込む太陽光に反射しては美しく輝いていた。

東さんは向かいのソファーに腰掛けるわけでもなく、私のすぐそばまでやってきた。
顔だけを覗かせ室内の様子を窺っていた先程は見えなかったが、なにやら紙袋を持っている。
質感からしてよっぽど上質なものらしいそれを、彼は私の目の前にそのまま差し出した。

『え……何ですか、これ?』
「お菓子。貰ったんだ。すごく美味しいらしいから、なまえにあげようと思って」
『えっ?私が貰っていいの?これ絶対高いやつでしょ?』

手を出しては引っ込め、出しては引っ込め。
そうして受け取るのを躊躇っていれば、彼は形のいい唇を三日月型に引き上げて、やっぱり美しく微笑んだ。

「じゃあ作業は休憩にして、一緒に食べよう。食べ終わったらボクも手伝うよ」
『ええ……でもこれ私の仕事だし……』
「暇なんだ。お菓子あげる代わりに手伝わせて」
『なにそれ。私しか得してないじゃん』

東さんはくすりとひとつだけ笑って、今度はキッチンの方へ向かった。
談話室には私たち二人しかいないから、広い室内のどこにいてもお互いの声がよく聞こえる。

東さんはマグカップを手に取ると、ココアでいい?と私に訊いた。
うん、と肯定を返して、私は彼を見る。

色白な右手にコントラストの効いた、真っ赤なマグカップ。私のお気に入りだ。

彼の淹れてくれるココアは美味しい。私好みのあまーいココア。
インスタントじゃ誰が淹れてもそう変わらないだろうと思うだろうが、なぜだかひときわ美味しく感じるのだった。

そうして眺めているうち、今度は綺麗な装飾があしらわれた真っ白なティーカップが私のマグカップの隣に並んだ。
彼は封の切られていないピンク色の箱を丁寧に開封すると、その中からひとつのティーバッグを取り出し、カップの中に入れる。本当にひとつひとつの所作が様になる人だなと感心する。

と、同時に口から小さなため息が洩れた。
やっぱり私ではないなぁ、と思うのは、いつだってこういう時だ。

例えば私が紅茶を飲めたなら。
例えば私がもっと早く仕事を片付けられていれば。
私は私を、彼の隣に立つに相応しいと思うだろうか。

美しいティーカップに並んだ真っ赤なマグカップはやけに子供っぽく見えて、途端になんだか恥ずかしくなった。

「考えごと?」
『あ……ううん!ぼーっとしてただけ!』

気がつけばカップを両手に持った東さんが、ちょうど向かいに座ろうとしているところだった。
慌てて書類を片し、ありがとうと言ってカップを受け取る。熱いよ、と私に声をかけながら手を離した彼は、次にお菓子を開封し始めた。

『わ、美味しそう!』
「ふふ。沢山あるから、ふたりじゃ食べきれないね」
『ここに置いてたらみんな食べるんじゃない?』
「うーん、どうかな。十座が全部食べちゃうかも」
『あはは!言えてる!』

東さんが口元をおさえてくつくつと笑った。
上品な笑い方は彼によく似合っていて、大口を開けて笑う私とは対極に位置しているように思える。

私は一瞬だけ目を伏せて、ソフトクッキーを頬張った。
口内の熱でチョコチップが溶けていく。
思っていたのよりも少し苦くて驚いた。高級品というのはこんなものか、と納得する自分もいた。

『……ねえ。東さん、それなに?』
「これ?クグロフだよ」

訊ねると、彼は聞き馴染みのない名前を教えてくれた。
フランスやドイツで作られる焼き菓子なのだという。

美味しそう、と言うと、彼はあっけらかんとした態度で「食べる?」とこちらへ寄越してきた。

『えっ』
「食べかけでよかったら。どうぞ」
『あ……えっと。ありがとう……』

躊躇いがちに受けとって、ひと口かじる。
どう?美味しいでしょ、などと彼は言うけれど、私には正直、味などよく分からなかった。

彼にとってはなんでもないことなのだろう。
私ですら間接キスなんていちいち気にするような年齢でもないし、東さんのようにもっとずっと大人びた人なら尚更そうだ。

でも。彼がそうでも、みんながそうでも、私は。
どんどん早くなる心臓の落ち着け方が分からなくなるくらいには、どうしようもなく緊張してしまう。
相手が東さんだから。大好きな東さんだから。

そんな自分と余裕のある東さんを比べて、また泣きたくなった。

『ねえねえ!そういえばこれって誰から貰ったの?』

どうにか話題を変えようとして、そんなことを訊ねる。
すぐに後悔することになるとも知らずに。

「昔のお客さんだよ。今日、久しぶりに会ってきたんだ」
『…………へえ!』

綺麗な笑顔が作れていたかは分からない。
馬鹿だとは思うけれど、誤魔化そうとすればするほど、私の口は余計なことばかりを喋った。

『女の人だよね?』
「添い寝屋なんてのを利用するのは、たいていそうだね」
『私より年上?』
「ボクよりも年上だよ」
『……綺麗な人?』

東さんが頷いた。

世間一般的に見ても、美人の部類に入るだろうね。
そんなふうに言っていたような気がしたけれど、実のところあまりクリアに聞こえてはいなかった。

自分が嫌になる。
子供っぽくて単純な自分も、大人な東さんに気を使わせてばかりの自分も、こんなふうに誰かと比べて劣等感ばかりを募らせるような自分も。

ごめん、と言って席を立った。

『監督さんに呼ばれてるの忘れてた!残ってたらまた夜に食べるね!』
「あれ、この書類は?」
『急ぎじゃないからひとりで出来ると思う!ありがとう、ご馳走様でした!』

散らばっていた書類とシャットダウン済みのノートパソコンを抱え、逃げるようにして私は談話室を出た。
東さんは何かを言おうとしていたけれど、やっぱり私は自分のことが恥ずかしくて、結局目を合わせることさえ出来なかった。

自室に戻り、ああ、と思う。
せっかく作ってもらったココアを最後まで飲みもせず、マグカップを片付けもせず。
そんなことにさえ気がつけないような子供だから、いつまで経ってもこんなふうに卑屈な考え方しか出来ないのだと。

そんなことを思いながら、ほんの少しだけ泣いた。

▽△

神様はそれなりに平等だなと思う。

お天道様が見ているとはよく言ったもので、いつも自分以外の誰かを羨み、妬み、東さんに対して身の程知らずな恋心など抱いているものだから、とうとう天罰が下ってしまったのだと思った。

端的にいえば、交通事故に遭った。
命には別状なく、さほど重くない怪我ばかりで済んだのは、おそらくギリギリのところで良い行いをしたからだと思っている。

監督さんに頼まれて夕食の買い出しに行った。
帰路の途中で車道に飛び出す子供を見つけた。
すぐそばにいたから、咄嗟に庇おうと自分も子供を追いかけた。
そして敢え無くドーン。よくあるそんなシーンに自分が巻き込まれるなど、一体誰が予測できるだろうか。

とはいえ、私自身は意外に冷静だった。
車に轢かれそうになった時、大抵の場合は衝突までの時間がやけに長く感じると聞く。実際その通りで、本当にスローモーションに見えるのには驚いた。

けれど、そうは言ってもやはり身体は動かなくなってしまうものだ。
結果的に私は今、病院のベッドに寝転んで、特に代わり映えのしない窓の向こうを眺めている。

後遺症が残る可能性もあったが、打ちどころがよかったためおそらく問題なく退院できるだろうと医者に言われた。運が良かったですね、と。

そんなところで運など発揮するくらいなら、せめて身長が伸びるか、頭が良くなるか、綺麗な顔に生まれたかった。
それで東さんの隣に立てるなら、後遺症が残ったって構わなかったのに。

そんな馬鹿みたいなことばかりを考える。
生憎事故の前から頭はおかしい。今に始まったことじゃないだろうと、私は自分を慰めた。

『……東さんに、謝ろうと思ってたんだけどなぁ』

この間、失礼な態度を取ってしまったこと。それから数日、できる限り避けて過ごしていたこと。
今日こそ謝ろうと思っていたのに、これではそうもいかない。せめて帰宅できればと思ったが、最低でも明日までは入院するよう言われていた。

意識を取り戻してすぐに飛んできてくれた監督さんには、あまり心配しないで欲しいと言った。
大事には至らなかったから、団員たちにも見舞いはいいと伝えてもらっている。明日で退院できるのならむしろ、心配されすぎたほうが恥ずかしいくらいだった。

……ああ。でも、やっぱり。

『……東さんに、会いたいなあ』

ぽつりと漏らして、自嘲気味に笑う。
明日になればきっと会えるのに。死んでしまうわけでも何でもないのに。

真っ白な空間にひとりきりなのが思っていたよりもずっと寂しく感じて、どうしようもなく東さんに会いたいと思った。

その刹那のことだ。

「……なまえ」

名前を呼ばれ、反射的に扉の方を振り返る。
自分の目を疑った。
なんで。どうして。疑問符ばかりが浮かんで、言葉にならない。

知らない人がそこにいた。

正しくいえば、知っている。私の大好きな人で、焦がれてやまない男性だ。
けれど私は、そんな顔をした彼のことを知らなかった。

いつも綺麗に結われている長髪は無造作に下ろされているだけで、少しの光も感じられなかった。むしろところどころ絡まっている様子は、強風にでも吹かれたのかと錯覚してしまうほどだ。

服なんてトップスとアウターがてんで合っていないし、靴だって誰の私物かも分からないようなスニーカーを履いている。少なくともアウターとスニーカーは彼のものではないように思えるので、適当に引っ掴んで来たのかもしれない。

何より一番に驚いたのは、彼が肩で息をしていることだった。

走っている彼を見た事は、今までに一度だってない。
そもそも普段から“必死”だとか“情熱”などという単語とは無縁の人である。こんなふうに息を切らしている彼を想像しろと言われたって無理な話だった。

ああ、違う。私はそんなことが言いたいのではない。
そうではなくて、ただ、私は……。

『……なんで、そんな顔してるの』

彼は、今にも泣き出してしまいそうな顔をしていた。
情けないくらいに眉尻を下げて、下唇を噛んでいる。

私が問うと、彼はようやくこちらへ歩み寄ってきた。
ゆっくりと、ゆっくりと。瞬きをするたび、東さんの表情が崩れていく。

時間にすれば10秒くらいのものだっただろうが、私にはそれが永遠のように思えた。車の迫ってくる瞬間に似ているな、なんて考えて、場違いにも少し笑いそうになる。

そうして彼が私のベッドの傍らで足を止めたと思った瞬間、突然私の身体が傾いた。

暖かい、と思った直後、抱きしめられているのだと分かる。
東さんに、抱きしめられているのだと。

『あ……ずま、さん?』
「……どうしようかと思った」
『え?』
「……二度と会えなくなったら、どうしようかと思った……」

語尾は消えそうな程に弱々しくて、私は言葉に詰まる。
二度と会えなくなったら。彼の言葉が私の頭に何度も反響した。

私を抱きしめる力が強くなった。
彼を貧弱だと評する声は多いけれど、確かに成人男性なのだと実感する。

私が生きていることを確かめるように、東さんは大きな手で何度も何度も私の頭を撫でた。

……ああ、この人は。
私が思うよりもずっと。

そっと抱きしめ返すと、彼は一瞬身を固くして、それからもっと強く私を抱きしめた。
打ち身がすこし痛かったけれど、そんなことは大した問題ではなかった。

『……東さん。髪、結んでないの?』
「…………気付かなかった」
『服、変な組み合わせ』
「選ぶ余裕なんてなかったんだ」
『その靴、誰の?』
「知らない。どうでもいいと思って」

愛おしむように彼の髪を梳く。

走ってきてくれたのだ。服も選ばず、髪も結わず。
走って、私に会いに来てくれた。

甘い香りはしなかった。
代わりに男っぽい汗の匂いがする。
それでも全然嫌じゃなかった。

いつも飄々としているくせに。
余裕綽々とした顔で、最後に遅れてゆっくりやってくるくせに。

こんな時だけ、そんなの。ずるい。

『東さん。ごめんなさい』
「……うん?」
『東さんは大人だから。私、自分が子供っぽいのが恥ずかしかったの。避けるようなことして、ごめんなさい』
「…………」

少しの勇気を出してそう言うと、東さんは一瞬黙って、それから私の肩に顔をうずめたまま、はあ、と深いため息をついた。
思わずびくりと肩を揺らす。反射的に離れようと身体を反らせば、彼は逃がさないとでも言うかのように、私の頭を自分の胸に押し付けた。

この人は一体どうしてしまったのだろう。
彼らしくない行動に、私は困惑してしまう。

これ以上何も言えずにいる私に、彼はぽつりと、独り言のような声色で言った。

「気付いてたんだ。ずっと前から。なまえがボクのことを、好きでいてくれてること」
『……え』

ぎょっとして上を向こうとするけれど、東さんはそれを許さず、つい漏れてしまった短い音は彼の胸の奥へと吸収されていってしまった。

……いや、ちょっとタイム。嘘じゃん。普通にめちゃくちゃ恥ずかしいでしょ。

羞恥心から赤くなっていく顔を見られなくて済むのは不幸中の幸いと言えたかもしれない。ただそれにしても、現状、それなりに息は苦しかった。

「……でも、だめだと思ったんだ」
『え?』
「なまえは明るくて、優しくて、いつもみんなの中心にいるような子だから」
『……』
「ボクには勿体ないって、ずっと。……ずっと、ずっと。ギリギリのところで、必死になって逃げてたんだ」

……これは、いったいなんだろう。

この人はいったい、何を言っているんだろう。
私はいったい、何を聞かされているんだろう。

だってこの人、私と同じこと言ってる。
東さんを大好きな私と、同じこと。

『……東さん。私、東さんが好き』
「…………うん」
『東さんの隣には似合わないかもしれない。東さんの彼女だって思われないかもしれない。……でも私、東さんが好き。東さんだけが好き』
「……そんなの、」

ボクの方がもっと、ずっとそうだ。

彼の苦しげな声を聞いたのは、これが初めてだった。

ふっと東さんの腕の力が緩んだ。
私の後頭部を抑えていた右手が、するりと頬を撫でながら離れていく。

顔を上げると、すぐそばに綺麗な金糸雀色があった。
じっと私を見つめる、美しい瞳に釘付けになる。

「好きだよ、なまえ。なまえの隣に相応しいのがボクじゃなくても。なまえのことだけが、ずっと大好きだよ」

幸せで、幸せで。
ただそれだけで涙が出ることがあるなんて、知らなかった。

両目からボロボロと雨粒を零す私に、東さんはそっと、啄むようなキスを落とす。
そうしてゆっくりと顔を離すと、私の頬を両手で包み、親指で優しく目元を拭った。

子供がするような、触れるだけのキス。
たったそれだけで、こんなにも胸がいっぱいになる。

「……本当に怖かったんだ。なまえが事故に遭ったって、カントクから聞いて」

東さんが目を伏せる。
さらりと落ちてきた長い髪が、彼の表情を覆い隠してしまった。

私は頬を覆うようにして、東さんの両手に自分の手を重ねた。
大きなその手が暖かくてまた泣きそうになるけれど、ぐっと堪えて彼を見る。

『平気だよ。そんなに重い怪我じゃないって監督さんにも伝えたし』
「……そうなんだ。そこまで聞かずに飛び出しちゃったから」
『ええ?……今日の東さん、本当に違う人みたい』
「ふふ。恥ずかしいな。格好悪いでしょ」
『ううん。今までで一番好きかも』

そう言って、私も彼の頬にキスのお返しをした。
彼は漸く顔を上げて、目を瞬かせる。

私が微笑むと、つられた彼も苦笑した。

東さん。
名前を呼んだ私に、彼が目線だけで応える。

『私、東さんを置いてったりしないよ』

東さんの瞳が揺れた。

たまらず手を伸ばし、抱きしめる。

あやすようにその背中を撫でると、彼は少しだけぎこちなく私を抱きしめ返した。

『あのまま二度と会えなくなるなんて、そんなわけないよ』
「……そんなの分からない。だから怖かった」
『分かるよ。自信があるもん』
「……どうして?」

東さんから離れ、覗き込むようにして彼の顔を見る。
少しだけ不安そうな表情を浮かべる彼に、私は努めて明るく笑った。

『私、東さんが隣にいないとよく眠れないの』

一瞬だけきょとんと目を丸くした東さんが、ゆっくりと、ゆっくりと、数秒かけて破顔していく。

宝石のような瞳をうんと細くして笑う彼はいつも通りに美しかったけれど、私にはなんだか、随分と子供っぽいように思えた。

その表情から目が離せずにいると、緩やかな動作で私に近付いてきた彼が、そっと私の視界を覆う。

私は自然と目を瞑った。
それが彼の右手だと理解するよりも前に、上体がゆっくりとベッドに沈んでいく。

「今日はもう疲れたね」
『……うん』
「起きたらまた、ふたりでどこかに出かけよう」
『その前に退院しなくちゃ』
「ははは!本当だ!」

おやすみ、なまえ。

囁かれ、囁き返した。

おやすみ、東さん。


穏やかな音楽はない。はちみつも、ホットミルクも。

それでもたぶん、眠れない夜はもう来ないのだろうと思った。

私に似合わない彼が、彼に似合わない私が、ただお互いのためだけに、隣にいてくれさえすれば。