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「#エロ」のBL小説を読む
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これは私にとって何でもない、ただの休日の話だ。

▽△

駅前の広場は行き交う人々で賑わっていた。

休日の昼間であるためか、若いカップルや家族連れもちらほらと見える。どうやら近くの公園でフリーマーケットが開催されているようで、すれ違った人達の多くはそれらしい骨董品を抱えていた。
指定された待ち合わせ場所のすぐ近くにはオシャレなカフェが数軒あるようだったけれど、開きっぱなしのLIMEにあと2駅で着くという連絡が入っていたので、店内で待つのはやめることにする。

ちょうど近くにあったベンチに腰掛けると、私は鞄に忍び込ませていた文庫本を開いた。昨日の深夜まで時間も気にせず読み耽っていたものだったが、今日の約束のために泣く泣く閉じてベッドに潜ったのだ。
好きな作家さんの新刊だから出来れば一気読みがしたかったのだけれど、今日の約束よりも大事なものなど他になかった。背に腹はかえられない。

5ページほど読み進めたあたりで、遠くから「なまえ」と私を呼ぶ声がした。
反射的にぱっと顔を上げると、日射しを疎ましそうにしながら目を細める彼がこちらへ向かってきているところだった。

『左京さん。おはようございます』
「おはよう……でもないか」
『もうそんな時間ですかね。じゃあこんにちは』
「ああ。待たせて悪い」
『お仕事ですもん。仕方ないです』

むしろ、お時間を割いてもらってすみません。
私が困ったように笑えば、彼は端正な顔を歪めた。

「下の奴らがミスしなきゃ本来休みの予定だったんだ。ワガママ言ったわけでもないお前が謝らなくていい」

忌々しげに眉根を寄せた左京さんが、ちっ、と舌打ちをこぼす。
休日の明け方から呼び出されたストレスは相当なものだったらしい。ただでさえ最近は劇団の方が忙しかったようだし、やはり今日は寮でゆっくり休んでもらうべきだっただろうか。

ひとりでうだうだと思案していれば、隣に並んだ彼が私の頭に大きな手を乗せた。ぽん、ぽん、と規則的なリズムで数回、撫で付けるようにして軽い調子で叩かれる。

「そんな顔が見たくて会いに来たんじゃない」

憂心が顔に出ていたらしい。ふっと左京さんの顔を見上げると、彼は居心地の悪そうな表情を浮かべてからふいと視線を逸らした。
優しさがいつも不器用なものだから、思わず笑ってしまいそうになるのをぐっと堪える。

『ねえねえ左京さん、今日はゆっくり過ごしませんか』
「気遣いはいらんぞ」
『違いますよ。私のデートプランに乗ってくれませんか?ってお誘いしてるんです』
「あ?」

訝しげに視線を寄越した左京さんに向かって、私は両手で2枚の紙切れを差し出した。
眼鏡の奥に隠れた藤紫を細めるようにしてそれに記された文字を読んだ左京さんが、少しずつ目を見開いていく。私は満足気な笑みをたたえて、彼の瞳を覗き込んだ。

『ね。どうですか?』
「……これのどこがお前のデートプランだ」
『やだなぁ。私が行きたいんだから、私のデートプランですよ』
「見え透いた嘘をつくな。白々しい」
『えー。でも本当に私も観たいんですよ』

ふん、と鼻を鳴らした左京さんはしかし、組んでいた腕を解き、私の手からそれをひったくるようにして掠めとったあと、私の肩を抱くようにしてくるりと方向転換をさせた。

おや、どうやらお気に召したらしい。

無言のままにぽんとひとつ背中を押されて、突然のことによろめきながら一歩を踏み出す。
私よりもずっと大きな革靴が、私と同じ歩幅で隣に並んだ。

漆黒のコートの裾を何となくつまんでみる。彼はちらりと視線を寄越しただけで、何も言わない。
人前で手を繋いだり腕を組んだりするのが苦手なことはとっくの昔から知っているけれど、ごく控えめな触れ合いならば許されるのもまた日常だった。

口元を緩ませた私を怪訝な目で見つめる彼のことをおそらく、今日もまた好きになるのだろう。

▽△

私が渡した2枚の紙切れというのは、天鵞絨町のはずれの小さな劇場で上演されている、とある舞台のチケットだった。
以前専門誌を捲る彼の手がこの劇団のページでぴたりと止まっているところを目撃してから、いつかふたりで行けたらいいなと思っていたのだ。

今月は支出を抑えたいと言っていたので、おそらくまだ見ていないだろうと信じてチケットを取ってみたのだけれど、観劇後のこの様子からしてビンゴだったらしい。内心でガッツポーズを作りながら心做しか少しだけ口角の上がった左京さんを眺める。
カンパニーの監督さんや劇団員の皆さんのこともある程度存じ上げているけれど、彼らを「演劇バカ」だと称する左京さんも私から見れば五十歩百歩だった。

そんな彼が満足出来たらしい公演はもちろん、非常に面白かった。
私も舞台はそれなりに観るから目は肥えている方だと思うけれど、あれほどの実力があるならもっと大きな劇場でもやれるだろうに、と思えるくらいにはいい公演だった。もしかすると自由席のチケットが2枚も取れたのは幸運だったのかもしれない。

『すごく良かったですね』
「ああ。主演の奴は去年まで端役だったんだが、1年間で相当上手くなったな」
『あれ?この劇団のことご存知だったんですか?』
「一度月岡と高遠に誘われて観に来ただけだ」
『意外といえば意外な面子ですねぇ』

そう口にしてから、良く考えれば演劇バカが集うというカンパニーの中でも筆頭の3人だったな、と気が付く。
MANKAIカンパニーの冬組に所属する月岡さんと高遠さんとは一応面識があって、芝居に対してストイックな姿勢が左京さんにそっくりなのは私にとって既知のことだった。

ふたりでひとつのパンフレットを眺めながらホールを出る。日が高くなっていた。
腕時計を見ると、針は13時45分を差していた。

『左京さん左京さん、お昼すぎですよ』
「ん、腹が減ったな」
『何が食べたいですか?』

別に何でもいいが、と前置きをしてから、左京さんは「麺類」と言った。
この人のこういうところが好きだ。世話焼きであるが故に普段からまとめ役に徹することが多いためか、「何でもいい」と丸投げされることの焦れったさをよく知っている。

パンフレットを左京さんに渡してから、手早くスマートフォンをタップしていく。
どうやら観劇しているうちにどん底だった機嫌がかなり直ったらしく、隣からはうっすらと鼻歌が聞こえてきた。彼を知る人からは意外だと思われるだろうが、私とふたりのときには思いの外よく見られる光景である。

劇場が建ち並ぶ大通りであるためか、近くにはレストランや定食屋がいくつか点在していた。
評判の良さそうなパスタ屋を選んで左京さんにスマホごと手渡すと、美味そうだな、と一言短い返事が返ってくる。決定だ。

行ったことがあるのか一瞬で場所を覚えたのか、私にスマホを返した彼は迷わず目的地へと歩き始める。
私はその一歩うしろをついて行くだけだったけれど、不意に左京さんの方がペースを落として私に並んだ。
隣を歩きたいなぁと一瞬思ったのが通じたのだろうか。特筆するわけでもないくらい、本当に一瞬だったのに。いやはや、出来た彼氏様である。

「いらっしゃいませ」
「2人です。空いてますか」
「はい、2名様ですね。ご案内致します」

全くもって心配などしていなかったけれども、店には一切迷わずたどり着いた。
見た目や仲間内での言動に反し、左京さんは公共の場において、初対面の相手に丁寧な接し方をする。
先程の店員さんとのやりとりなんかもその内のひとつで、私はそんなところも好きだった。

感じのいい店員さんが案内してくれたのは、アンティーク調のテーブル席だった。
おしゃれな窓枠に収まる大通りが動く絵画のようにも思える。

ランチタイムから少しだけ外れたためか、そう混んではいなかった。
シンプルな装飾が施された店内には、私たちのほかに2組の家族連れと3組の男女がいるだけだ。
映えとかいうやつを気にする若者向けっぽい外観(これは相当な偏見である)だったけれども、実際の雰囲気は予想外に随分と落ち着いていた。

『左京さん、何にしますか?』

メニューを傾け、ふたりで覗き込みながら話し合う。
彼はしばらく視線をさ迷わせたあと、私にしか分からないくらいに小さく口角を引き上げてから、ある一点を指さした。

モッツァレラチーズのトマトソース。
あ、と声を上げそうになったところで、私よりも先に彼が口を開く。

「なまえ。お前、これだろ」
『…………なんで分かったの?』
「ふ。お前の好みが分かりやすいんだ」

口元を軽く覆った左京さんが、そう言いながら瞼を伏せ、俯きがちに笑った。
ごく普通の、ありふれた仕草でさえ様になる人だ。もしかしたら私にだけそう見えるのかもしれないけれど、別にそうであったところで誰にも支障はない。

『じゃあ私も左京さんが好きそうなのを当てます』
「別に特別好きなもんはねぇよ」
『そうなんですか?ホタテのペペロンチーノとか、美味しそうだしそれっぽいですけどね』
「それっぽいって何だ」
『食べてそう。似合う』
「好みを当てるんじゃなかったのか」

左京さんは呆れたような表情を微塵も隠していなかったけれど、結局それを注文していたので笑ってしまった。

談笑をしながら待っていると、そのうちに料理が運ばれてくる。
私は彼にゆっくり食べましょうと言った。この後のプランは全くないのだと正直に言うと、彼はそんなことだろうと思った、とだけ返して笑う。
もちろん私も小馬鹿にしたようにそう返されることは予想の範囲内だった。私に計画力などないことを、互いにちゃんと分かっているのだ。

劇団の近況なんかを聞きながら食事をしていれば、いつの間にかパスタをぺろりと平らげていた。
ゆるりゆるりとお喋りをしているつもりだったのだけれど、存外時間が経っていたらしい。

会計は左京さんが済ませてくれた。
お付き合いを始めたばかりの頃は随分と口論になったものだが、「こういうのはある程度遠慮したら素直に引き下がるのがむしろマナーだ」と言われてから、しぶしぶそれに従っている。
本当は対等でいたいのだけれど、なかなか会えない代わりにこれくらいさせろなどと言われてしまっては口を噤む他ないではないか。この人は大人でかっこよくって、本当にずるい。

店を出る頃には、既に15時を回っていた。
私が「これからどうしましょう」と訊ねると、彼は少しだけ考える素振りを見せてから、「駅に戻るか」と呟いた。

『駅?』
「近くでイベントがあってただろう」
『あ、フリーマーケット。ご存知だったんですね』
「三好がチラシを貰って来てたんだ」

他に行きたいところがあるなら付き合うが。
左京さんはそう言ったけれど、今日は元よりゆったりとした時間を過ごすつもりだったのだ。二つ返事で了承すると、私たちは連れ立って来た道を引き返すことにした。

会場の公園は思っていたよりも広く、そして予想していたよりも随分と賑わっていた。
にこやかに対応している出品者たちは老若男女問わずさまざまで、少しだけ驚く。なんとなく主婦層が多いのかと思っていたのだけれど、どうやら凝り固まったイメージに過ぎないらしい。中には骨董品を売っている若い男の子もいた。

『いろいろありますね』
「全部見て回るのは時間がかかりそうだな」
『この後の予定も特にありませんし、気になるものがあったらゆっくり見てみませんか?』
「構わんが、ベンチは空きがなさそうだぞ」

発言の意図が汲めずに小首を傾げれば、彼は私の足元へと視線を落とす。
なにかついているだろうかと片脚を軽く上げてみるけれど、そこには何の変哲もない真っ白のミュールが太陽の光を反射しているだけで…………あ。

『ふふ……このくらいのヒールならしばらく歩き回っても平気ですよ』
「……何笑ってる」
『なんか、嬉しくて』

お姫様扱いされてるみたいじゃないですか?
私が緩んだ口許を抑えながら言うと、彼は呆れ顔で「うちの姫さんは単純で助かるな」と返した。
このくらいのことで、と彼はそう言うけれども、私を気遣ってくれるひとつひとつの言動にいちいちときめくのだから仕方がない。

並んで公園内を散策していると、出品中のお姉さんから「こんにちは」と声が掛かる。
反射的にぱっと向いたそのブースではハンドメイドアクセサリーが展示されており、その種類はネックレスからアンクレットまで様々だった。私たちの他にも数人、ここで足を止めている女性たちがいる。

『素敵ですね』
「ありがとうございます!」

嬉しそうにはにかんだお姉さんの手元には、ちょうど透明のビニール袋に入れるところだったのであろう商品がひとつ。
真っ白なリボンがあしらわれた大ぶりのピアスだ。軸にはスワロフスキーらしいクリスタルガラスが嵌め込まれていて、角度を変えるたびにキラキラと輝いていた。

「……あ、これですか?えへへ、今朝仕入れたばかりのスワロを使ってるのでさっき完成したばかりなんですよぉ。ほら、キャッチはパールなんです。もちろんブランドではないんですけど、でも可愛くないですか?」

私の視線に気付いた彼女が、ぱっと表情を輝かせてプレゼンテーションをしてきた。
が、すぐにはっとして恥ずかしそうに「すみません」とその身を縮こませてしまう。
私はすぐさま「よく見せて頂いてもいいですか?」と訊ねた。

勿論ですと答えておずおずと商品を差し出したお姉さんは、私がそのピアスを手に取っても何となく落ち着かなさそうにもじもじとしていた。

『わ、ほんとに可愛い』
「買っていくか?」
『んー……どうしようかな。実は今月結構厳しくて』

腕組みをした左京さんが背後から私の手元を覗き込んでくるので、ぎこちなく笑いを零す。
台紙を裏返すと3600円とあった。運命を感じたものに対してはお金に糸目をつけないタイプなのだけれど、出費の多い月となれば多少は躊躇ってしまう。

すると私の真上にあった左京さんの影がすっと動いた。
私の隣に移動してきた彼は、私の手から商品を奪い取るなり目の前のお姉さんに返してしまう。

「包装はいいのでそのままください」
『えっ!?』

私が呆気に取られていると、素早い動作で財布を取り出した左京さんが5000円札を1枚抜き取り、お姉さんに差し出した。
私が口を挟む間もなく「1000円と〜、こちら400円のお返しですね〜!」と弾んだ声が響く。えっ。えっ!?

『ちょ!何してるんですか!?』
「随分気に入ったようだったからな」
『えっ私そんなこと言いました!?』
「お前の好みは分かりやすいって言っただろ」
『うそぉ!』

などと口では言ってみるものの、私も彼も普段からプレゼントを贈り合うようなタイプではないから思わず破顔してしまう。
驚いたように両手で頬を覆うけれど、緩んだ口許は隠しきれそうにない。遠慮などする余裕もなくなるほどには嬉しかったのだ。

何やら視線を感じて売り子のお姉さんの方をちらりと見遣る。彼女は左手で口許をおさえ、こちらに向かって右手をサムズアップしていた。
わかる。私も当事者でなければ確実にそうしていた。
彼女にアクセサリーを買う堅物ヤクザは控えめに言っても罪深い。

財布を仕舞った左京さんはお姉さんから受け取った商品を台紙から外そうとして、ふと動きを止めた。
不思議に思って首を傾げると、目線を泳がせるようにしながらそれをこちらに差し出してくる。

「……あー……。ネックレスなんかとは訳が違ぇからな」

居心地が悪そうに後頭部を掻く彼の言いたいところが伝わってこず、私はますます首の角度を傾けた。
左京さんは一瞬だけ下唇を噛む。

「……人の耳にピアスをつけんのは、さすがに怖いだろうが」

思わず笑ってしまった私は、おそらくそんなに悪くなかったと思う。

▽△

夕日を背にして帰路につく。
大人の恋人同士にしては少し早い1日の終わりだけれど、左京さんには稽古があるのでこれが私たちにとってのいつも通りだった。

私の耳朶から垂れ下がった真っ白なリボンを、少し冷たくなった風が揺らす。
左京さんはそれに軽く触れると、ゆったりとした動作で私の髪を掬い、そのまま耳にかけた。

私は家の門に手を掛けて、それじゃあ、と笑う。

『送ってくれてありがとうございました。今日も楽しかったです』

彼は大抵の場合、ああ、と返すだけだった。
そうして私の頭を存外優しい手つきで撫でて、真っ黒のコートを翻す。
だから今日もそうなのだろうなと思って、彼が撫でやすいようにと俯きがちに微笑んだのだ。

刹那のことだった。
その大きな手が触れたのは私の頭ではなく、先程彼の手によって露わにされた左頬だった。
意外なことにえっ、と声を上げようとして、すぐにそれは叶わなくなる。

キスを、されていた。……おそらく。
というのも、それはあまりに短い時間で、私の思考回路が正常に戻る頃には呆気なく終わってしまったからだ。

それでもきっと今のこれは、キスをされていた。
制服を着た若者たちがするような、触れるだけのキスを。

『…………?……??』

呆気にとられた私は目をまん丸にして固まってしまう。
ふっと口角を上げた左京さんが私から一歩離れると、私は思い出したようにようやく瞬きをしながら、呆然とした表情で自分の唇を撫でた。

慣れていないわけではない。
学生の時から人並みに男性経験はあるし、そもそも彼とのキスだってこれが初めてではない。
だからこんなことで狼狽える理由は本来ならばないのだけれど、私はそんなこととは関係なく、それでも単純に驚いていた。

「ふ。……外ではだめだったか」
『……それは左京さんでしょ』
「たまには悪くないかと思ったんだ」
『気分屋なの、珍しいですねぇ』

キスどころか外で手を繋ぐことすら嫌がる彼がそんなことを言うのだから、とんでもなく機嫌がいいらしいと分かる。
ふと待ち合わせ場所に現れた時の苦々しい表情を思い出して笑ってしまった。少なくとも私と過ごした1日は、彼にとってそれなりに有意義だったようだ。

気分屋は嫌いか、と表情も変えずに訊ねられたので、私は少しだけ思い悩んでから「どちらでも」と答えた。

『左京さんなら何だっていいです』
「そうか」
『どんな左京さんも私、大好きなんですよ』
「……そうか」

ぶっきらぼうなその返事を合図に、私たちはゆっくりと、互いに背を向けた。
玄関の扉を開いて家に入る瞬間に視線を感じて、また心が暖かくなる。

甘酸っぱい青春は、とうの昔に過ぎ去った。

手を繋いで歩くようなこともなければ、毎朝必ず「おはよう」などとLIMEが入っていることもない。
会えない日の方がずっと多いし、互いに異性と出かけることも少なくない。
彼には私よりも大切なものがあって、私にもまた、彼より大事にしたいものがある。

大人になるとはそういうものだ。
何かを得る代わりに何かを諦めたり、何かを守る代わりに手放す。そうすることに、気付けば何の不安も不満もなくなる。
大抵のことを「仕方がないね」で済ませられるようになる。そうすることに何の抵抗もなくなる。
大人になるとは、そういうものだ。

それでも時には、こうして胸が高鳴る瞬間がある。

不意に見せる優しさに。合わせられた歩幅に。当てられてしまったパスタの味に。空席のない公園のベンチに。耳元に輝くスワロフスキーに。
どうしようもなく愛しさが込み上げてくるような、そんな瞬間が。

どんなに会えない日々が続いても、どんなに長期間連絡を取り合わなくても、その瞬間を思い出すだけで幸せになるのだ。
それだけで充分なのに、こうしてどんどん増えていくものだから。

『ああ、やっぱりね』

今日も好きになるって思ってたの。
呟いて、私は白いミュールを脱ぎ捨てた。


これは私にとって何でもない、ただの休日の話だ。