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「#エロ」のBL小説を読む
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なまえちゃん。
鈴の鳴るような音色で名前を呼ばれた頃にはすでに、真っ青に澄み渡っていたはずの空がオレンジ色に染まっていた。

談話室の扉を丁寧な所作で閉めながら、彼女は私に向かって申し訳なさそうに眉尻を下げてみせる。
「集中してた?ごめんね」と言われ、私は首を振った。今しがた始めたばかりの打ち込み作業だ。集中するほどの時間は経過していない。

『大丈夫です。どうしました?』
「万里くん見なかったかなと思って」

どうやら彼女、基、この劇団を束ねる総監督こと立花いづみさんは、私の片割れを探しにここへやって来たらしい。
講義が早めに終わった私は15時頃から談話室にいるけれど、それ以降ただいまーと口にしながらこの部屋へやってきた面々の中におそらくあいつの顔はなかったように思う。

『たぶんまだ帰ってないんだと思います』
「そっか……みんないるなら今のうちにリーダー会議しようかと思ったんだけど」
『あ、今日は天馬もいるんですか?』
「そう。昨日がクランクアップで、今日はお休みみたい」

天馬は連続ドラマの撮影中で、最近は特に寮を空けることが多かった。久しぶりの主演級だと息巻いていたので無事撮影が成功したことに安堵する。
もちろんバラエティー等での番宣も含め、出演する番組はすべて録画済みである。本人には言っていないけれど。

監督さんは何やら紙袋を2、3両手にぶら下げていた。作業でもするのかと思い机の上に広げていた書類を自分の方へと引き寄せれば、ありがとうと笑いかけられる。彼女の微笑みは相変わらず美しい。
私の向かいに掛けながら監督さんは「寄り道かな」と呟いた。万里の話に戻ったのだと気がついて、私はああ、と小さく頷く。

『発表の準備があるそうですよ』
「発表?」
『学祭が近いから。たぶん一成くんも今日はまだ帰ってません』

万里と一成くんは同じ美術大学に通う学生である。
もうすぐ開催されるのだという大学祭に向けての準備が忙しいのだと零していたのは、もう3日ほど前になるだろうか。

作品の展示がメインとなる多くの学科とは違い、芝居を専攻する万里の発表は“個人制作”だけで終わらない。
ただでさえこちらでも秋組の再演を控えているというのに、これらに加えてアルバイトの助っ人にも駆り出されることがあるというのだから驚きである。
私なら自分が2人いたって上手くこなせる自信はまるでないのだけれど、まあ、あいつとなれば話は別なのだろう。

ふと顔を上げると、監督さんが形容し難い表情を浮かべていることに気が付いた。
普段は溌剌とした彼女の笑顔に翳りが差したことを珍しく思い、私はそっと声をかける。

『どうかしました?』
「えっ?なんで?」
『なんとなく。悩みでもあるのかなって』

彼女が丸い目をさらに丸くしたので、私はなんだか恥ずかしくなって何度も首を横に振った。
思い過ごしだっただろうか。もちろんそれならそれでいいのだけれど。

上擦った声をあげた私に監督さんは少しだけ驚いた様子を見せてから、ゆっくりと眉尻を落とし、そうしてついに苦笑した。

「……万里くんのこと、考えちゃって」

含みを持たせたその言葉の意味を、愛だの恋だのと早急に結びつけるほど、私はもう子供ではない。

私は先を促すようにして軽く顎を引いた。監督さんが目を伏せる。

「負担が大きくないかなって、そう思ってるの」
『万里の?』
「うん。言い方悪いけど、そんな子じゃなかったでしょ」

彼女の言う“そんな子”というのが“毎日学校へ通い芝居の勉強に励みながら劇団ではリーダーをこなす一生懸命で真面目な人間”という意味であれば、まあ、そりゃそうだろうと思う。少なくとも高校時代なんかは特にそれの対極に位置していたとすら言えるのではないか。

あいつの口癖。「俺の人生イージーモード」。次点で「ダリー」。
みんなが言うように面倒くさがり屋で、プライドが高くて、そして短気。
だから誰かのために、何かのために、人生の一部を費やすような、そういう生き方はらしくない。たしかにその通りだと思う。

けれど私からしてみれば、今だって充分に“そんな子じゃない”のだ。

『万里は自分のやりたいことしかしませんよ』
「え?」
『本質がそうなんです。そういう人間だから』

人にとらわれることがない、自らの意思決定を自らにしか委ねない、そういうやつだ。むかしからずっと。

自由気ままで掴みどころのない奴だと思われがちだけれど、その実はむしろ分かりやすい。
万里が頑張っているのならそれが万里の頑張りたいこと。万里が切り捨てない限りはそれが万里にとって大切なもの。

なぜなら私がそう思うから。
曖昧で不透明なそれは、私と万里が互いを語る場合にのみ絶対的な根拠になりうる。

「……ずっと、気になってて」

ぽつりとつぶやいた監督さんは、こう続けた。
……万里くんが美大に進んだこと。

彼女の言いたいことがよく分からず首を傾げる私に、監督さんがもう一度苦笑する。

「自分がそこで得てきたものを、この劇団に還元出来ればいい……って」
『……万里が、そう言ったんですか』
「うん。私じゃなくて、幸くんに話したことがあるんだって」
『へえ……珍しい』
「…………そこまでしてくれなくても、いいの」

咄嗟に顔を上げる。視界に入ってきたのは監督さんの横顔だった。
窓の外で私たちの話を盗み聞きしていたのが鳩だったのか雀だったのかは定かではないけれど、その羽ばたきが耳に届いたくらいには静かな一瞬が、この広い空間を満たしていた。

「演劇の学校に通って、帰ってきても芝居をして、その上リーダーまでやってもらって。この劇団が……私が、どれだけ万里くんの道を狭めたんだろう」

うつくしくため息を吐いた、このひとは。
誰よりも劇団を想い、それと同時に誰よりも劇団員ひとりひとりを想っている。

万里は優れた人間である。生まれた時からそうだった。
同じ学年の誰よりもずっと先にいた。大人には見えない答えにたどり着くことだってあった。
すべての能力に長けている。だからこそ他の道を何もかも閉ざしてしまうことが勿体ないことこの上ない。そう考えるのは当然のことで、私にも理解ができる。

……しかし。
監督さんが、私が、周りの誰かが気にかけるほど、万里の選択は愚かではない。いつだってそうだった。

万里はずっと、私の神様だったのだから。

『逆なんじゃないかな』
「……え?」

ぽつりと洩らすと、監督さんはようやく顔をこちらへと向けた。私は意図して表情を和らげる。

ものごとを憂う暇もなく、日々誰かを想い行動する。そんなふうに生きる、この人の真似をして。

『万里の道は増えたんですよ。この劇団と監督さんに出会って、私と同じように』

やりたいことなど何もなかった。物事への興味も、特別な感情を抱く誰かも、存在しないのだと思っていた。
大事なものの増やし方が分からなかった。依存し繋ぎ止めること以外にそれを守る術を知らなかった。
私の話だ。それは同時に、万里の話でもある。

『演劇を学びに進学するのに、芝居が好きだから以外の理由が必要ですか。学んだことをここで活かしたいと思うのに、この劇団が好きだから以外の思考が必要ですか』

私の見間違えでなければおそらく、監督さんの唇が、微かに震えた。

万里が美大に入学したのは必然だ。なぜなら万里が芝居の中に喜びを見出し、いっそう深めたいと思ったから。
万里が秋組のリーダーを続けているのも必然だ。なぜなら万里が様々な障害に直面してなお、自分こそ適任者だと考えているから。

兵頭を介してこの劇団に出会ったこと。それが唯一の例外だった。それ以外、万里の人生には偶然など存在しなかった。
ただのひとつも。あいつが、自分で選んだことを誰かのせいにしたことはない。

私はもう一度、念を押すように言った。

『万里は、自分のやりたいことしかしません』

だから、万里の道は増えたのだ。
新しい世界に飛び込んで初めて触れたもの。今まで見向きもしなかったもの。
“やりたいこと”、“守りたいもの”。18年間空っぽなままだったそれをここで見つけたのはきっと、私だけじゃなかった。

芝居というものの面白さを知ったから、深めたい。自らが学び、吸収したことをこの劇団に還元したい。
万里がそう思ったのならば、万里がそう言ったのならば、それ以上でも以下でもない。

風の吹くまま、気の向くままに。
神様は自分のために選んだ翼で、自分のために生み出した空を悠然と舞うのである。

「……ありがとう。弱気でごめんね」

監督さんはそう言って、静かに目を伏せた。
私はいつかの彼女がそうしてくれたように、そっとそばに寄りその背中に腕を回す。そうして少しの力を込めたのち、こちらこそ、と笑った。

『毎分毎秒、誰かのこと一生懸命考えてる。そんないづみさんが総監督だから、みんなここが大切なんです。負担なんて何も感じないくらい。ありがとうはこっちの台詞ですよ』

私たちとそう歳が変わるわけでもないから、こういう風に思うことも失礼なのかもしれないのだけれど、私はしばしばこの人のことが母親のように思えてならない。それでいて、時には姉でもあり、友人のようでもあるのだ。

話すたび印象を変える、不思議なひと。
強くて、優しくて、少し抜けているところもあるけれど、その何倍も頼りがいがある。
そんな人が私に弱い部分を見せてくれたのならば、私は全力で抱きしめるだけだ。

私が彼女に救われた分だけ。私が彼女に貰った、たくさんの勇気と同じ数だけ。

監督さんはもう一度だけありがとうと口にして、それから笑った。
花が綻ぶようなその笑い方は、どこかの天使によく似ている。

▽△

「ふーん。負担ね」

顔を上げた万里はそう一言つぶやいて、再び俯いた。視線の先にあるのは右手に持つ台本で、随分と読み込まれた様子のそれはもうぼろぼろだった。

「信頼ねーな、やっぱ」
『自業自得でしょ。これまでの素行の悪さ考えれば充分信頼されてる方よ』

お風呂上がりに訪ねた104号室で、私は数刻前の出来事について本人と話していた。
万里と私はベッドに並んで腰かけ、兵頭は少し離れたテーブルでお菓子を頬張っている。紬さんが修学旅行帰りの生徒から貰ったというお土産だった。当然のことだけれど団員全員分なんてあるはずもないから、紬さん以外はじゃんけん大会を開催したのだ。

ちなみに私は負けた。別にどうしても欲しかったわけではないけれど、兵頭が勝って私が負けたという構図だけがどうしても気に入らなくて少しだけ喧嘩を売った。

万里はふん、と鼻を鳴らすと、台本に何かを書きつける。赤いペンのインクはもう掠れていた。

『ねえ、事実としてはどうなのよ』
「あ?」
『負担とはいかなくても、しんどいと思うことってあるの?少しくらいはさ』

気になったことを訊ねてみる。
私が監督さんにかけた言葉は嘘ではなかったが、本人の口からそう聞いたわけでない以上、それがただの希望的観測でないとも言いきれなかった。

これまでの人生を振り返ってみても、今ほど何かに熱中している万里は見たことがない。
高3の後半だって充分演劇馬鹿と言えるほどではあったけれども、1日の大半を過ごす学校ですら芝居を学んでいる今はその数倍、もはや生活のほとんどを演劇、ひいては劇団に費やしていると言っても過言ではないだろう。
経験の有無による上手い下手やこれまで注いできた情熱なんかは別として、現状そこまで芝居に入れ込んでいる人間は劇団内にもなかなかいない。

だから私が知らないだけで、実際に負担ではあるのかもしれない。
そう思いながら見つめていると、不意に顔を上げた万里と目が合う。私の心に反して、その薄い唇を三日月型に引き上げていた。

「俺が選んだもん全部、お前は正しいと思うか」
『……え?』

質問の意図が読み取れなくて、私は思わず聞き返してしまった。
万里はじっとこちらの答えを待つだけで、何も言わない。

選んだもの。
芝居の道。その先に進むこと。この劇団の一員であり続けること。秋組を率いるのをやめないこと。

……万里の選択。選んだもん、全部。

『……万里が悩んでるのを、私、初めて見たのよ』
「おう」
『思うようにいかないこととか……たとえば、』

私はそこで一度言葉を切って、そうして……表情を緩めてお菓子を頬張る兵頭を、じっと見つめた。

『……たとえば、誰かに負けて悔しい経験をしたとか。そういう万里を、初めて』
「負けてねーけどな」
『だから私、何も不思議じゃないわ』
「シカトしてんじゃねーぞコラなまえの分際でよ」
『不思議じゃないの。万里がここで何かを返したいと思うこと』

視線を戻して、万里の群青に自分を映す。
文句でも言いたげな万里が、しぶしぶ「おう」と頷いた。

道を外したことがある。心が荒んだことも、周りに失望したことも。
一度や二度じゃなかった。万里の人生においてそんなことは何ら特別じゃない。

それなのに、いつだって運良くすべてをプラスに昇華するのだ。
退屈だった世界の全てが、万里のポートレイトを形作ったように。ささくれ立った日々の経験が、万里を秋組たらしめるように。憎々しい兵頭に出会わなければ、この明るい人生が始まってすらいなかったように。

『万里が選びたいと思ったものが1番正しい道なのよ。いつだってそうだったの』

私が目を細めてそう言うと、万里は一瞬だけ驚いたように目を見開いて、やがて自信ありげに笑った。

「……さすがなまえ」

私の答えなんて分かりきっているみたいな台詞が腹立たしい。
それでもその顔がなんだかとびきり嬉しそうだったものだから、私も同じ顔で笑うことしかできそうになかったのだった。