×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -

※お相手が三角くんとなっておりますので、ファーストネームのみ平仮名でのご入力を推奨致します。


一度きりの人生を、悔いのないよう大切に。
偉大な先人たちはみな口を揃えてそう言うけれど、どうしてなかなかままならないものである。

今朝は5年前に購入した目覚まし時計が鳴らなかった。
ICカードのチャージを忘れたまま改札を抜けようとしてしまったし、会社のコピー機も私の番で故障してしまった。
おかげで午後から行われる会議の資料を作るためだけにわざわざ他部署まで赴かなくてはならなくなったというのに、資料が出来たら出来たで今度は会議自体が延期になってしまうのだから驚きである。

まさに踏んだり蹴ったり。つくづくついていない1日。
けれど、人生とは案外そういうものだ。

美人で、賢くて、いつだって幸せそうな人がいる傍ら、私のように平凡で、目立った取り柄もなく、毎日そこそこ不幸な人間もいる。
そういう世界で20年以上を生きているのだ。今更嘆くつもりもないけれど、それでもやっぱり少しくらいは報われてみたい。

『うわ、もうこんな時間』

スマホの電源ボタンを押して時刻を確認し、そう呟いた。液晶には21:40とある。
繁忙期でもないのにどうしてこんな時間に帰宅しているのか。仕事が出来る可愛らしい同期は私より3時間も早く退社していた。
恵まれている人間と恵まれていない人間、区分はたしかに存在している。

この調子で帰宅すれば、恐らく夕飯を作る気力などないだろう。冷凍してあるご飯があったような気がするから、22時まで開いているスーパーに駆け込んでお惣菜を買えばいい。

はあ、と深い溜息を吐き出しながら、重たい足取りでヒールを鳴らす。
明日は何か特別な業務内容があっただろうか。鞄からスケジュール帳を取り出しページを捲ると、納期の近い仕事がいくつか見られた。

明日の朝早めに出社をするか、夜残業をするか。どちらにせよ休息には未だ手が届きそうにない。歩きながら右のこめかみを撫でる。

そうして近道である公園を通り抜けようとした時、それは起こった。

「あっ」
『……え?』

なんの前触れもなく突然、視界いっぱいに飛び込んでくる露草色。
あ、綺麗。そう思った時にはもう遅かった。
暗闇に映える美しい赤橙に目を奪われているうち、私とそれとは果たして正面衝突を余儀なくされる。

驚きと混乱で身体が固まったのも一瞬のこと。
バランスを崩した私は、尻もちをつく形ですぐ真後ろに倒れ込んだ……かのように思われた。

咄嗟にぎゅっと目を瞑るが、待てど暮らせど覚悟した衝撃は訪れない。
不思議に思って恐る恐る目を開けると、先程の赤橙が目前まで迫っていた。驚いて声を上げれば、その未確認生物は一瞬だけきょとんとしたのち、目尻を下げて笑った。

「ごめんね〜。人がいるの、気付かなかった」
『い、いえ……こちらこそ……』

……ゆ、ゆるい。
あまりにゆるすぎて、初対面であることを忘れそうだ。どこかで会ったことがあるだろうか。こんなに変わった瞳の持ち主ならば、そうそう忘れるはずもないとは思うのだけれど。

「大丈夫?けがはない?」

そう問われて初めて、彼の右手が私の背に回っていることに気が付いた。左手は私の右手首を掴んでおり、傍から見れば社交ダンスの基本姿勢のようだろう。

私は思わず肩を跳ね上げ、ひゃあ!と素っ頓狂な声を上げた。なにするの、と叫びそうになり、はっとする。
彼が支えてくれたから倒れなかったのだ。この場面で発すべきは憎まれ口ではない。

『す、すみません。おかげさまで無傷です』

言い直しながら逃れるように顎を引けば、彼はごく自然な動作で私を解放する。
冷静になってきた頭で考えると、どうやら公園から飛び出してきたらしい彼と出会い頭にぶつかってしまったようだった。私も私で暗い中スケジュール帳を眺めていたのだから、非はお互いにありそうだ。

と、そこまで考えて、そのスケジュール帳が手元にないことに気がつく。
足元に視線を落とすと大量のメモがそこら中に散らばっていた。ぶつかった拍子に落としてしまったらしい。
何でもかんでもスケジュール帳に挟むのをやめなければ、と思っていた矢先にこれだ。またしてもついていない。

かき集めようとしゃがみ込むと、どういうわけか目の前の男性も同じように拾い始めるものだから、私は思わずえっ、と洩らした。

『あ、あの!大丈夫です!』
「うん?」
『ひとりで、大丈夫です。急いでるんじゃないですか?』

おずおずと訊ねる私に首を振ってから、彼は猫を追いかけていただけだと言った。猫?

「みんなで遊んでたんだ。ここ、猫さんたちの集会所なんだよ」
『しゅ、集会所……?』
「二丁目のたなかさんが毎日ごはんくれるとか、森に野犬が出るから気をつけろとか、いつもそんな話してる」
『えっ?猫の言葉が分かるの?』
「うん。分からないの?」

まるで当然であるかのように問い返されて、私は一瞬たじろいだ。え、だとかう、だとか単語にすらなっていない音を発して、最終的には躊躇いがちにただ頷く。

どこまで本気なのかが分からない。私のことを馬鹿にしているふうにも見えないし、かと言って堅実そうな印象かと問われれば、その答えもまたノーである。

不思議な人。これに尽きた。

「……さんかく」

突拍子のない呟きが聞き取れて我に返ると、彼は赤い紐のついたネームプレートをしげしげと眺めているところだった。
うちの社員証だ。警備員に提示しなければ社内に足を踏み入れることができないため、いつでも取り出しやすいよう常々手帳に挟んでいる。

さんかく、と彼の呟きを反芻して、はたと思い当たるところがあった。社員証の右下に必ず記される、二重の三角形。これの真下に社名を入れたものが弊社のロゴである。

「さんかく、好きなの?」
『え?いや……それは会社のシンボルで……』
「そっかー。しゃちょうさんが好きなのかなあ」
『さあ……?』

分かるはずもないので首を傾げると、彼は笑った。

「でも、おねえさんも好きでしょ?」
『えっ?なんでですか?』
「耳にもさんかくついてるもん」

あ、と間抜け面を晒す。言われて気が付いた。今日のピアスは三角形だ。
けれど仕事用にと買ったものなので随分と小ぶりである。こんなに暗い中で良く気が付いたなと感心して、私はすごい、と呟いた。

『あなたは三角形がお好きなんですか?』
「うん、そうだよー。いつもさんかく探しに外に出るんだ」

まるで三角形を探す目的以外で外出することがないような物言いだ。変な人ですね、と口をついて出そうになるのを堪えて、私は「楽しそうですね」と当たり障りなく返した。
このような人に会うのは初めてだから、その返答が本当に当たり障りないのかどうかは正直言って分からないけれど。

すると彼はなぜだか思考するような仕草でしばし時間を持て余したあと、私に向かってこう言うのだ。

「おねえさんは、あんまり楽しそうな顔しないね」

言葉に詰まる。そんなことないですよ、が出てこない。
変わった人。不思議な会話。とびきり華やかな外見と相反して、猫の言葉が分かるなどと宣う。まるで現実味がない、この空間。
元よりゲラだ。学生時代であれば面白おかしくて思わず笑ってしまっただろう。
それなのに、今は。

私は何も言えなかった。楽しそうな顔をしていないという彼の指摘は恐らく、主観的に見ても真実味を帯びすぎている。

彼はそれ以上言及せず、かわりに「これ、」と指さした。
社員証の、私の名前を示しているように見える。

「これ、なまえ、って読む?」
『え……うん、そうですけど』

控えめに頷いて肯定を返すと、彼は目尻を細めて、今度はひどく優しく笑った。

「なまえ。オレ、最近よくここにいるんだ。また遊びにきてね」

あまりに脈絡がなく、あまりに軽すぎる誘いだった。道端で遭遇した知らない人に、どうしてわざわざまた会いに来なければならないのか。

分からない。何が起きたのか、全くもって。
彼が一体何者なのかも、何を意図してそう口にしたのかも、どうして私がそれを否定せず、うん、と一言、返事をしてしまったのかも。

ぼんやりとした思考の中で理解出来ることといえば、夜に映える彼の赤橙が相も変わらず美しく輝いていること、ただそのくらいだった。

▽△

そういうわけがあって、結局、次の日の私が選んだのは早朝出勤だった。
さんかくの妖精が何時からあの場所にいるのかは分からないけれども、昨日よりも遅い時間になるよりは、早くから待っていた方が会える可能性が高いと思ったのだ。

そこまで考えて、私はなんだかいたたまれない気持ちになる。
変な人、不思議な人。昨日の時点で悪意や不気味さは感じなかったけれど、それでも恐らく成人男性だ。もしかしたら危ない人かもしれない。口からすぐ突拍子のないことが飛び出すし、何を考えているのかなんてさっぱり理解できない。
それなのに私は、どうして早朝出勤までして、彼に会いたいだなんて思っているのだろう。

ぐるぐると考えても分からないことは分からないので、ただひたすらにパソコンのキーを叩き続ける。
いつの間にか納期の迫っていた仕事は全て片付いていた。壁掛け時計に目をやれば、退勤時間はとうに過ぎている。

今日こそは、と意気込んで立ち上がりかけた時、みょうじ、と誰かに呼び止められた。課長だ。

「悪いが手が空いたならこの案件の資料作りを頼めるか」
『え……あの、すみません。明日じゃだめですか』
「明日の朝までに欲しいんだ」

下唇の裏側を噛む。どうやら今日もついていないらしい。
わかりました、と小さく頷き、そうして浮かせたお尻を再び座り心地の悪い椅子に沈めた。課長は「すまんな」と一言口にしてまた自分のデスクへと戻ってしまったけれど、すまんと思うのならばたまには別の人間にやらせてくれと内心で悪態をつくことくらいは許されたい。

パソコンの電源を入れ、再度画面に光が点ると、私はふう、と小さく溜息を吐き出した。
同じことの繰り返しだ。朝起きて、寝ぼけ眼でご飯を頬張り、焦りながら家を出て、走る。会社では上司の機嫌を窺い、美人の同僚に羨望の眼差しを向け、飲みに行く余裕もないまま足早に帰宅して、ベッドに転がる。毎日毎日、ただそれだけの日々。

“おねえさんは、あんまり楽しそうな顔しないね”

そりゃそうでしょ。なんにも楽しくないもの。
モニターに次々とアイコンが表示されていくさまをぼうっと眺めながら、私は空想上の彼に何度もそう答えた。

1日のうちになんの楽しみも見いだせないことが常になってしまったのは、いったいいつからだっただろう。
大人になるというのはそういうことだ。“楽しい”ではご飯が食べられない。“楽しい”では生きていけない。
“楽しい”を切り捨てて、“苦しい”を耐えられるようにならないと。隣のデスクのこの人も、課長に媚びへつらっているあの人も、そうしてみんな、大人になったんだから。

『……いいなぁ』

ぽつりと呟き、俯いた。
いいなぁ。ずるいなぁ。あんなに楽しそうに、緩やかな時を生きていて。

あの人の赤橙が瞼の裏側にこびりついている。
また遊びに来てね。そう言って笑った彼の顔はやけに美しくて、私はそれを思い出す度、どうしてか嫉妬心を覚えるのだ。

至極平凡な私と、生き方の上手な美しい彼ら。
どう足掻いたって埋まらない溝はあるのだと、とうの昔に知ったはずなのに。

▽△

残業を片付けて帰路に就くと、さんかくの妖精は本当に今日もそこにいた。
相も変わらず猫と戯れていたらしいが、私が現れたことに気付くとすぐにこちらへ飛んでくる。

「あー!なまえ!」
『……こんばんは』
「お仕事おつかれさま!」

笑みを深くして労りの言葉を述べてくれるものだから、なんだかこそばゆく感じて、私は思わず視線を逸らした。ぺこり、と軽くお辞儀だけを返すと彼が薄く笑う。
よく考えると、社会人になって友人との付き合いも随分減ってしまった私は、他人から「お疲れ様」の一言を掛けられることにも慣れていなかった。

あの、と声を掛けると、彼はうん?とゆっくりした動作で小首を傾げる。
一挙一動が人懐っこい動物のようだ。もしかすると猫と話せるなどという話も本当なのかもしれないとすら思えてきた。

『……ごめんなさい。また遊びに来てね、って言ってくれたから、本当に来てしまいました』
「?悪いことしてないのに、どうしてごめんなさい?」
『いえ、もしあれが冗談なら……本気にしちゃって。私、迷惑だし。恥ずかしいなって』

私が自嘲気味に苦笑を浮かべれば、彼はきょとんと目を丸くしてこちらをじっと見つめた。
彼の腕に抱かれた猫までもが私に視線を寄越してくるものだから、私はなんだか居た堪れない気持ちになってしまう。

「なまえ、落ち込んでるの?それともいつもそう?」
『え?』
「オレに言われたからまたここに来なきゃって思ったの?オレ、なまえにとってあんまり知らない人なのに」
『そ、れは』

言葉に詰まる。そうだ。私はなぜまたこうしてここにいるのか。
知らない人にはついていかない。小学生でも守れる約束事。なぜ大人になった今、私はそれを破って彼に会いに来てしまったのか。

目の前の彼は優しく笑って、あのね、とやたら確信めいた口調で続けた。

「オレと遊びたくなったでも、ただお散歩がてら覗きに来たでも、理由はなんでもいいんだけどね」
『……?』
「なまえがここにいるのは、なまえがここにいたいから。オレが冗談でああ言ったんだとしても、なまえはひとつも謝らなくていいんだよ」

……ごめんなさい、と、すみません、が。
いつの間にか、私の口癖にでもなっていたのだろうか。
時刻は午後8時。あたりはもう闇に包まれていて、公園にはぽつりぽつりと街灯の燈が燃えているだけだというのに、なぜだか突然目の前が開けたような気がした。

彼はだから、つまり、私に堂々としていればいいのだと言っている。
来いと言われたから来た。主体的でないことは事実だが、たとえなんとなくでも私の意思であることには間違いない。私がここにいることが実は彼の意に反することだとしても、彼に悪いと思う理由はない。

確かにその通りだと思った。この人の言っていることは正しい。
それでも大人になるとどうしても「すみません」が先に出てしまうのだ。それはある種の保険のようなもので、相手の機嫌を損ねて自分が不利益を被らないよう、半ば反射的に口から飛び出す枕詞なのである。

『……ありがとうございます』
「へんなの。お礼言われるようなこともしてないのに」
『優しい言葉を掛けてもらったことなんて、あんまりないから』
「え〜?いまの、優しい言葉かなぁ」
『優しい心から出た言葉です』

私が頷くと、彼はゆるりとした動作で首を傾げて、やはりよく分からない、というようなことを言った。
よく分からないのはあなたの方ですと返したくなったけれど、なんとか口を噤む。

抱えていた猫を地面に下ろし、ベンチの上に体育座りで座った彼に向けて、代わりに私は「前向きですね」と続けた。

『羨ましいな』
「なまえは後ろ向きだね」
『そうかなあ。社会に出たら、みんなこんなものじゃないんですかね』
「その前は、なまえも前向きだった?」
『……たぶん。でも大人になったら、思い通りにいかないことの方が増えるじゃないですか』

吐き捨てるようにそう言うと、彼は意外なことに「それはすこしわかるかも」と言った。
少しだけ驚いて彼の顔に視線を移すけれど、辺りを包み込む暗闇と膝を抱えて口元に右手をやる彼の体勢とが相まって、その表情を窺うことは叶わない。

数秒間そうしているうち、何となくそれ以上踏み込んではいけない気がして、私は無意識に話題を変えようと口を開く。

『今日、何時からここにいるんですか?』

訊ねた私に、覚えていないと間延びした調子で返す彼。それからひとつ欠伸を零すと、明るかったとは思うけど、と続けた。

すみませんと言いそうになる自分を咄嗟に制して、首を振る。

『……本当は、定時で上がってここに来る予定だったんです。あなたがいなかったらそれはそれで、少ししたら帰ろうかなって』
「定時、何時?」
『17時』
「あはは。いっぱい残業したね」
『あのオッサン、すぐ私に自分の仕事押し付けて来るんですよ。作業効率が悪いのは自分の責任なのに』

ああ、と思った。間違えた。こういう流れに持っていくつもりではなかったのに。これではただの愚痴だ。
見損なったと、軽蔑されてしまうだろうか。ただでさえほとんど見ず知らずの相手に愚痴をこぼすなどいい印象ではないだろうに、上司のことをオッサンだなんて、汚い言葉で謗って。

私は不平不満を並べ立てながら、この人の次の言葉を想像した。
そんなこと言っちゃだめだよ。そう言われる以外にはないような気がして、途端に泣きたいような気持ちになる。
彼の前では品行方正を演じていようとしている自分に対しても羞恥心が湧き上がってくるものだから、私は思わず俯いて、自分のつま先をじっと見つめた。

それで、一瞬反応が遅れたのだ。
彼の言葉に対して、上手な返しがまるで浮かばなかったのである。

「そっかぁ。それじゃあなまえは、すっごくお仕事が上手なんだね〜」
『…………え?』

俯いていた顔を上げる。ぽかんと呆けた表情で彼を見ると、彼は昨日の夜のように、優しい笑みをたたえてこちらを見つめていた。

『……仕事が、上手……?』
「うーん、どういうんだっけ〜……んーと……うーんと、」

頭を抱えて考え込むような仕草をした彼は、そうして数秒間唸ったのち、あっ!と目を見開いた。

「優秀!」
『……優秀?』
「そう!優秀!ちかげが言ってた。優秀な人は、優秀じゃない人よりもいっぱいお仕事があって大変なんだって」

ちかげというのが一体どなたなのかは存じ上げないが、口ぶりから彼の知り合いであるらしいことがわかる。
私は暫く呆然として、それから彼に向けて自嘲的な笑みを漏らした。

『……どうかなぁ。良くて使い勝手のいい駒って感じなんだと思いますけど』
「でも、今日のお仕事はなまえじゃなくてえらい人の分のお仕事なんでしょ?」
『残業ですか?ほとんどそうですよ。私は……6時くらいには、自分の分を終わらせてたので』

よく分からないと言ったふうに私が小首を傾げると、彼はあはは、と声を上げて笑った。

「じゃあきっと当たってる。なまえは優秀さんだ」
『……どうして?』
「だって、自分の分のお仕事をなまえにお願いしてるんだもん。もし間違いがあったら自分が怒られちゃうよね?お仕事が下手な人には任せられないんじゃないかなぁ」

言葉に詰まる。私は暫く何も言えずに、何度も口をぱくぱくと開閉させては、あちこちに視線をふらつかせた。

違う。そんなわけがないのだ。だってあの人はいつも自分勝手だった。
私の予定なんて鑑みずに仕事を丸投げしてくるし、理不尽に怒られたことだって1度や2度じゃないし、残業に勤しむ私の後ろをすり抜けて早々に帰宅してしまうのだから。

課長にとって、私は優秀な部下などではない。
自分が楽をするための駒で、私が抵抗しようものなら、いつ切り捨てても問題ないと思っている。きっとそうだ。

……それなのに。
そんなふうに言われてしまっては、なんだか本当にそうなのではないかと思えてしまう。
絶対にそんなはずはないのに、むしろ自分の仕事ぶりを評価されているような、そんな気さえしてくる。

「なまえはえらい人に信頼されてて、すごいね。いつも頑張ってるからだね。えらいね」
『…………魔法使いですか……?』

泣いてしまいそうになるのをこらえて、私は彼にそう言った。
魔法みたいだ。前向きになることを忘れてしまった私にとって、彼の言葉は。

綺麗事で片付けられないほどには、変わり映えのしない日々をしんどいと感じていたはずだった。
実際のところ課長が私を都合よく使うことに大した意味などないことも、現実として明日からの業務が軽くなるわけなどないことも、美しい同僚の方が周りから可愛がられることに変わりがないことも、すべて冷静な頭で理解していた。

それなのに、こんな言葉をかけられただけで、優しい表情を向けられただけで、嬉しいと感じてしまうのは。
たったそれだけで充分だったからだ。
一生懸命に生きていることを、私はずっと、ただ誰かに褒めてもらいたかっただけだったのだ。

『……私昨日、目覚まし時計が鳴らなくて、寝坊して』
「うん」
『ICカードにチャージ忘れてて、改札でも止められて』
「遅刻、怒られた?」
『全力ダッシュして、間に合った……』
「え〜!なまえ、足が速いね〜」
『……私の前で、コピー機も壊れたし』
「大変!なおったの?」
『……直せなかったので、新しいのを』
「買ったんだ!これからは綺麗なの使えるね」
『でも、他の部署まで行ってせっかく資料作ったのに、会議も延期になっちゃって』
「延期?それじゃあ次の会議の前には仕事が1個少なくてラッキーだね〜」

小首を傾げてにこにこ笑っている彼は、きっと私の心の翳りなど、ひとつも知らないことだろう。
私にとって“不運なこと”を、彼はラッキーだと言う。私の世界はどれほどちっぽけで、私の考え方はどれだけ悲観的だったのか。彼から見た私はどれだけ卑屈で、そして情けない人間だったのか。

変な人だと思っていた。変わっていて、おかしな事ばかり言うくせに、なぜだか心底から怪しさを感じることが出来ない。
今日再びここへ来るのに、うだうだと考えながら仕事をしていた。どうして出会ったばかりの彼にまた会いたいなどと思っているのか。その答えが漸く明確な形になる。

ああ、きっとそうだ。
私はこの人に、救われたかったのだ。

『魔法使いだぁ……』

ついに表情を歪めてしまうと、堰を切ったように涙が溢れてきた。彼は途端におろおろとし始めて、私に向かってどうしたの?大丈夫?としきりに声をかけてくれる。

私にとってそうであるように、彼にとっても私は出会ったばかりの女で、そんな相手に泣かれるなんてきっと迷惑極まりない話。号泣なら尚更そうだ。

私は自分でも驚いていた。大人なら、どれも取るに足りないことだと思っていたのだ。
上司から体良く使われることも、理不尽な内容で怒られることも、美人な同僚と自分を比べてしまうことも、自分に降かかる小さな不運ばかりが目についてしまうことだって。社会に出ればそんなことはありふれた話で、自分の中で上手く折り合いをつけてそういうものたちと付き合っていくことこそが大人になるということなのだと、ずっとそう思っていたのだ。

小さなことばかりかもしれない。周りだってみんなそうなのかもしれない。
けれどそんなことが自分で思っていたよりもずっと苦しくて、しんどくて、もしかしたらいつからか、劇的な何かを待っていたのかもしれない。

こういう人に出会いたかったのかもしれない。

「なまえ、どうしてオレが魔法使いだってわかったの?」

なんとか涙を止めようと奮闘していると、不意に隣から声がかかって、私は咄嗟に顔を上げる。
え?この人いま、なんて?

『……ま、魔法使い……?本当に……?』
「うん。ランプの魔人だよ。でももう1年くらい経っちゃった」

問うと尚更わけのわからないことを言われて、私は頭にいくつもの疑問符を浮かべた。
ランプの魔人。アラジンに登場する、なんでも願いを3つ叶えてくれるという人物。あれのことだろうか。

驚きからか、気付けば涙は止まっていた。

『……?な、なんの話ですか?』
「お芝居。ランプの魔人役をしたよっていうお話」
『お、お芝居!?』

大袈裟に仰け反って聞き返すと、彼は楽しそうに笑ったあと、劇団に入っているのだと言った。
……劇団。天鵞絨町という有名な町があって、あの辺りには多くの劇場が存在しているのだという。私は一度も行ったことがないのだけれど、この公園からもそう遠くはないから、いつも彼は天鵞絨からやって来ているのかもしれない。

この2日間、ずっと変わった人だとは思っていたけれど、まさか役者さんだったとは。
表現者には変人が多いと、随分前に同僚たちが話していたような気がする。あながち間違いでもないのかもしれないと、今ならそう思えた。

私は彼のことを何も知らない。
どうして猫と会話が出来るのか。どうして三角形が好きなのか。どんな劇団に入っていて、どんな役をこなしてきたのか。どんな友人がいて、どんなことに心が動かされるのか。
何も知らない。だから、知りたいと思った。
私はどうしても、今目の前にいる、この人のことが知りたい。

『……あの、さんかくの魔法使いさん』
「なあに?」

変な呼び方をしたことになど全く触れず、彼はやはりこてんと首を傾げて笑うだけ。
手を伸ばせばすぐに届く。そんな距離にいるのにどうしてもずっと尊いものに感じて、私にはそれを口にするのにいくらかの勇気を要した。

『お名前を、教えてもらえませんか』

彼は珍しく一瞬だけ呆気に取られて、それから言ってなかったっけと小さくつぶやく。
私はそれに頷きを返して、彼からの返事を待った。その薄い唇が音を紡ぐのを、ひとつも聞き逃さないよう。

「オレ、みすみ」
『……みすみ、さん』
「さんかくって書いて、三角だよ」
『……三角?』

三角、三角、三角。脳内で何度も反芻して、それから暫く黙り込むと、私はたまらず吹き出してしまう。
ぽかんと口を開けて呆けた三角さんを見ながら、目尻に溜まった涙を拭った。彼の珍しい表情もずっと見ていたいけれど、なんだかおかしくて、私は思わず口元を弛める。

『ふ、ふふっ……さんかくの好きな、三角さん……』
「…………」
『ふ、あはは!ごめんなさい、あんまりそのまんまだから、つい……ふふ』

はあ、とひと息ついて、それからぺこりと頭を下げる。人の名前を聞いて笑うなど失礼極まりないことだ。
ごめんなさいと素直に詫びるけれど、三角さんは尚も口を開かなかった。不安に思っておずおずと顔を上げると、そこには。

「やっと笑った〜!」

嬉しそうに目を細める、優しい笑顔。

“おねえさんは、あんまり楽しそうな顔しないね”
思い出し、私も顔を綻ばせた。

日常に潜む数多の憂鬱も、懸念も、両手に余るほどの悩みの種も。すべてがあなたに出会うために存在していたのかもしれないとすら思えてくるほど。
私はすでに、あなたに心酔している。そういう魔法にかけられてしまったのだ。

時刻は午後9時。辺りには人ひとり見当たらず、私たちの笑い声だけがやけに大きく響いていた。
美しい赤橙が、暗闇の中でいっそう明るく輝いている。その瞳に映っているのが私だけであることが、どうしてかひどく誇らしく思えた。

まだ見ぬ新しい毎日に思いを馳せながら、それでもこの時間ができるだけ長く続くようにと願ったその時、どこかで猫の鳴き声が聞こえた気がした。