三國/創作:V 【悪魔の花嫁U】 司馬懿の言う通り、れっきとした証拠がどこにも残されていない段階で強姦未遂の罪を言及するのは難しいものがある。 それだけではなく、相手はそれなりの地位についている高貴な人間。 この時代、女は完全に男の所有物であり、高位の男が下位の女を好きなように出来る事は当たり前の事であった。 よって無理矢理てごめにされてしまったとしても、相手が自分よりも遥かに身分が上の男性だった場合、男側は罪にすら問われない事が多い。 いざ勇気を出して訴えてみた所で、男側の富と権力によって容易にその事実がねじ伏せられる。 余計な事を口にする者は『口封じ』の名目で時として命すら奪われて、事件は闇から闇へと葬り去られるのが常であった。 それ故に、李慶の報復を恐れた被害者女性の声は一切表の世界には表れず、現在も過去も含め『親告者不在』の為に李慶は何のお咎めも無しにここまで過ぎてきたのだ。 「名無しには半年間の減俸を言い渡す。今日から半年の間、名無しの給料は3分の1だ」 「3分の1?かなりの減俸ですね。まぁ…あの女にはそれ位で十分でしょう。生きていくのに最低限必要な収入で。余分な金を与えると、菓子ばかり買いますからな。名無しは」 艶やかな長髪を長い指で後ろに掻き上げながら、司馬懿が鬱陶しげな顔付きで言う。 「菓子ならお前が頃合いを見て適度に名無しに恵んでやると思っているのでな。それで名無しの給料は3分の1まで減らしても飢え死にせんと思ったのだ」 「ああ、『デブの素』の事ですか?さぁ…どうでしょうね。私は自分の気が向かない限りは角砂糖一粒だって与えませんよ。放置プレイを決め込みます」 年齢を上回る落ち着きと容赦の無い冷淡な気配を身にまとい、司馬懿が冷たい物言いで曹丕の『予想』を否定する。 しかし曹丕は妖しく目を光らせながら司馬懿に向かって微かに微笑んだだけで、何も言い返そうとはしなかった。 「それにしても…名無しには本当に失望させられた」 フーッという大きな溜息混じりに吐き捨てて、曹丕が形の良い眉をひそめる。 「いくら強引に迫られたとはいえ、李慶を叩く以外にもっと対処のしようがあるだろうが。今回は面倒な事にならなかったからいいものの、一時の感情に任せて文官風情が一国の皇子に手をあげたらどうなるか…。その程度の事も頭が回らんようでは、呆れ果てたとしか言い様が無い」 「そうですね。殿」 曹丕は優美な仕草で湯呑みを口元に近付けて、王者の威厳に満ちた低く張りのある声で言う。 背筋がゾッとするような、見る者に悪寒を覚えさせずにはいられない曹丕の冷酷な瞳を間近で目にしても、司馬懿は楽しげに唇を歪ませていた。 「…そして客人という立場でありながら、我が国の女を節操なく食い散らかす李慶の態度も我慢がならん」 こちら側ですでに数多くの美女を用意して、そっち方面でも十分過ぎる程に礼を尽くしているにも関わらず。 被害を受けた女達が全員おとなしく泣き寝入りしているのをいい事に、曹丕の監視下である城内において我が物顔で好き放題しまくるあの李慶。 魏国にとって外向的にも有益な国の皇子だからと多少は大目に見てきたのだが、さすがの曹丕も城内に悪影響を及ぼす程の李慶の放蕩ぶりに、我慢の限界を迎えていた。 「……しかもよりによって、私の名無しに手をあげるとはな。これが一番我慢がならぬわ」 李慶に襲われていた時の名無しの姿を思い出し、曹丕が急に表情を険しくする。 『そ、曹丕……』 あの時。 闇の中に姿を現した曹丕の存在に気付き、瞬きもしないで曹丕を見つめていた名無し。 今にも泣き出しそうな顔をして、愛する主人に救いを求めるような声で曹丕の名を呼んでいた名無し。 平手打ちされた頬が痛むのか、庇うようにして手を頬に押し当てていた名無し。 切れる程強い力で男にぶたれたのか、いつも柔らかい微笑みをたたえている唇から微量の血を流していた名無し。 色鮮やかに思い出せば思い出す程に、曹丕の心の中でドス黒い怒りの感情が渦巻いていく。 「……李慶め…許せぬ。我慢がならぬわっ……」 「殿……」 ギリッ。 曹丕は抑えきれない程に膨れ上がった殺気を全身から漂わせると、黒い瞳を妖しく輝かせて奥歯をグッと噛み締める。 するとその台詞を聞いた司馬懿の瞳が驚いたようにゆっくりと開かれて、恐ろしい程の美貌を持つ曹丕を見返す。 曹丕は決して女に甘い男ではない。 対外的には厳しい政治と規律を厳守していても、いざ自分の妻や若く美しい愛人の事になると、普段の険しさが消し飛んでしまう国王や貴族達は沢山いる。 罪や規律違反を犯した国民や下臣達の事は厳重に処罰するのに、自分の女の事になると途端に盲目となり、彼女達の罪は不問に処すという男達だ。 どちらかと言えば世の中にはそちらのタイプの方が幅をきかせているのだが、曹丕はそんな軟弱な男達とは違い、自分の女に対しても普段の態度を変えない男だった。 英雄色を好むという名言がある通り、数多くの女達を己の周囲にはべらせるのは王族の特権であり、曹丕自身も自分専用の美女を集めたハーレムを所有している実績がある。 だが、女にうつつを抜かして己の職務をかえりみないのは、一国の統治者として最もあるまじき事だと曹丕は考えていた。 これが曹丕以外の男であれば、名無しも処罰など受けなくても良かったかもしれない。 ああ可哀相に、お前は何も悪くないよ、と。 本当は良くない事をしたけれど、愛するお前の事だけは特別に免除してあげるからね。皆には黙っておいてあげるからね、と。 しかし曹丕はそういった甘い男達とは異なる性質の持ち主の為、規則は規則とばかりに心を鬼にして名無しに罰則を与えた。 李慶のように女にだらしのない皇子は、国民や下臣の尊敬と信頼を得る事が出来ないと曹丕は知っていた。 名無しは信じられないといった顔付きで涙ながらに曹丕の顔を見上げていたが、曹丕にしてみれば名無しだからといって特別扱いしたくはなかった為の、苦渋の決断だったのだ。 [TOP] ×
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