三國/創作:V | ナノ


三國/創作:V 
【悪魔の花嫁U】
 




「何をしている?」
「!!」


凄味の利いた低い声が、暗闇の中で響き渡る。

ピンと空気が張り詰めたような異常を感じ、李慶が弾かれたように声のする方に振り向く。

その人物の正体に気付いた李慶の瞳は驚愕の色に染まり、名無しの瞳に安堵がよぎる。


「そ、曹丕……」


かすれた名無しの声音には、今にも泣きだしそうな気配があった。

曹丕は獲物を捕らえるような冷たい瞳で李慶を見据え、続いて名無しに横目で視線を向ける。

名無しの赤い唇の端には、微量の血液が付着していた。

泣き崩れそうな顔で立ち竦む名無しの頬は赤らんでいて、少し腫れているようにも見える。

その光景を目の当たりにし、曹丕の瞳に狂暴なまでの黒い輝きが閃く。

「そ…曹丕殿。どうしてここに…」

状況が把握出来ず困惑の声を上げる李慶を、曹丕が冷淡な眼差しで見つめ返す。

「これはこれは…李慶殿。随分探したのですぞ。酔い醒ましの為に夜風に当たってくると言い残したのを最後に、いつまで経っても大広間にお戻りになられないので心配しておりました」
「…っ。そ、それは…」
「見た所、そこにいるのはお連れの方ではなく、我が国の者だと思いますが。うちの名無しが李慶殿に……何か?」

怒りを押し殺すような、抑揚のない曹丕の声。

冴えた眼光で李慶を射抜き、曹丕は訝しげな顔付きで李慶に問いただす。

「な、何でもありませんよ曹丕殿。火照った頭と体を冷やそうとして外へ出たのはいいのですが、うっかり帰り道を失念してしまいまして…。そ…それでこの辺りをウロウロしていたら、名無し殿に偶然お会いしたものですから。天の助けだと思って道をお尋ねしていた所なのですよ。ねっ…、名無し殿?」

李慶は早口で一気にまくしたて、曹丕のそれ以上の質問を封じ込める。

最後に、『余計な事をしゃべるんじゃないぞ』とでも言うように、名無しの肩を駄目押しでギュウッと掴む。

「いやいや、名無し殿がご親切に道を教えて下さって本当に助かりましたよ。私はそろそろ宴の席に戻りますので。それでは……」

曹丕や名無しに口を挟む余裕すら与えず、李慶は一方的にそうまくしたてて勝手に会話を終了させると、元来た道を戻って行った。

「李慶殿っ……!」

自分をあんな酷い目に合わせたにも関わらず、何食わぬ顔で嘘八百を言い捨てて大広間に帰ろうとする李慶。

その後ろ姿がどうにも許せなくて、名無しが擦れた声で李慶を呼び止めようとする。

「……止めておけ」
「!!」
「一応、お前もやり返したであろう。もう十分気が済んだのではないか?」

そう言って名無しの行為を制止する曹丕の口振りに、名無しは戸惑いの声を上げる。

「さ…さっきから見ていたの?曹丕…。でも…でも…私はっ……」


二回も、ぶたれたのに。


曹丕に『止めろ』と注意された事は分かっているが、それでも納得出来なかった名無しは懸命に言い募る。


「男が女にぶたれた時の屈辱感は────二倍だ」
「……ぁ……」


まだ何も言っていないはずなのに。

名無しの考えなど全部お見通しとでも言いたげな曹丕の発言に、名無しは自分の心を見透かされているような居心地の悪さを感じてしまう。

自分の全てが彼の手の平の上で転がされているようで、そんな己の現状が滑稽で、いたたまれない気持ちになる。

「そんな事より分かっているな。名無し。お前のした事がどんな事かを」
「……っ!」
「例えどのような理由があるにしろ、同盟を結んでいる国の皇子を…しかも客人としてこの城に滞在していた人間にお前は危害を加えたのだ。私の了解を得る事もなく…罪は分かるな?」
「…っ、ぁ…。そ、曹丕……っ」

曹丕の冷酷な瞳で見下ろされ、名無しは蛇に睨まれた蛙のように身動きがとれない。

でも、自分は別に間違った事はしていない。

確かに同盟国の皇子をひっぱたいてしまった事は罪になると思うけど、それにはちゃんとした理由がある。


何か、言わなきゃ。


「曹丕…曹丕…聞いて。お願いだから。私は何も理由なくあんな事をした訳じゃないっ。本当なのっ」

全身を襲う寒気でブルルッと震えながら、名無しが必死の面持ちで曹丕に哀願する。

だがそんな名無しの悲痛な叫び声を、曹丕は薄く笑って受け止めた。


「………お前には失望した。名無し」 


まるで作り物のように整った綺麗な顔で、妖しくニヤッと唇を歪ませて曹丕が言う。

その言葉を聞いた名無しは、信じられないといった様子で、涙を溜めた瞳で曹丕を見上げていた。




同盟国の使者をもてなす宴が終了し、全ての後片付けが終わった頃。

城内の者達の殆どが眠りについた深夜、曹丕は司馬懿から宴の報告を受けていた。

司馬懿は曹丕の部屋を訪れた際、室内全体を覆う不穏な空気に気が付いた。

豪勢な調度品に飾られた曹丕の部屋に司馬懿が足を踏み入れると、ビシビシッと大気を震わせるような強烈な怒りが部屋中に充満していた。

その事から、司馬懿は曹丕に何も言われなくても何か『トラブル』が起こったと直感した。

曹丕が李慶に続いて大広間を抜け出た後で、名無しと李慶の間に何かあったのだという事を、司馬懿は敏感に察したのである。

「……それで結局、名無しをどうされるのですか?」

曹丕の口からおおよその概要を打ち明けられた司馬懿は、もはや中身を飲み干して空になった茶器の淵をツーッと指でなぞりながら呟く。

すると曹丕は微かに眉を寄せると、少しだけ間を置いてから口を開く。

「本来ならば相手に詳しく事情を聞いた上で処罰を決めるのだがな。今回は李慶が何も訴えてこないので、こちら側で内々に処理する事にした」
「ほう…李慶殿はしらばっくれているのですね。まあ現場を取り押さえられたというならまだしも、未遂では証拠がありませんしな。自分から訴えて事を公にしないのは賢い方法です」

広い室内に低く響いた司馬懿の声の芯には、鋼を思わせる冷たさがあった。


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