三國/創作:V | ナノ


三國/創作:V 
【悪魔の花嫁U】
 




「……名無し殿」
「!?」
「名無し殿…どうなさったのですか。何やら泣き声のようなものが聞こえてきましたが…泣いていらっしゃるのですか?」
「李、慶…殿…?」

暗い廊下で一人涙に濡れていた名無しの背後から、何者かの声が響く。

その声の主は、先程まで大広間で一緒にいた李慶だった。

「あっ…。い、いいえ…別に。何でもありません」

使者の方にこんな不様な姿を見せてはならないと思い、名無しが慌てて両目をこする。

泣き腫らしたように真っ赤な名無しの目を見た李慶の胸が、ドキンッと高鳴る。

その時目にした名無しの表情が何とも言えずに儚げで、それでいてどことなく色っぽくて、悩ましかったからである。

「な、何でも…ありません。気にしないで下さい、李慶殿」
「名無し殿……」

ニコッと無理に笑顔を作り、名無しが震える声で男の名前を口ずさむ。

(何というか、こう…やけに征服欲をそそられる女だな)

男の本能的な支配欲を駆り立てられるというか、ムチャクチャにしてやりたくなるというか。

わざと意地悪な事をして、泣かせまくって、『イヤイヤっ』と言わせてみたくなるというか。

自分でも上手く言葉で表現出来ないが、そんな感じの女だ。

李慶は衣服の袖で涙の雫を拭い取ろうとする名無しの姿を見て下腹部に妙な疼きを覚えたが、そんな本心をひた隠して優しい声音で名無しに尋ねる。

「何か悩み事があるのでしたら、私でよければ相談して下さい。これでもそれなりの地位についておりますので、それなりにはお力になれると思いますよ」
「……え……」

予想外の申し出に、名無しの声が上ずった。

だがそれは一瞬の事で、名無しはすぐに普段通りの口調を取り戻す。

「いえ…本当に何でもないんです。暖かいお気遣いをして下さって、有り難うございます」

静かな声でそう告げて、名無しは床の上に視線を落とす。

何故こんな事を彼が申し出てくれたのかは知らないが、そのお気持ちだけ有り難く受け取っておくというのが無難だろう。

自分が抱えている悩みの種は、誰かに話して何とかなるという類の物ではない。

それにこんな話を正直に打ち明けてみた所で、何の意味もない事だ。

まるで怪奇小説のような話をしても、赤の他人である李慶がこんなオカルトじみた話を信じてくれるはずがない。


実はこの身体はもう自分だけの物ではなく、曹丕と司馬懿の所有物に成り下がっているのだと。


あの恐ろしくも美しい悪魔達の妖しい瞳に魅入られて、想い焦がれて、堕落して、いたぶられるままに────。


「あの…名無し殿。宴の席でお聞きしたいと思ったのですが、貴女はまだ独身ですか?」
「えっ……?」

唐突に振られた質問の意味がすぐには理解出来ず、名無しは『?』というような顔をして李慶を見上げる。

すると、李慶は再度名無しに確認するかの如く同じ問いを繰り返す。

「すでに夫のいる身なのか、それとも独身なのか。それと…もし独身ならば誰かお付き合いしている特定の恋人がいらっしゃるのかと言う事を貴女にお聞きしたかったのです」

どことなく作り物めいた嘘臭い笑みを貼り付けて、李慶がそう言って名無しの瞳を覗き込む。

淀みなくスラスラと述べられた李慶の台詞は、たった今思いついた言葉ではなく、この時の為に予め用意されていた言葉である。

名無しはどうしてそんな事を李慶が知りたがるのか疑問に思ったが、とりあえず質問の内容について正直に答える事にした。

「今の所は独身ですが…。それに…お付き合いしている方もいません。ですが…何故ですか?」

自分で言った事なのに、名無しの胸が針で刺されたようにチクリと痛む。

そう。どれだけ考えてみた所で、自分には決まった相手はいない。

体の結び付きだけの関係なら十二分にあるのだが、それは決して恋人同士と呼べるようなものではない。


曹丕や司馬懿が自分に触れる動機はただの好奇心と性欲処理からくる物に過ぎず、決して『愛』などという心暖まるものではない────。


「……そうですか。一応分かっていた事なのですが…名無し殿ご本人の口からそれを聞いて、ようやく安心しましたよ」
「…り、李慶殿…?」
「貴女には夫もいない。そして決まった恋人もいない。となると…何も問題ないという事ですね」
「問題…?」
「そう。もし貴女の身に何か起こっても、誰も心配なんかしないって。誰も守ろうとする男もいないって」
「……っ!?」

驚く名無しをよそに、李慶が芝居がかった声をあげ、不敵に唇を歪ませる。

「貴女のような身分の女性に、それこそ高位の夫や恋人がいたら少々面倒な事になりそうですが、貴女に関しては何の遠慮もいらないって」

男の後ろ盾が何もないのなら、自分の地位と権力を持ってすれば女一人の戯言位いくらでももみ消す事が出来る───と。

用意されていた台本の台詞をソラで読んでいるみたいな男の声が耳に届き、名無しの顔がサッと青ざめる。

この人は、突然何を言いだす人なのだろう。

この人は、突然何をしようとしているのだろう?


(……まさか)


女の直感ともいえる部分で本能的に危険を感じ取り、名無しの全身にギュッと力がこもる。

ジリジリッと、一歩ずつ廊下の壁ぎわに追い詰めるようにして近づいてくる李慶から少しでも距離を取る為に、名無しは周囲を気にしつつ後退した。

「何を…仰っているのですか?李慶殿。夜ももう遅いです。私は自室に戻りますので、李慶殿もお早く宴会場に戻られた方が良いかと…」

青ざめ、怯えてはいるように見えるが、名無しは決して取り乱してはいなかった。

不安げな眼差しで自分を見つめてくるくせに、油断なく男の行為を見定めようとする名無しに、李慶がいやらしい目付きで笑う。

「ははっ…。驚きましたよ。普通の女性ならもっとあからさまに取り乱すかと思いましたが。意外と落ち着いた態度をとられるのですね?名無し殿はこういった場面に慣れていると見える。まあ…男の多い世界では、どうしても女性は『そういう対象』になりがちですので、自然と場慣れもしそうなものですが……」
「それ以上私に近づくのは止めて下さいっ。いい加減にして下さらないと、人を呼びますよっ!」

名無しの真っすぐな瞳が、緊張感で強ばりながらも李慶を見据える。


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