三國/創作:V | ナノ


三國/創作:V 
【悪魔の花嫁U】
 




季節が秋から冬に移り変わる直前の、肌寒い大気が地表を覆い尽くす頃。

およそ数週間もの長い間、魏国は水と暗闇の世界に支配されていた。

広大な領土を誇る大国・魏国の上空にはどんよりとした灰色の雨雲が広がって、太陽の光を完全に遮っている。

時期的にはもうそろそろ乾いた冬空になってもおかしくないにも関わらず。

薄暗い空からは季節外れにも思える程の大量の雨が激しく降り注ぎ、国土全体が水の匂いと湿った空気に覆われている。

降っては止み、降っては止みという不安定な天候が数日間続いていたかと思うと、バケツをひっくり返したような土砂降りの雨が突如として天空から降り注ぐ。

全く先の見えない不穏な天気は、軍や兵士達の士気にも深刻な影響を与える要素の一つだ。

実際、魏国を始めとした周辺の諸外国までも悪天候続きの為に遠征すらままならない状態になっており、事実上の休戦状態のようになっている。

隣国の呉や蜀も表面上は特に目立った動きを見せず、互いの出方を見守るようにひっそりと身を潜め、多くの国々は不気味な程の静けさに包まれていた。





カツカツカツカツ。


規則正しい足音が、夜の城内に響き渡る。

どこまでも果てしなく続いているような、先の見えない暗い廊下を早足で歩くのは、魏が諸外国に誇る名軍師の司馬懿であった。

「司馬懿様。城内の警備、異常有りません」

彼の接近に気付いた警備の兵士達が、全員深々と頭を垂れる。

「ご苦労」

司馬懿はそんな彼らに低い声で一言だけ労いの言葉を降らすと、そのまま何事も無かったかのように兵士達の横をスッと通り過ぎていく。

司馬氏は数多くの高官を世に輩出した名門の家柄だが、その中でも彼は幼い頃から利発で才気溢れる男子として知られ、司馬一族の中でも特に優れた人物だと噂されていた。

しかしその性格は狡猾で苛烈、またあまりにも鋭敏過ぎる為に、一部の重臣達からは

『彼は決して一介の家臣で生涯を終えるつもりはない』
『表向きは曹家に仕えるフリをしておきながら、その内には野心を秘めている』

という声があがり、司馬懿の存在を警戒していた。

だが、魏国の皇子である曹丕は自分と良く似た匂いのする司馬懿の事を非常に気に入っており、何かと庇っていた。

司馬懿自身もそんな曹丕の好意を敏感に察していた事もあり、普段の高圧的で尊大な振る舞いを曹丕の前では慎み、かつ忠臣として彼に仕えていた為に、今では曹丕からの絶大な信頼を得るに至っていた。


カツカツカツカツ。


カツン。


終わりがないと思える程の長い廊下を突き進んでいた司馬懿の足音が、ある地点でようやく止まる。

立ち止まった彼の面前には、高貴な身分の人物が中にいる事を思わせる重厚で大きな扉が存在していた。

「……殿はまたゴリラの所か?」

司馬懿は扉の両隣に控えている警備兵に尋ねると、煩わしげな素振りで長い前髪を掻き上げる。

その行為によってあらわになった、氷のように冷たい空気を纏う彼の美貌。

形良い切れ長の瞳は底無しの闇を思わせる黒い輝きを秘めていて、鋭い眼光で正面から射抜かれた兵士は上ずった声で返事を述べた。

「い…いいえ、司馬懿様っ。曹丕様はつい先ほどお戻りになられた所でございます」
「ほう…?今夜は早いな。またいつものように深夜遅くまで地下に潜っておられるかと思ったが。類人猿との会話は終了したのか」
「は、はい。そのようですが…」

兵士の答えを聞いた司馬懿の眉尻が微かに上がり、疑念混じりの返事が漏れる。

しかしそれは一時の事で、次の瞬間にはまたいつも通りの涼しげな美貌を取り戻していた。

「扉を開けろ」
「はっ」

司馬懿の命を受けた兵士はコンコンと扉を二回ノックすると、室内の人物に対して司馬懿の来訪を告げる。

「曹丕様。司馬懿様がお目通りを願っておりますが、このままお通ししてもよろしいでしょうか?」

厳かな物言いで尋ねる兵士の声が、闇の中で静かに響く。

兵士がピシッと姿勢を正した状態で主君の返事を待っていると、扉の向こうから少し遅れて曹丕の声が返ってきた。

「……入るがいい」

まるで地の底から響いてくるような、しっとりと低く、重い声。

曹丕の声音はいつ如何なる時でも王者の威厳に満ちていて、彼の声を耳にした者は誰しも自然と腰を折り、地面にひれ伏してしまう。

その声に思わず本能的にブルッと体を震わせながら、兵士は司馬懿に言われた通りに部屋の中へと続く扉を開けた。

そんな警備の兵士達とは対照的に、司馬懿は何ら臆する表情も見せず、彼らの隣をスルリと抜けていく。

「殿、仲達です。夜分遅くに失礼致します」

薄暗い室内に司馬懿が足を踏み入れた直後、中央の王座に腰掛けている男がゆっくりと上体を起こす。

事務的な口調で告げて室内に入った司馬懿の視界に映し出された人物は、彼が仕える魏国の皇子────曹丕であった。

司馬懿を見据える、黒く光る黒曜石にも似た切れ長の瞳。

男の腰元まで緩やかに流れ落ちる、艶やかで豊かな漆黒の髪。

その妖しい位に鮮烈な眼差しは、普通の人間ならば背筋が凍り付く程に冷淡で、微かに歪められた赤い唇は闇の世界に棲む者特有の残酷さを秘めている。

主に頭脳労働に長け、後方で軍事参謀全般を担う司馬懿と、文武両道に優れ、自ら剣を手にして前線で戦う曹丕。

両者の周囲に漂う空気と美貌の質は一見対照的に感じるが、見る者の背筋を震わせる程の美麗さは二人とも同質のものがあった。

「このような夜更けに突然お邪魔してしまって、申し訳ありません」
「ふ…仲達か。構わぬ。そろそろ来る頃だろうとは思っていた」

普段と変わらず、ゆったりとした優雅な姿勢で王座に腰掛けている曹丕の黒い双眸が、キラリと光る。

司馬懿はそんな主人を眩しげに両目を僅かに細めて見つめたまま、口元だけで薄く笑う。

「殿が並み居るハーレムの美女そっちのけで、雌ゴリラの所に毎晩通っているという不思議な噂をお聞きしましたので。少々気になったものですから…」

司馬懿が発した言葉の内容は、彼が曹丕の部屋を訪ねてきたそもそもの発端であった。


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