三國/創作:V | ナノ


三國/創作:V 
【Under WorldW】
 




「名無しちゃん。もう一回言うよ。俺と一緒に店に入ろう。着替えも用意してあげるから。ねっ?」

珠稀はそこで言葉を切ると、少々腰をかがめて名無しの目線の高さと自分の目線を合わせ、彼女の瞳を正面から覗き込む。

そこまでしても、男の声に応える名無しの反応はない。

「……名無し。聞こえねえのか。俺の声を聞け」
「…珠稀、さん…」
「店に戻るぞっつってんだ。いい加減にしねえと、無理矢理引きずってでも俺の部屋に連れて帰るぞ。こっちを向けよ。俺の目を見ろってんだよ」

低く唸るような声を出し、珠稀がキッと険しい目付きで名無しの顔を睨み付ける。

強い口調で促され、ここにきてようやく名無しは飛んでいた意識が現実世界に舞い戻ってきたようだった。

最愛の男の姿を直視した名無しはブルブルと唇を震わせて、消え入りそうに小さな声で必死に言葉を紡ぐ。

「た、珠稀さん…。私…今日はどうしても珠稀さんにお会いしたくて…一目でいいから…お会いしたくて…」
「ああ。いいんじゃない?」
「で…でも…珠稀さんは忙しいから…お邪魔かなって思ってて…。それで…どうしようかと思っていたら…珠稀さんが出てきて…」
「ああ。今から丁度出かけようと思ってたからね。用事があったし」
「そ、それで…やっぱり…無理だって思って…。た…珠稀さんは…用事があるんですよね…?だったら…私…、また今度…出直してきます……」

名無しの頬を伝う水滴は単なる雨の滴なのか、それとも彼女の流す涙なのか、その正体さえも分からない。

振り絞る声でやっとそれだけ言うのが精一杯といった名無しの青ざめた唇から、白い吐息が微かに立ち上る。

「ふざけんなよ、名無し」

唐突に伸ばされた彼の片腕が、名無しの濡れた髪の毛をガシッと鷲掴み、そのままグシャグシャと掻き混ぜる。

「こんな姿の名無しをほっといてまで優先させる用事なんて、俺にはねーよ」
「……え……」
「予定変更、望むところだ。君の為ならいくらでも変えてやるよ」

どうしてこの人は、こんなに優しい顔が『造れる』男の人なんだろう。

どうして珠稀さんという人は、私が欲しい時に、一番求めている言葉を与えてくれるのだろう。


「名無し。帰るぞ」


俺と一緒に帰ろう、だなんて。

たったそれだけの言葉なのに、まるで恋人同士か夫婦みたいな会話に聞こえてしまう。

こんな自分は、やっぱりどこか頭がおかしいのだろうか。

凄く、苦しい。息苦しくて、眠れない。

このまま、実りのない恋心を抱いて、彼の事を思い続けるのは辛すぎる。

彼にこうして名前を呼び捨てにされるだけで苦しくて、切なくて、狂おしくて、でもその何十倍も嬉しくて、そんな自分が恥ずかしくて、許せなくて、このまま雨と共に消えてなくなりたい。


貴方の事が大好きです、珠稀さん。


でも、今の私が今の貴方に言える事は、貴方の邪魔にならなくて済むような、嘘偽りの言葉だけ。


─────『さようなら』。ただそれだけです。


珠稀への思いを断ち切るように心の奥底で呟いた途端、名無しの体がグラリと傾く。

その瞬間、間髪入れずに珠稀の腕が彼女の腰に回されて、珠稀が名無しの体を抱き留める。


「扉を開けろ!!」


部下の男達に命じる珠稀の声をどこか遠くに感じつつ、名無しの意識が表の世界から次第に遠ざかる。

自らを抱き締める男の腕の暖かさを懐かしく思いながら、名無しの記憶はそこでプツリと途絶えた。


役人としても、一人の女としても。


自分はいつまで経っても、理想的な存在になる事が出来ない。



私は私が最も望む、他人から必要として貰えるような、価値ある存在に─────なれない。




「お待たせ致しました、ご主人様。来々亭のなめらかマンゴープリンで御座います」

胸元も露わな衣装を身に纏っている一人の美女が、両手に器と食器をそれぞれ携えて主人の前に進み出る。

慣れた手付きでテーブルの上にセッティングしていく女の姿を見つめながら、珠稀は嬉しそうな笑顔を見せてソファーに腰掛けていた。

「ありがと〜っ。やっぱマンゴープリンはここの店がピカイチだよねっ!」

大好物のデザートを前にしている時の珠稀の声は、溶ろけるように甘い。

珠稀はそれだけ言うと、素晴らしく長い足を優雅に組み直し、銀色のスプーンを手にしてクルクルと指の間で回転させて弄ぶ。


ああ、ここには天使様が居るのだ。


毛先にたっぷりとシャギーの入ったセミロングの赤髪をなびかせる、満面の笑顔をたたえた天使様が。


店の女達は全員そんな事を頭の中で考えながら、部屋の中央のソファーに座している天使様────ではなく、正確には天使の顔をした美しい悪魔の姿に見とれていた。

先程の雨で多少濡れてしまった珠稀は、わざわざ風呂に入るとまではいかないものの、新しい衣服に着替えていた。

190p近くある長身だけでも十分目を引くルックスなのに、皮ベルトと細い金色のチェーンに彩られている彼の腰位置は、世の一般男性に比べてみると大分高い。

胸元が大きく開いたVネックの上着を羽織っているせいで、男の妖艶な鎖骨が剥き出しになっている。

普段通り体にピッタリとフィットする衣装は彼の首から胸板にかけての逞しいラインが丸見えで、はらはらと首筋に降り落ちる赤い毛先と素肌のコントラストが、言葉に出来ない程に凄まじい色香を醸し出している。

こんなご主人様がだらしなく見える瞬間って、あるのだろうか。

世間一般の男性がどうなのかは知らないが、きっと自分達のご主人様であれば、例え下着一枚でその辺をウロウロと歩き回っていようと、ずり落ちたズボンを履いていようと、ボタンを掛け違えていようと、それはそれでいい男に違いないのだろう。

これで性格さえ良ければ、本当にうちのご主人様は大天使ガブリエル様にも見紛う程の、神々しい美貌の持ち主なのに……。


────いや、こんなにいい男だったら、別に性格なんて多少問題があっても構わないとすら思う。


そんな事を考えながら女達が内心自問自答を繰り返していると、不意にガチャリ、と金属質な鈍い音がして、部屋の扉が内側に開かれる。

その音に誘われるようにして珠稀が扉の方に目線を向けると、そこには風呂上がりで新しい衣装に着替えた名無しが所在なさげに立っていた。


[TOP]
×