三國/創作:V 【Under WorldW】 自分は、珠稀の事が好きなのだ。 もうどうしようもない位、心の底では彼という男の存在に惹かれている。 だからこそ、珠稀の邪魔にだけは絶対になりたくないと思って、必要以上の干渉を避けていた。 本音ではどれだけ珠稀に会いたくてたまらなくても、そんな自分の衝動を、職務に専念する事で全て発散してきたつもりだった。 珠稀に会いたい。今、たまらなく珠稀に会いたい。 だけど、この気持ちが果たして純粋に職務に関係している事から来ているのか。それとも一人の女として、体の奥底から溢れ出てきた想いなのか。 そう思うと、今の自分自身の気持ちが何もかも分からなくなっていく。 そうこうしている内にとうとう店の入り口付近まで辿り着いてしまったが、地下に続く階段を目にした名無しの両足がピタリと石のように動かなくなる。 どんな顔をして彼に会えばいいと言うのだろう。今のこの精神状態で彼と会って、何を話せばいいと言うのだろう。 この階段を降りて、店の内部に続く重厚な扉をノックする。その一歩がどうしても名無しには踏み出せない。 …ポッ。 ポッ。ポタッ。 ザァァ─────…。 「……雨……」 歩みを止めた名無しの頭上から、突然の雨が降り注ぐ。 城を出る時から随分暗い空だと思っていたが、とうとう降り出してしまったのか。 傘も何も持たずに着の身着のままでフラフラと歩いてきた名無しにとって、この天候はどうする事も出来やしない。 ザーザーと勢いを増す雨音に耳を傾けながら、名無しは自分の体を伝って流れ落ちる雨の滴をぼんやりと見つめていた。 雨と共に空から降ってきたこの『想い』は、一体どんな形を成して、そしてどこへ流れついていくと言うのだろう。 珠稀さんに対するこの私の実り無い想いは、やがてどんな場所へ辿り着くというのだろう。 (全部、流れてしまえばいい) 降り注ぐ雨の粒を何ら避ける事もなく、名無しはその場でじっと雨に濡れていた。 もっともっと、激しく雨が降ればいい。私の全身を、雨が浸していけばいい。 このままずっと雨に打たれていたら、流れ落ちる雨の滴の中に混ざり、珠稀への恋心も全て綺麗に消えて無くなるのか。 汚れた体を全部綺麗に洗い流したら、私の『ココロ』は綺麗になるのか。 体中のドロドロした『汚れ』を全部抜き取る事が出来たとしたら、自分は『綺麗な人間』になれるのか。 「珠稀、さんっ……」 寒さでガタガタと体を震わせて、名無しは愛する男の名前を口ずさむ。 だが、そんな彼女の声は激しい雨音に掻き消され、誰にも届く事がなかった。 名無しが『蠢く者』に到着してから、二時間が経過した頃。 店内と外界を繋ぐ唯一の入り口が、黒服の手によって内側から開けられる。 重い扉を開けた直後、ザーザーと降り続く激しい雨音が男の耳に届き、黒服は店内にいる仲間に向かって『傘をくれ』と申し出る。 木製の取っ手の部分に手をかけて、傘を開こうとした黒服の視界に、不審な人影が飛び込んでくる。 こんな雨の中、傘も差さずに、一体何者だ? そう思ってじっと目をこらして謎の人影を見つめていた黒服が、ようやくその人物の正体に気付く。 「旦那様っ…!」 驚いて声を上げる黒服の後ろから、今まさに外に出ようとしていた店の主人がひょっこりと顔を出す。 「!!」 男の指さす方向を見て最初は訝しげに目を細めていた珠稀だが、びしょ濡れの人物が何者かと言う事実を悟った直後、驚愕の表情と共に彼の両目が大きく見開かれていく。 「……傘を……」 鈴を転がすように涼やかな声で囁いて、珠稀が黒服に向けて長い腕を伸ばす。 珠稀は部下の男から大きめの傘を一本受け取ると、おもむろにバサリと傘を開き、謎の人影に向かってたった一人で歩いていく。 珠稀が一歩ずつ足を前に踏み出す毎に、バシャバシャという水音が周囲に響く。 水溜まりを踏んだ際、バシャリと跳ね返る水飛沫でズボンの裾が濡れる事も全く意に介さない様子で、珠稀は人影との距離を詰めていった。 足早に進む珠稀がついにその人物の正面に立った時、大きな影が『彼女』の体を覆い隠す。 その感覚にピクリと肩を跳ねさせて、彼女がゆっくりとした動作で男の顔を仰ぎ見た瞬間、珠稀の口元がフッと綻ぶ。 珠稀はずぶ濡れになっている彼女の頭上にスッと傘を差し掛けると、普段と変わらぬ軽い口調で彼女に言葉を降らす。 「レンタル傘、無料。色男付き」 「……珠稀さん……」 彼女の口から自分の名前が呼ばれた途端、珠稀の形良い唇と魅惑的な瞳が、これ以上ない程に艶やかな笑みに彩られていく。 珠稀の正面に立っているのは、名無しだった。 彼の店の前まで辿り着いた後、結局あれから二時間の間、名無しは店内に入ることが出来ず、ずっと雨に濡れていたのだ。 「ついでに、今なら色男の胸板も貸すよ。どう?」 軽く首を傾けて、珠稀がニッコリと微笑む。 普通の女なら一瞬で気絶してしまいそうなイケメンの超絶スマイルを目にしても、名無しの心は虚ろだった。 いつも穏やかな笑みを浮かべている彼女の姿は、そこには無い。 あるのは、ただ全身雨に濡れてすっかり体が冷え切っている、『名無し』という女の姿形をした無気力な存在だけである。 「…かなり深刻って感じだね。その様子だと1〜2時間はずっとそうして雨に濡れていたんじゃないのかな。髪の毛も服も、ベッタリ貼り付いてるぜ?」 「……。」 「濡れ鼠な名無しちゃんも可愛いし、下着のラインも丸分かりなびしょ濡れ衣装もそれはそれで色っぽいと思うけど…。何度も言うけどさ、ここは俺の店の真ん前なんだぜ。まともな男はこの辺を歩いちゃいないんだ。大事な名無しちゃんが他の男に襲われちゃったらどうしよう〜とかって、俺的には心配な訳ですよ」 「……。」 「いつまでもこんな所にいても始まらないし。まずはお風呂に入って、軽く暖まろうよ。さ。おいで?」 普段の彼を知る者であれば気持ち悪く感じるくらいの猫撫で声で、珠稀が名無しを優しく諭す。 そんな珠稀の声が耳に届いているのか、それとも届いていないのか。 名無しはただガタガタと全身を震わせたままで、己を守るように両腕を胸元で交差させて、自分で自分の体を包み込んでいる。 [TOP] ×
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