三國/創作:V | ナノ


三國/創作:V 
【Another worldW】
 




「や…やめてっ。それだけはやめて…っ」
「…名無し様…?」

何をそんなに嫌がっているというのだろう。

気分が悪くなった時は、自分の部屋に戻ってベッドの上で横になりたいと思うのが普通の人間の感覚じゃないのか?

「あの部屋は…ダメなの…。今戻ったら、あの人がまだいるかもしれない」
「……あっ」
「だから…。今帰ったら、鉢合わせになってしまうかも…」

名無し様は消え入りそうに小さな声でそれだけ呟くと、俺の二の腕をギュウッと掴む。

今にも泣き出しそうな顔をして俺の事を懸命に引き留める彼女の姿を認め、俺はこの時ようやく彼女の言わんとしている事に気が付いた。

そう言えば、そうだった。

そもそも名無し様がこんな夜遅くに女性の身で部屋を抜け出してきたという原因は、一人の男にあったのではないか。

しかもせっかく名無し様を食事に誘い出したというにも関わらず、力ずくで無理矢理彼女を思い通りにしようとした挙げ句、その計画そのものが失敗してしまったのだ。

普通の男であればいい加減彼女に嫌われたと思ってそれ以上の行動は控えるかもしれないが、名無し様の話によればその男は随分と自分勝手で強引な性格なのだ。

諦めきれずに名無し様の部屋の前まで来て、彼女の帰りを待ち伏せている可能性は大いにある。


こんなふらふら状態の名無し様がもしそいつに捕まってしまったら……。


(────絶対ダメだっ)


そんな最悪の事態が脳裏を過ぎったその瞬間、俺の腕は無意識の内に名無し様の体に伸びていた。

「し、秦っ!?」

突然自分の体が宙に浮いた感覚に、名無し様がびっくりした顔をする。

驚きながら頭上を振り仰ぐ彼女の反応を完全に無視すると、俺はそのまま名無し様の体をしっかりと抱きかかえたままでベンチから立ち上がった。


こんな時間でも空いていて、俺のような一般兵士でも勝手に使用する事が出来て、彼女の体を寝かせる事が出来るような設備が整っている所は────あそこしかない。


「とりあえず、他の場所に移動します」


有無を言わせぬ口調で告げる俺を見上げ、名無し様がコクコクと何度も頷き返す。

俺の迫力にすっかり気圧されてしまっているのか、名無し様は自分が何の為に頷いているのかあまり理解できていないようだ。

名無し様を抱きかかえている両腕に力を込めると、俺は周囲の様子に気を配りながら目的の場所へと早足で向かう。

今思うと、この時彼女を連れ去った俺の選択は、自分の身分からすれば恐ろしく罪深いものだったと思う。

─────それでも。

この時の俺はどうしても、このまま彼女を自室へと追い戻す事が出来なかった。

だって、そうでもしないと、名無し様は今度こそ他の男の物になってしまうかもしれない。


単に同じ職場の武将に口説かれているのとは意味が全然違う。

俺とは天と地ほども身分に差がある男の一人に、無理矢理妻にされてしまうかもしれないのだ。

このまま、貴女を部屋に返してしまったら。

名無し様。今度こそ、貴女は他の男の物になるの……?


貴女は他の男の物に───なるの。





名無し様を抱いて中庭から抜け出した後、俺は医務室へと足を運んでいた。

一般兵士でも自由に出入りできるこの場所は、負傷した兵士達や体の不調を訴える者達でいつもごった返していた。

昼間はそんな感じで大賑わいの医務室であるのだが、夜になって医師達が出払った後のこの部屋は昼間の喧噪が嘘のようにしんと静まり返っている。

真夜中でも24時間変わらずに医師が控えているような場所は、身分の高い方々のいるフロアの医務室だけなのだ。

医師の姿がない医務室には当然の如く滅多な事では人が来ず、自分で治療できる程度のちょっとした傷を負った兵士がせいぜい消毒薬を取りに来るだけだ。

夜間になると本来の役目を全く果たしていない場所ではあるが、医務室というだけあってベッドやシーツの完備は出来ている。

こんな時間にこんな場所にいるのが他の人間に知られないように、と部屋の一番奥のベッドまで名無し様の体を運んでそっと静かに寝かせると、名無し様は不安げな瞳で俺の瞳を覗き込む。

「秦……。ここは……?」

俺を見つめる名無し様は、さっきよりもさらにぼんやりとした目をしている。

今の自分がどこで一体何をしているのか、自分自身の頭の中で殆ど把握出来ていないように見えた。

「ここは兵士用の医務室です。夜になると完全に医師が出払っていますので、まず他の人間が出入りする事はありません。とりあえず、気分が落ち着くまでゆっくりここで休んで下さい」
「……うん。ごめんね秦。私のせいで…こんな…迷惑かけて……」
「とんでもありません。俺、今からちょっと薬を探してきますね」

知らない場所に来たせいか、どことなく怯えている様子の名無し様を安心させる為に根気よく優しい囁きを降らせると、言葉通り周囲の薬箱をひっくり返して何か役に立ちそうな薬を探す。

風邪薬に、解熱剤。酔い止めの薬に、胃腸薬。

今の彼女にどの薬を投与するべきなのか今一つ自信を持てず、それぞれの箱に書かれた説明書きによく目を通す。

風邪薬。酔い止めの薬?いや…違うよな。あんなにも頬が真っ赤で熱っぽい瞳をしている名無し様に飲ませるのであれば、解熱剤が一番無難だろうか。

『洗浄済み』と記載されている籠に入っているコップの一つに水を注ぎ、決められた使用量の錠剤を手にして彼女の寝ているベッドに急いで引き返す。

「名無し様。遅くなってすみません。お薬をお持ち……」

俺の言葉はそこで途切れ、それ以上何も言えなくなった。

薬を持って彼女の待つベッドに戻った俺の視界に飛び込んできたものは、はぁはぁと呼吸を乱し、苦しそうに胸元を押さえている彼女の姿だったのだ。


見るからに、様子がおかしい。


先刻よりも明らかに容態が悪化しているように見える彼女の姿に驚いて、俺はベッドの横にある小さな台の上にコップと薬を置くと、何事かと思って彼女の顔を覗き込んだ。

「名無し様っ。どうしたんですか。名無し様!?」
「あああ…熱い…。熱くて…苦しい……」
「えっ?あ、熱いって…。普通に熱があるって事ですよね?」
「あっ…熱いの…。やだ…どうして…?秦…身体中が熱いの……」

彼女の身体の変調を感じた俺は、あまりの出来事に大きく目を見開いた。

熱を帯びて潤んだ瞳で俺を見上げる名無し様が、まるで情事の際を思わせるような甘い声で俺の名前を呼び始めたのだ。


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