三國/創作:V | ナノ


三國/創作:V 
【Another worldW】
 




「……そうだね。確かに、それが貴方の仕事だと言われてしまえばそうだもんね……」
「はい。ですから、当然の事をしたまでです」

好きな女性に隠し事をしているという後ろめたさから、俺はさっきからずっと彼女と目を合わせられずに俯いたままだった。

避けているのではない。名無し様の顔を見たくても見られないのだ。

だって、こんなにこんなに大切な人なのに。

毎晩夢に見るほどの、大好きな人なのに。

こんなに近くに貴女がいたら、俺はもうどうしていいのか分からなくなってしまう。

今、貴女と目を合わせてしまったら、この思いが止まらなくなってしまう。


だから──────。


「───秦……」


そんな事を考えていた直後、俺の身体が突然彼女の方へと引っ張られ、フワリと甘い匂いが俺の鼻先をかすめた。

「あっ…」

驚いた俺が声を上げるよりも早く、名無し様が俺の背中に両手を伸ばして自分の方へと抱き寄せる。

「秦…よく聞いて。貴方の眠りを妨げている原因が何なのか私には良く分からないし、偉そうな事は何一つ言えるはずもないけれど……」

彼女は優しい声でそう告げて、俺の背中に回した両腕にギュッと力を込める。

名無し様の身体と密着した際に彼女の全身から漂ってきた、まるで何かの花のような、果物のような、何とも言えない程に甘ったるく男の欲望をかき立てるようなその香り。

≪姉ちゃん、あんた体中から良い香りがするな。花か、果物か…。甘ったるいいい匂いがするぜ。香料でも付けてんのか?≫

この甘い匂いが、先日城下町で不良の一人が囁いていた彼女の香油の香りなのだろうか?

「─────暖かい太陽の光。美味しい水。生きていく為に必要な、最小限の食べ物とお金。これだけ残っていれば、そんなに気を落とす事もないと思うよ」
「……!!」
「自分の信じる道を最後まで貫く事は、貴方の人生を決して孤独にしません」

穏やかでありながら、それでいて凛とした彼女の声が俺の耳元で優しく響く。

俺の心労を労るように繊細な手つきで何度も上下に俺の背中を撫でさすると、名無し様は何事もなかったようにスッと体を離す。

「秦みたいに誠実で実直な人、大好きなの。色々な事があると思うけど、私はいつでも貴方の事を応援してるよ。時間が取れるかどうかは分からないけど、もし行けたら明日の試合…私も観客席から精一杯応援させて貰うから」
「……っ。ほ、本当ですか。名無し様っ……」
「頑張って、秦。何だか変な天気だけど、明日はちゃんと晴れるといいね」

叫び出しそうになった声が、途中で途切れた。

つい先程、自分自身も嫌な思いをする出来事があったはずなのに。

それなのに、俺の面前に座っている名無し様は自分の事よりも俺の悩み事の方に心を砕いてくれている。

まるで酒か何かに酔った時のようにふんわりと頬を赤く染めて微笑んでいる名無し様を見ていると、加速度的に胸の鼓動が増していく。


ああ、俺、この人の事が好きだ。



一瞬他の女性に心が揺れかかった俺だけど、こうして名無し様の笑顔を間近で見つめていると、彼女以外の女性の事なんて夢幻のように頭の中から消えていく。


やっぱり俺、名無し様の事が本当に好きなんだ。


大好きなんだ。


「……う……」
「名無し様っ!?」

名無し様の唇から、呻くような声が漏れる。

驚いた俺がそんな名無し様の名前を呼ぶや否や、名無し様の身体がガクンッ、と傾いて俺の方へと倒れてくる。

「名無し様!?どうなさったのですか。しっかりして下さいっ。大丈夫ですか!?」
「…っ、ぅ…。な、何でもないよ。ちょっと目眩がしただけ…」

突然の事態に動揺した声を上げつつも、俺の見ている前で崩れ落ちそうになる名無し様の身体をしっかりと抱き留める。

そういえば、俺はさっきから変な違和感を覚えていたんだ。

名無し様の頬が何だか妙に赤く染まっていること。

それに加えて、名無し様の瞳はまるで風邪をひいた時のような熱の色を帯び、俺に語りかける彼女の口調はどこか舌っ足らずな甘い響きを宿している。

「……名無し様。夕食の際に、強いお酒か何かを飲まれましたか?」
「お酒は…飲んだよ。でも、ただのお付き合いだから、ほんの一口グラスに口を付けてみただけで…」
「たった一口ですか?」

さっきまである男性と食事をしていたと言っていた名無し様なので、俺はてっきりこんな彼女の姿態はアルコールか何かによるものだとばかり思っていた。

だが、見るからに酒の匂いをプンプンさせているというならいざ知らず、彼女の口からは少しもアルコールの匂いが感じられてこないのだ。

『ほんの一口』だけと言う名無し様自身の申告が正しいというのなら、たったそれだけの量の酒が頭痛の原因に直接繋がるとは思えないし、気分が悪くなるとも思えない。

それに一番最初にこの場所で俺を見つけた時の名無し様は、表情も口調も普段と全く変わらない、いつも通りの名無し様だった。


万が一名無し様がそんな少量の酒に酔ってしまったのだとしても、この時間差は────おかしい。


「し…ん……。何だか…すごく気持ちが悪い……」
「早くご自分の部屋にお戻りにならないと駄目ですよっ。俺が今から誰か人を呼んできます。名無し様はここでじっとして───…」

とにかく彼女の身体を安静にさせなくてはならないと考えて、俺は急いで誰かに助けを求めようとした。

その瞬間、勢いよく立ち上がろうとした俺の二の腕に、名無し様が反射的に手を伸ばす。

「部屋は…いや…。あの部屋だけは…戻りたくない…」

俺の声が耳に入っているはずなのに、名無し様は何故かこの場所から離れる事を嫌がった。

こんな状態なのに『自分の部屋に戻りたくない』と言い募る名無し様の必死の嘆願を目に留めて、俺はつい心配の余り露骨に声を荒げてしまう。

「何を言っているんですか。名無し様のお部屋以外、どこに行かれると言うんですかっ!?」
「秦……」
「こんな夜遅く、他に体を休める事が出来る場所なんてありませんよっ。お願いですからもう今夜は自室でゆっくり休んで下さい。人を呼ぶので」

柄にもなく強い口調でピシャリと彼女の主張を跳ね返す俺を見て、名無し様が一瞬ヒクリと喉を震わせた。

再度立ち上がって人を呼ぼうとする俺の行動を、名無し様は何とかして止めようと試みる。


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