三國/創作:V | ナノ


三國/創作:V 
【Another worldW】
 




当然、主君である孫堅様にお仕えしている身分であるという手前、無下に扱うことも出来ずに名無し様は悩んでいた。

そしてついに今夜、5回目の食事に誘われて、いい加減きっぱりお断りしようと名無し様が重い口を開こうとしたその時、相手の男性がいきなり名無し様に抱き付いて、無理矢理キスをしようと迫ってきた。

『既成事実さえ作ってしまえば、こっちのものだ。家同士の婚姻なんてどうにでも出来る』

『辛い思いをしたくなければ、おとなしくしろ』────と。

その時点でとうとう我慢の限界を超えた名無し様は無我夢中でその男性の腕の中から逃れると、誰にも見つからないように気を遣いながら自分の部屋を抜け出した。

彼に追いつかれないように、少しでも遠く離れた所まで逃げ出そうと思っている内に、気が付いたときにはこの中庭まで足を運んでいた。

ここまでいくと、本当に我慢がならない。

信頼できる相手に今までの事の顛末を話し、助けを求める事にしよう。

そう思った名無し様は、これから尚香様の部屋を訪ねようとしていたそうだ。

しかし、こんな興奮状態のままでは話す事も上手く話せないままなので、ちょっと頭を冷やしてからの方がいいかもしれない。

気持ちが落ち着くまでしばらくここで冷たい夜風にでも当たって時間を潰し、それから尚香様の部屋に行く方がよいだろう。

そんなこんなでどこか腰を下ろして落ち着ける場所はないかとウロウロしていたら、ベンチの上で寝転んでいる俺の姿を発見した。


そして、今に至る。


「……最近知ったばかりの話なんだけど、どうやらその人は孫一族の中でもかなりの強引さとワガママ振りで有名な人みたいで、自分の望みを叶える為にはどんな汚い手段も平気で使う人物だってあちこちで噂になっているの」
「そ、そんな……。そんな方とこれ以上一緒にいたら、名無し様がっ……」
「うん。そうだよね。大好きな尚香の遠い親戚にもあたる人を悪く言うのは極力避けたかったし、自分の問題は自分一人で処理しようと思っていたのに。私、情けないよね……」

しばらくの沈黙の後、名無し様は哀しげな顔をして俺から目をそらす。

俺は、自分の前でそんな態度を見せる名無し様を見た途端、キュンッとした胸の痛みを感じていた。

「ああいうタイプの男の人は、私の事…好きでも何でもないんだと思う。あの人が見ているのは私じゃなくて、私の『後ろ』にある物だけ。私の役職だとか、身分だとか、私を妻にする事によって得られるメリットだとか…。『私以外』の、そういう事」
「……。」
「私の事なんて、きっと好きでもなんでもないの。それが自分でもよく、分かっているから」
「……名無し、様」


先程から感じていた胸の痛みが、どんどん酷くなっていく。



それは俺にとって、生まれて初めて感じる種類の甘く切ない胸の痛みと、それと同量の苦しみであった。

いつもにこにこと穏やかな笑顔をたたえている名無し様がこの日初めて俺に見せてくれた、彼女の本音。

こんな事はきっと名無し様が普段から抱えている仕事の辛さや人間関係の悩みに比べてみれば、ほんの一部の事かもしれない。

それでも俺は、好きな女性が自分に対して悩み事を打ち明けてくれた事が、本当に嬉しかった。

そんな名無し様の事が、心の底から震える程に愛しい、と思った。


誰かの事をこんなにも愛しいと思ったのは初めてだった。


「あ…そうだ。秦、この間はどうも有り難う。あの時貴方が助けてくれなかったら、私はどうなっていた事か…」
「────いえ。そんな大した事は」

今の自分が一体どんな顔をしているのか気が付いたのか、名無し様が不意に慌てた様子で話を変える。

穏やかで人を安心させる微笑みを浮かべている名無し様は、もうすでにいつもの彼女に戻っていた。

「ううん、私だけじゃない。秦が私とあの男の人達の間に入ってくれたおかげで場の空気が一瞬変わったし、結果的には周囲の人々も巻き込まずに解決する事が出来たんだもの。貴方がいてくれて本当に良かった」

名無し様はそう言うと、俺の髪を優しく撫でてにっこりと笑った。

彼女はその立場上、場合によっては他の武将達と一緒に戦場に赴く事もある女性だった。

自分の身を守る術をまったく持たない普通の町娘達とは違い、いざという時の為にそれなりの武術は身に付けている。

当然の如く、なんだかんだ言っても名無し様は女性の身であるので、甘将軍や凌将軍みたいな武芸に秀でた男の武将相手ではさすがに太刀打ちできないかもしれないが、普通の一般人相手であれば多少の数はこなせるはずだ。

あの時、俺の助けなんかなくっても、名無し様なら不良10人程度など別に問題なかったのかもしれない。

それなのに、『貴方がいてくれて本当に良かった』なんて言って下さる名無し様のお言葉に、俺は感動で胸が一杯になった。

「そ、そんなっ。俺は…名無し様の兵ですから…。名無し様の…名無し様だけの物ですから…。名無し様の為に体を張る事なんて…当然の事ですっ」
「秦……」
「……し、仕事ですから……っ」

ああ、どさくさに紛れて何言ってんだろう。俺。

憧れの女性に『助けてくれて有り難う』なんて言われてしまい、俺は完全に舞い上がっている。

好きな人とせっかく二人っきりになれたという滅多にないチャンスに、何とかして彼女に対する自分の気持ちを伝えたいと思った。

でも、やっぱり自分みたいな一兵士が名無し様のようなお方に身分違いの恋を伝えることはよくない事だと思った俺は、どうしても彼女を前にして自分の本心を吐き出す事は出来なかった。

同じ高貴な身分の方だとしても、これが桃香さんのようにプライドが高くて傲慢な女性だったら、『兵士風情の身分で私の事が好きだなんて、身の程知らずな!!』と露骨に毛嫌いされることだろう。

けれど名無し様の場合、それとはまた違った反応をされると思うのだ。

俺の勝手な予想にしか過ぎないのだが、何となく名無し様はこちらが真摯であればある程に、誠実な思いを抱いていればいる程に、そんな相手の気持ちをまともに受け止めてしまうと思う。

身分がどうのとかそんな事は全然関係なく、自分に対して告白してきた相手の事を、真剣に考えて下さる事だろう。

その結果、俺みたいな一般兵士が分をわきまえずに彼女への愛を告げてしまう事により、名無し様はきっと深くお悩みになってしまうのではないか、と……思う。

だからこそ、言えない。愛する人を自分のせいで苦しめてしまうなんて事、したくない。

こういう時、『仕事』って物凄く便利で万能な言葉だな、とつくづく思った。


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