三國/創作:V 【Under WorldX《後編》】 「なるほどなぁ。俺と大事なお仲間の間で板挟みになって、君は苦しんでいる訳だ」 静かな口調で告げられた言葉に、名無しの表情が強張る。 「で、仮にここで君達を見逃したとして、その後はどうなるの〜?どうやらあちらさんは俺達の事を殺したくて仕方ないみたいだから、このまま大人しく引き上げてくれるとは思えないけど」 「それは……」 「大体、俺が君の言う通りにしてあげる義理なんてある?俺としては、わざわざ獲物を目の前にして『待て』をさせられるなんてごめんだね。向こうから喧嘩を吹っかけてきたんだもん。正当防衛ってことで、むしろこの状況を利用しない手はないでしょ〜?」 珠稀の口調は軽いが、その発言の内容は極めて非情だった。彼は、名無しの申し出を受け入れる気など毛頭ないのだ。 「……っ」 痛いところを突かれ、名無しはグッと口籠る。確かに自分が何を言ったところで、珠稀が意見を変えるとは思えない。 分かってはいた事だった。珠稀という男に、『温情』や『情け』などという概念は存在しないのだと。 必要とあれば、迷わず他人を手にかけることができる。それが黒蜥蜴のボスである彼にとっての常識だった。 ならば、これ以上は何を口にしたところで無駄だ。名無しは諦めたように目を伏せ、力なく項垂れる。 「……なーんちゃって!」 「!?」 次の瞬間、珠稀は突然明るい声で笑った。ギョッと目を剥く名無しをよそに、一人で勝手に喋り始める。 「冗談だよ〜、冗談!そんな深刻そうな顔しないでよ、名無しちゃん。ちょっと名無しちゃんの困った顔が見たかっただけなんだも〜ん」 「えっ…、えええ…?」 あまりに突拍子もない台詞に、名無しは困惑の表情を浮かべた。珠稀は悪びれた様子もなく、満面の笑みを零す。 「俺はいつだって、君にだけは優しい男だからね〜。前にも言ったでしょう?君の頼みなら、俺、こんなつまんないこと速攻でやめちゃう」 「つっ……」 つまらない事だと言うのか。男同士の、命を懸けた戦いを。 怒りとも呆れともつかない感情がふつふつと湧き上がり、近くにいた陸遜は思わず言葉が出かかった。 珠稀は他人の反応などお構いなしにひとしきり笑い、ふっと真顔に戻る。 「それより何?その呼び方。随分他人行儀じゃない。俺と君との仲なんだからさ、もっと親しみを込めて呼んでくれていいのに〜」 「えっと…、それは、その……」 店の中では別に構いませんが、そのお名前を『外の世界』で不用意に口にしてはなりません 以前、珠稀の命を受けて黒服達が城の近くまで自分の事を迎えに来た時、男に言われた忠告を思い出し、名無しは咄嗟に珠稀を世代で呼んだ。 ここは店の中ではあるが、自分を含め、周瑜達もまた闇社会の者からすれば『外の世界』に属する。 外部の者が同席する場では珠稀の名は伏せた方が良いのでは、と考えた彼女なりの配慮だったが、そんな彼女の思惑などまるで意に介さず、珠稀は不満そうに唇を尖らせる。 「っていうか、どうして名前で呼んでくれないの?俺のこと、いつもみたいに本名で呼んでよ。可愛い声で。さん&tけで」 ギクリとして、名無しは固まる。 彼女だけではない。事情を知る珠稀直属の部下達を除く全員が硬直した。 部外者である周瑜達ですら、その異様さは分かる。事実、初めて出会った際、この男は名乗らなかった。 とはいえ、それ自体は『そういうもの』だと理解していた。時には闇組織の人間と遭遇する可能性もある自分達の役目上、彼らの世界では基本的に通称名を使用する事くらい、ごく初歩的な知識として心得ている。 いつもみたいに本名で 馬鹿な。有り得ない事だ。たかが役人の女風情が、五代目の実名を知るなど。その名で呼ぶことを、許されるなど。 「はぁぁ…?マジか…いやいや…さすがに冗談だろ?」 珠稀と同じ世界に長年所属する銀狼ですら、その衝撃的すぎる内容に瞠目して、思わず独り言が漏れる程に。 「名無しちゃん」 握ったままの名無しの両手をグイッと引き寄せ、珠稀が強引に顔を近づけた。 端正な顔立ちが眼前に迫り、名無しは思わずボボッと赤面した。至近距離で男と目が合い、慌てて顔を背ける。 「えっ、あの…」 「ねぇ早く。遠慮しないで」 「で、ですが、ええと……離して、ください!」 半ば自棄になりながら叫び声を上げた刹那、視界に映し出される光景の異様さに気付き、名無しは本能的に身を強張らせた。 いつの間に接近していたのか、珠稀の背後には周瑜が立っている。それに加え、彼が握る剣の切っ先がピタリと珠稀の項に押し当てられていた。 「貴様……、よくも我々の前でそのような事が言えたものだな。この期に及んで、まだ立場というものが理解できぬらしい」 怒気を孕んだ低い声で周瑜が語る。今にも首をはねられかねない状況だというのに、珠稀は全く動じる気配がなく、首だけ捻って背後を振り返った。 「なに、まだやんの?お宅の名無しちゃんが止めたってのによ。相変わらず空気が読めねえなあ、役人って奴は」 「黙れ。二度と減らず口を叩けぬよう、その舌を切り取ってやろうか」 珠稀に刃を向けている周瑜の口調には、一切の迷いがない。そればかりか、むしろそれ≠心底望んでいるようにも受け取れる。 対する珠稀は相変わらず余裕たっぷりといった様子で、クスクスと笑うだけ。 「あらあら…、どうしたの?そんなに怖い顔をして。もしかして妬いちゃった〜?」 「戯言を抜かすな」 「ふーん、そっかぁ。大切なオトモダチとやらの名無しちゃんと俺の仲睦まじさが羨ましくて気に食わなくて、お熱い嫉妬心を燃やしちゃっているわけだ」 「……存外懲りない男だな。私は警告したはずだぞ。悪意を持って彼女に近付き、傷付ける者が現れたなら話は別だと」 静かに、だが威圧的に周瑜は言う。 「心外だなあ。俺がいつ名無しちゃんに対して悪意を見せたっていうのかな」 「こうも告げたはずだ。友人が軽薄な男に弄ばれ、その結果不幸になるのをみすみす見過ごす訳にはいかないと。それを覚えておらぬとは言わせんぞ」 「俺が軽薄?それこそ冗談でしょ。名無しちゃんに対して、こんなに誠実に向き合っているのに?」 「人を表面だけで判断するのは私も好きではないが、貴様のその浅慮で不真面目な言動の数々は、どう見ても軽薄極まる。到底信用に値する人間だとは思えない」 周瑜は嫌悪の表情を隠しもせず吐き捨て、男の項に当てていた刃に力を入れる。 薄皮一枚がぷつりと切れ、血が滲んだのを見て、名無しの腕にゾゾッと鳥肌が立つ。 彼は今、本気で珠稀を殺そうとしているのではないか。 不吉な予感に胸騒ぎを感じつつ、そっと目線だけを動かして周囲を見やる。視界の中で、凌統と陸遜もまた怒りの虜にあった。 公衆の面前だというのに平気でイチャつき、名無しにベタベタと馴れ馴れしく接する男の態度が軟派で、軽率で、下品で、不快で、とにかく癪に障る。 同僚がそのような接し方をされるということ自体、自分達、そして彼女の品位を貶め、ひいては呉軍全体に対する強烈な侮辱だと受け止めたのだろう。 未だ武器を手にした凌統と陸遜の指先に、力がこもる。こちらを睨む二人の顔には、珠稀への憎悪の色が浮かんでいた。 [TOP] ×
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