三國/創作:V 【悪魔の花嫁V】 曹丕の目の前には、力なく横たわる名無しの姿があった。 両目を瞑って、完全にグッタリしている。 「────えっ?」 曹丕はこの時になって初めて名無しが気絶している事に気が付いた。 ついさっきまで普通に喘いでいたような気がするから、意識はあったはずなのだが。 気を失ったのはその後か。 曹丕は名無しの中から分身をズルリと引き抜き、全裸のままの名無しを抱き上げると、何やら考え込んでいるような顔をした。 「……。」 永久凍土を思わせるような、何の感情も見受けられない曹丕の瞳。 その冷たい双眸は、先程まで名無しに向けられていた暖かいものとはまるで違った。 その翌日。 名無しが受けた説明によると、曹丕によって秀英はすぐに領土内の遠く離れた城に移され、今ではそこで文官として働いているという事だった。いわゆる『左遷』というやつである。 初め秀英を殺すとまで言っていた曹丕だが、彼の言葉を信じるとすれば秀英の命を助けて欲しいという名無しの嘆願を聞き入れ、命だけは助けてやったという事なのだろうか。 秀英が殺されずに済んだ、助かった…という事に心の底から感激した名無しは曹丕に感謝の言葉を告げ、会話の合間にさりげなく秀英が現在勤務している城の場所について曹丕に尋ねてみた。 が、曹丕は決してその場所を教えてはくれず、名無しの要望を頑としてはねつけた。 『奴とは二度と会うなと申しつけたはずだ。それ故、お前に秀英の勤務地を教えてやらねばならぬ道理はない』 曹丕にそう言われてしまった以上、名無しはどうする事も出来ない。 せめて最後に一言でもいいから挨拶をしたかった。一目で良いから彼の顔を見たかった。 名無しの胸中にはそんな後悔が残ったが、元々曹丕が何らかの理由によって秀英の事を快く思っていなかったのだとすれば、左遷で済んだのであれば大いに喜ぶべき寛大な処置だ。 (哀しいけれど、もう秀英殿の事は忘れてしまった方が良いに違いない) 自分の為にも、そして秀英殿の為にも────きっと。 そう結論付けた名無しは秀英への淡い思いを内に秘め、己の体内で少しずつ殺していく事にした。 もうこれ以上、秀英の事を考えなくて済むように。そして自分が秀英の名前を口にして曹丕の怒りを買い、せっかく助かった彼の命がまた危ぶまれるような事態に陥る事のないように。 そう。自分のせいで人が傷付くような事があってはならない。 ─────もう二度と。 「で、何で私まで名無しと一緒に夜桜鑑賞会に参加せねばならんのですか」 ブチブチと不平不満を言いながら、司馬懿が顔の前でゆっくりと黒羽扇を揺らす。 秀英の異動が発表されてから一週間後、曹丕と司馬懿は仕事が終わってから夜桜鑑賞をする為に城内で一番大きなあの名物桜の前にいた。 何故こんな事になったのか、誰が最初に言い出したのかは忘れたが、曹丕と司馬懿、名無しの3名でその内花見でもしようという話になり、当然の事ながら昼間は全員仕事があるという事で、3人の都合のいい時を見計らって業務終了後に夜桜を見ようという事になったのである。 それがたまたまこの日であり、桜の木の下には庶民が使う一般的な茣蓙とは違い、身分のある者達が行楽時に使用する分厚い高級絨毯のような敷物が広げられていた。 一日の執務を終えた時、曹丕と司馬懿はいつでも花見が出来る状態だったが、名無しだけは酒や食べ物の準備をすると言って『後から行きます』と二人に告げた為、曹丕達は一足先に名物桜の元に向かい、花見を楽しんでいた。 「仲達も一緒に来てくれる事になったと名無しから聞いたような気がするが」 「私は名無しの誘いに対して『気が向いたら行ってやらん事もない』と返事をしただけです。それがどう脳内変換したら『仲達も来てくれる』になるんですか。うちの奴の前向きすぎる思考回路は魏国七不思議の一つです」 少々呆れながらそう言って、司馬懿が頭上で大きく広がっている桜の枝に目を向ける。 司馬懿は、そうしてしばらく風に吹かれてハラハラと舞い落ちる桜の花びらを興味深そうに見つめていた。 が、やがて周囲に注意を配るようにして視線を巡らし、自分達の近くに誰もいない事を確認すると、低く抑えた声で曹丕に聞いた。 「殿が秀英の屍体をお埋めになったのは、この桜の根元でしたよね?」 すると曹丕はフッと口元を緩ませ、同意を示すかのような妖しい視線を司馬懿に投げかけた。 名無しを抱いた当日、曹丕はその日の内に秀英をこの桜の木の下に呼び出していた。 深夜に突然の呼び出しという事で面食らった秀英だが、相手があの曹丕とあれば彼の召喚に応じない訳にはいかない。 何の会議も入っていなかったし、何の用事も言いつけられてなかったはず。 こんな真夜中に一体、どうした事だろう。 そう思いつつも素直に秀英が桜の木の下で一人曹丕の来訪を待ち侘びていると、秀英がこの場所に辿り着いた時間から20分程遅れて曹丕が姿を現した。 『このような時間に突然呼び出してしまってすまなかったな。……秀英』 聞く者の背筋をゾクリと震わせるような、曹丕の声。 曹丕の鋭い双眼と一瞬正面から目があっただけの事なのに、秀英はそれだけで背中に氷塊を押し付けられたような不気味な冷気を感じた。 『いえ。とんでもありません。それより殿、この秀英をお呼びになったのはどういった御用向きで…』 『ふ…用事か。まあ…話せば長くなるのだが、どの辺りから話そうか…』 のんびりと響いた曹丕の声の芯には、鋼を思わせるような冷たさがあった。 冷気に満ちているのは彼の声だけでない。闇夜に浮かぶ男の体躯の頑健さ、そして全身から漂わせている威圧感に、秀英の体を冷たい緊張感が走り抜ける。 [TOP] ×
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