三國/創作:V | ナノ


三國/創作:V 
【悪魔の花嫁V】
 




「私は曹丕の所有物だから、心も体も全て貴方の物だから……。自分の許し無く他の男性を好きになる事も…心を開く事も許さないと……私は貴方達の『人形』だから、自由な意思を持つ事は許さないと……」
「……名無し……」
「そ、曹丕は…また私が素直に言う事を聞かなかったら、代わりに他の人を酷い目に合わせるつもりなの…?ハーレムの女性達のように…今度は秀英殿に対して何か酷い事をするつもりなの……?」
「!!」

もし名無しが言う事を聞かなかったら、ハーレムの女達を即座に開放すると以前曹丕は言った。彼女達を即刻売り払い、安価な性奴隷として貴族達や下級兵士達にまで払い下げてやると曹丕は言った。

その事を思い出した名無しは、別段声を荒げる訳でもなく、ヒステリックに叫ぶ訳でもなく、単なる事実確認のような聞き方で男に問う。

涙で滲んだ視界に曹丕を映す名無しの顔には、曹丕に対する怒りの影はない。あるものは、もはや自分の力ではどうしようもないとでもいうような、絶望と諦めの色だけだ。

そんな名無しの表情を間近で目にし、曹丕の瞳にどことなく哀しげな、焦燥にも似た深い陰りと苦味の色が差す。

しかしそれはほんの一瞬の事で、次の瞬間にはまたいつもの冷徹な皇子の顔付きを取り戻していた。

「……そうだと言ったら?」

低く笑った男の目が、机を挟んで少し離れた距離から名無しを見る。

たったそれだけの視線でさえ、名無しは目に見えない頑丈な鎖でがんじがらめにされたような拘束感を覚えた。


「もし私が、お前の言う通り『言う事を聞かなければ秀英を殺す』と言ったらどうする」
「……。」
「返事もないのか?」


声が出ない。


曹丕の質問に対して反論したい事も文句を言いたい事も、幾らだってあるのに。

ただ自分の視界の先に、曹丕がいて。

彼は自分の質問にきちんとした明確な答えを返してくれて、その代わりに今度は自分が彼の質問への返事を求められているのに。


声が、出ない。




「────そうだと言ったら、どうする!?」



責め立てるような強い口調で再度問われ、名無しは反射的にビクリと体を震わせた。

曹丕の返事の内容を考えてみる限り、やはり彼の目を盗んで『彼が気に入らない男』と親しくしていた己の行動には、冗談では済まされない不快の色があったのだ。


名無しはその事を悟った直後、今にも消え入りそうな細い声を絞り出し、切れ切れに懇願する。


「曹丕に…従います。曹丕の言う事なら、何でも聞きます。私、従順になります。貴方の言う事に逆らいません」
「……。」
「だ、だから…だから曹丕……私はどうなっても構いません。秀英殿に何かする事だけはやめて下さい。あの人を傷付ける事だけは…やめて下さいっ。どうか曹丕…あの人だけは…秀英殿だけには何もしないでっ」
「……。」
「……お願いします……」


両手を下腹部辺りで重ね、恭しい動作で曹丕に深く頭を下げながら、名無しは誰にも聞こえないように一人心の中で秀英に対する別れの言葉を呟く。


『秀英殿。さようなら』


『いつまでも、お元気で』


秀英への別れの台詞を告げた瞬間、名無しの瞳から涙が音もなく溢れ出た。


自分の中で、何かが音を立てて壊れていった気がした。


「……何でも、か」


嫌味を含んだ声を投げかけられ、名無しはようやく顔を上げ、背筋を正して曹丕を見る。


「私が愛しいと思っているその唇で、他の男の命乞いをすると言うのか」
「曹丕……」


低く落とされた曹丕の声の質に、不意にゾッとするような冷たい痺れが名無しの背中を走り抜けた。

からかうような、笑うような機微が含まれている曹丕の声音だが、名無しを見つめる曹丕の双眼は決して笑ってはいない。


「愛しているのか?」


─────お前は秀英の事を、愛しているのか?と。


そう名無しに問う曹丕の声は、いつも通りの硬質さを備えている。

だが、何故かこの時名無しの気持ちを確認しようとしている彼の声は、名無しの耳にどこか哀しい響きで届いた。


「良く……分からない」


どうしてそんな事を曹丕が聞いてくるのかと思い、名無しはさらに動揺した。

自分は果たして本当に秀英の事を愛しているのか?心の底から愛しているのか?と改めて他人に聞かれてしまうと、名無しの鼓動は不快なリズムを刻み、頭が酷く混乱する。

好きだとは思う。決して嫌いではないと思う。だが、秀英の事を男として、一人の異性として見ているのか?と聞かれると、微妙なモヤモヤが名無しの胸中に広がっていく。



同じ『好き』という気持ちでも、それが『like』なのか『love』なのかと問われると、その境界は酷く曖昧で─────。



「知りたいか」
「……えっ?」
「お前が我々に抱いている気持ちと、あの男に抱いている気持ちの違いが分からんと言うのだろう。鈍い女だとは思っていたが、ここまで男の質の違いや色恋沙汰に疎いとは思わなかった」

フーッと大きな溜息を一つ吐き出して、ほとほと呆れたような口振りで曹丕が言う。

息を詰め、怖々とした視線だけ男に走らせる名無しに、曹丕が夜の闇に輝く月のように冴えた双眸を向ける。


「私や仲達と、あの男の根本的な違いを知りたいか?」


ギンッ。


「……あ……」


鋭い眼光で至近距離から瞳を射抜かれて、名無しは瞬時に全身が硬直し、彼の瞳に視線が釘付けになる。

真正面から自分を見つめる曹丕の瞳が夜の闇のように真っ黒で、名無しは魂ごと全て彼に支配されているような錯覚に陥った。

私…知っている。例えようもないこの感覚を知っている。

そして何ら深い意味がある訳でもなく、そのくせ極めて悩ましい、思わせ振りな瞳が世の中には存在する事を。


(全然、違う)


たったこれだけの事で彼らと秀英の決定的な違いを思い知らされたような気持ちになり、名無しの額にツゥッ…と冷たい汗が伝う。


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