三國/創作:V 【悪魔の花嫁V】 この城に身を寄せてから、曹丕と司馬懿の所有物になってから、こんな暖かい眼差しで男性に見つめられた事は初めてだった。こんな風にして熱烈に愛を囁かれた事は初めてだった。それに、こんなに優しく手を握られた事だって。 込み上げる嬉しさと切なさで胸が詰まりそうになり、名無しは近すぎる距離を解こうと顔を上げる。 このまま秀英にずっと見つめられていたとしたら、ずっと手を握られていたとしたら、今にも泣き出しそうになってしまう。 すん、と鼻を啜った名無しの両目に秀英の美貌が映ったのは、ほんの一瞬だった。 「……あっ……」 名無しの鼻に秀英の鼻が擦り寄せられるように当たり、続いて秀英の頬が名無しの頬を撫で、最後に柔らかい何かが名無しの唇にぶつかる。 それが秀英の唇なのだと名無しが気付いたのは、一呼吸以上もおいてからだった。 欲望のままに喰らいつく訳でもなく、互いの舌を絡める訳でもなく、唾液を混ぜる訳でもなく、唇の表面がそっと触れ合うだけの限りなく優しい口付け。 自分の身に起こった出来事へのあまりの衝撃に、名無しの瞳が大きく見開く。 声も出せずに秀英のキスを受け止めている名無しからようやく唇を離すと、秀英は一旦名無しを真正面から見つめ、それから彼女の背中に腕を回してギュッと力一杯抱き締めた。 「……来週、僕と一緒に僕の故郷に来て下さい。名無し殿」 「……っ!」 「結婚を前提としたお付き合いの相手として、貴女の事を両親に紹介したいと思っています。確か名無し殿も来週3日間の休暇予定が入っていたはずです。だからこそ、僕も名無し殿の予定に合わせて休暇申請を出したんですよ」 「あ…それは……」 秀英の言う通り名無しは来週数日間の休暇を申請し、すでに許可を取っていた。 それは先月ある件で業務が非常にバタバタしていた時に名無しが司馬懿と共に休日を返上して執務に当たっていた為に、その時の振り替えとして曹操から『たまには休め』と言われて与えられた休日だった。 それは司馬懿も同じ事ではあったが、自分達が二人ともいない間に万が一の事があってはならない、と判断した司馬懿はわざと名無しとは日付をずらして別枠で休みをとった。 しかし秀英は名無し達と同じ内政部でも彼らと分かれた別の課で仕事に当たっている人間なので、名無しの休みに有る程度合わせる事は可能なのだ。 「別に名無し殿との仲を急ぐ訳ではありません。名無し殿が望まないのであれば、もっとゆっくり時間をかけて、少しずつ二人の愛を深めていきたいと思っています」 「…秀英殿…」 「ですが、あのような手紙が実家から届いた事ですし、丁度いい機会だと思いまして。もし名無し殿が僕と一緒に故郷について来て下さると言うのなら、その時僕は貴女の事を両親や親戚に紹介したいと思います」 「……。」 名無しの唇の内側で、『あ』、と、何かの声が出そうになった。 けれどもそれは最後まで形にならず、どうしようもない焦りと不安な気持ちばかりが募る。 「もし名無し殿にその気があるのでしたら、金曜日の夜、深夜0時にあの桜の木の下に来て下さい」 「!!」 「お金は僕が持っていますので、名無し殿は体一つで来て下さって大丈夫です。僕の馬に乗せて、貴女も一緒にお連れします。貴女が来て下さらなかった時は、僕はそのまま一人で故郷に発ちます」 「…秀…英…」 「僕、30分でも一時間でも───待ちます」 本気だから、是非とも両親に引き合わせたい。故郷に連れて帰りたい。 あまりにも分かりやすく、明瞭な言葉にされ、名無しの足元がグラリと揺らぐ。 飾り気の無い直球で投げかけられた秀英の言葉は、どんな言葉よりも名無しの心を深く貫いた。 「……では、これで……」 もう一度名無しに顔を寄せ、頬にチュッと軽いキスを与えると、秀英は軽く会釈をして名無しの机にあった書類を受け取り、そのまま扉の方へと歩き出す。 バタン。 秀英が立ち去った後、名無しは全身の力が抜けきったようにヘナヘナッとその場に膝から崩れ落ちる。 未だ唇に残る秀英の柔らかい唇の感触と暖かい体温の余韻を感じながら、名無しはただ呆然とした表情で秀英が出て行った扉の方向を見つめていた。 (どうしよう……) 一日の仕事が全て終わってから、名無しは自室で一人鏡の前に立ち尽くしていた。 鏡に映る自分の姿は朝見た姿よりも大分憔悴していて、疲れが溜まっているように思える。 これは別に秀英の事があったからという訳でもなく、仕事が終わった後は毎日こんな感じの疲労感に襲われて、有る程度の時間が経てば次第に睡魔が押し寄せてきて、名無しを深い眠りの世界へと誘う。 しかし今日はどうした事か、夜中になってもランランと目が覚めた状態であり、一向に眠気を感じない。 (早く眠らないといけないのに) 次の日も朝早い時間から仕事が始まると言うのに、このままではずっと眠らずに朝を迎えてしまいそうな予感がするではないか。 さすがに今の仕事で徹夜はキツイと思っている名無しは何とかして寝よう寝ようと思ってみたが、20分程ストレッチをして身体に軽い疲労を与えてみても、ベッドに潜って羊が一匹二匹と数えてみても、相変わらず名無しの両目はパッチリと開いたままで瞼が降りる気配がない。 (秀英殿……) 何も考えないようにしていても、自然と湧き上がってしまう彼への思い。 (私は、秀英殿にあんな事を言って貰える資格があるのだろうか) 秀英は、何も知らない。名無しと曹丕達の関係も、名無しの全身をがんじがらめにしている、彼らの言葉で言えば『性奴隷』という名の薔薇色の鎖の存在も。 その事実を秀英が知ったら、きっと驚愕する事だろう。自分の事を軽蔑する事だろう。今日みたいに愛情に満ちた眼差しで彼に見つめて貰える事は二度と無いだろう。 [TOP] ×
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