戦国 | ナノ


戦国 
【罪と罰】
 




しばらくその光景を固唾を飲んで見守っていると、ようやく今の自分の体勢に気付いたかの如くキュッと足元を引き寄せて、はらりと音を立てて衣服の裾を元通り足にかけていく。

それすらも彼女の無意識の為せる技だというのか、そしてまた何事もなかったかのように目を伏せて書面に視線を落とす。

その行為が何度も何度も過ぎ去っていく時間と共に繰り返されて、見ているこっちはまるで彼女に焦らされているかのようだ。

ちゅっ…と指を舐めて指先を濡らし、滑りを良くしたその指で紙面をペラリとめくっていく動作の度に、名無し殿の柔らかそうな赤い舌が唇の中で見え隠れしている。

三成殿は本当にこんな女性と毎晩一緒に仕事をしているというのか。

こんな素振りを目前で見せ付けられたとしたら、どんな男もまったく仕事になんてならないのではないだろうか。

そう思ったまま何も言わずに黙って正座をして彼女を見つめる某に対し、ようやく彼女がぽつりと唇を開けて言葉を零した。

「この書類…しばらくお借りしてもよろしいですか?もっとゆっくり、時間をかけて読んでみたいので…」
「別に…構いませんよ」

その声を聞いた途端、ゴクリと生唾を飲んでしまう。

終始無言のまま熱中して読んでいた彼女の口からやっと聞く事が出来た、興奮気味の熱っぽく擦れたようなその甘い囁き。


『もっと、ゆっくり…』

『時間をかけて…』


情事の際を連想させるような囁きに、某も何だか妙な気分になってくる。

誘っているとしか思えない。

自分で分かっているのかどうかは知らないが、彼女の口調は男に何かを勘違いさせるような、変な期待を持たせる部類の物なのだ。

クルクルとまた元通りに慣れた手つきで巻き物を綺麗に巻き直していくと、名無し殿がゆっくりと顔を上げ、満面の笑みをたたえて某を見つめた。

「本当にありがとう。こんな物、普通はなかなか見せて頂けない物でしょう?私も無理だと返事をしたのですが、秀吉様が『名無しが頼めば絶対に大丈夫じゃよ』なんて言うんです」
「……左様ですか……」
「殿も変な事を仰る方です。私がどうこういう訳ではなくて、長政殿のお心が広いだけですのにね」

そう言ってくすくすと笑う彼女を見ながら某は秀吉公の人を見る目の正確さと鋭さに、悔しいが内心降参の白旗を上げていた。

ねね様という最愛の妻が有りながら、そのねね様が夫の余りの女グセと浮気グセのひどさに主だった信長殿に直訴の書状を送った程に女好きで有名な秀吉公だ。

勿論名無し殿の内政能力も高く買っているのだろうが、それ以上に彼女のこの特異性を見抜いているのではないだろうか。

その力をも非常に高く評価して、例えどれ程優秀な人材だとしても、たかが女一人に一国の城まで与えているのだろう。

三成殿はよく分からんが、現にあの信義を唱える幸村殿であったとしても、名無し殿の為ならきっと平気でどんな相手も殺す事が可能に違いない。


恐ろしい女性だ。


「そういえば長政殿。こうして二人でお話するのは初めてですよね?この三ヶ月、豊臣で過ごしてみて何か疑問はありますか?悩み事とか、気になる点があったら何でも遠慮なく言って下さいね」
「悩み事…ですか…」


家伝の書を素直に手渡した事で何の疑いもなく某に信頼仕切ったような暖かい眼差しを向ける名無し殿を見ていると、グツグツと自分の中で黒く染まった淫らな感情が渦を巻いて暴れだすような気がした。

きっと彼女は誰に対しても別け隔てなくこの眼差しを向けるのだろう。

誰に対しても信頼を預けるような瞳で相手を見つめているのだろう。

この目付きが、曲者なのだ。

我々のような常に戦場に身を置いて身体的な疲労と精神的なストレスに日々悩まされる男にとって、彼女の態度はまるで聖母のように慈愛に満ちた、暖炉の灯りにも似た暖かい炎だ。

だが、暖炉の炎は決して我々を優しく照らして体を暖めてくれるだけではない。

表面上の物も隠し出された物も等しく照らすその炎は、男自身がずっと彼女の前では隠してきた雄としての獣の本性を、爛れた傷口をも容赦なく映し出すのだ。

『自分は男なんかじゃないです。貴女の味方です。貴女を汚しません。他の女と同列に貴女の事を扱いません。絶対にそんな目をして貴女を見ません』

配下の立場の武将として、そんな風に彼女の前では口を揃えて猫を被っていた男の秘められた欲望を、鮮烈な迄に曝いて明るみに出してくるような眼差しなのだ。

そんな目をして自分を見られたら困る、と男なら誰もが思うだろう。

そしてそんな彼女を見ていると、本当は自分がどう思っているのか教えてあげましょうか?という様な酷く残酷な気分にまでなっていく。


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