異次元 | ナノ


異次元 
【有毒男子】
 




「名無しが今抱えている業務がもう少し落ち着いて、仕事だけでなく恋愛にも目を向ける余裕が出来て、私を受け入れてくれるようになったら思いを告げようと思っていた」
「……。」
「だけど……やはり無理だ。司馬懿殿と親しげに話している名無しの姿を見かける度に嫉妬で胸が苦しくなる。司馬懿殿だけじゃなく、名無しが他の男といる時もそうだよ。あなたが好きだ。……名無しを欲しいと思う気持ちはどうしても止められない」
「か、郭嘉……っ」

名無しは、真っ直ぐに自分を見つめてくる郭嘉の色っぽい視線から逃れられずゴクリと喉を鳴らした。


これは愛の告白である。


しかも、これ以上ないほどに濃厚で、甘甘で、情熱的で、蕩けるような愛の告白である。


────台詞だけ聞けば。


男の双眼から放たれる強烈なアイビームに当てられて名無しがヨロリとよろけそうになった際、咄嗟に郭嘉の両腕が伸びてきて、名無しの体をしっかりと支えた。

名無しが反射的に振り払おうとしても振り払えなかった郭嘉の腕は、普段事務仕事がメインの軍師という彼の職業から想像していたものと違って力強く、逞しかった。

だが、拒む名無しを力ずくで強引にねじ伏せるような真似はしない。

まるで可愛くて仕方ない恋人の体を大切に愛でる時のように、名無しの腰を抱き寄せる郭嘉の腕はとても優しいのだ。

「名無し、正直に言う。……愛してるよ」

完全に硬直してしまっている名無しをそっと抱き締め、郭嘉が彼女の耳元で愛を囁く。

彼に抱き締められた途端、郭嘉が付けている香料の匂いが名無しの鼻先をふわりと掠める。

シトラス系のような、ムスクのような。爽やかさと甘さが絶妙に混ざり合ったような魅惑的な香り。

(い…、いけないっ!!)

とても心地よい郭嘉の声と香りに意識が絡め取られつつある己の状態に気付き、名無しの脳内で声にならない悲鳴が迸る。

「愛してる。名無し…愛してる…」

そんな名無しの葛藤をよそに、郭嘉は名無しの耳たぶに触れそうなほど唇を近付けて、しっとりとした低音の声で何度も囁いてくるのだからたまらない。

心臓がドキドキして、目が回りそうである。


エマージェンシー、エマージェンシー。緊急事態をお伝えします。


このままいけば、あと30秒後には名無しの脳が思考を停止します。


名無しの拠点は、郭嘉によって制圧されます!!


「かっ…、郭嘉!離して……っ!!」
「おっと…!」

ドンッ。

残された最後の力を振り絞り、名無しは郭嘉の厚い胸板を押し返すと身を捩って脱出を試みた。

突然の抵抗に反応が遅れたのか、一瞬力を緩めてしまった郭嘉の隙を逃さず名無しはスルリと郭嘉の腕の中から滑り出る。

「あー、ビックリした!他の女の人達だけじゃ飽きたらず、郭嘉ったら私の事までナンパの対象にするつもり!?ああもう…、ほ、本当にビックリした…!」

50mを全力疾走した直後のようにゼーハーと呼吸を乱し、ろれつの回らない言葉で名無しが告げる。

よっぽど動揺しているのか、魚のようにパクパクと口を開閉させて震える名無しの姿を、郭嘉が何とも嬉しそうな顔で見下ろしている。

「どうして逃げるのかな?ひどいよ名無し。人が渾身の愛の告白をしているっていうのに」

獲物を見つめながら整った顔に薄い笑みを浮かべ、ゆっくりと近付いてくるその様は、優しげな王子様というよりは物語によく登場してくる美形悪役そのものだ。

猫撫で声というのはこういう声の事を指すのだ、という代表例として採用されそうなくらいに甘く、優しく、意味ありげな郭嘉の声。

それがますます怪しい。実に怪しい!

「そんな…本気なはずがないじゃない。郭嘉ほどの男の人が、私なんて本当に好きになるはずがないよ。こんな事をして一体何を企んでいるの?」

生け贄を求めるその腕に捕まったら最後だと言いたげに、名無しはブルブルと首を振って郭嘉の言葉を否定する。

すると郭嘉は少しだけムッとしたような顔をして、名無しの前でわざとらしく嘆息した。

「哀しい事を言うんだね。名無し……私の事がそんなに信じられないの?」

責めるような口ぶりで、郭嘉が反論する。

これが普通の男性からされた告白なら、名無しとて素直に喜ぶ事が出来よう。

しかし、相手は何と言ってもあの♀s嘉である。

女と見れば次から次へと甘い誘いをかける郭嘉の言葉を、どうしてすんなりと受け止める事が出来るだろうか。

それはホストが客の女性に囁く『俺が本当に愛しているのはお前だけだよ』という言葉と同じくらい、鵜呑みにするのは危険な行為。

(私だって、そこまで馬鹿な女じゃない)

そう思い、名無しは郭嘉の美しい顔を見上げて反論した。

「郭嘉みたいな男の人は、きっと普通の女じゃ絶対に満足出来ない。恋愛に求める物も、女性に対して求める物も、普通の男の人とまるで違うような気がするし…」
「ははっ。名無し、何を言って……」
「郭嘉は確かに女性好きだとは思う…けど、それはお酒と同じ事で、女性との恋愛や情事も人生の余興として捉えているだけっていうか…。郭嘉って、本当は女の人の事……全然信用していないような気がするの」
「!!」

予想外の返答だったのか、郭嘉が驚いて目を見張る。

「……どうしてそんな」

郭嘉は軽く笑い、名無しの発言を受け流す。

しかし、見る者の心をたちまち溶けさせる郭嘉の妖艶な微笑みは、この時の名無しには何かを誤魔化すための作り物の笑みに見えた。


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