異次元 | ナノ


異次元 
【籠の鳥】
 




主人の問いに深く頭を下げた後、私はゆっくりと顔を上げ、厳かな眼差しで信長様の瞳を正面から見返した。


「はい、信長様。私の愛は絶対無二の愛。私が相手に捧げる愛情を他の誰かと共有したり、分かち合う気は微塵もありません」
「…なんと…」
「例えこちらがどれだけ相手の事を真剣に愛していたとしても。相手が自分以外の男を少しでも愛していると言うのなら、蘭はそのような女性と一緒になるのはいやなのです」


真面目な顔付きで主人を見据える私を見て、濃姫様が『まあっ』とびっくりした声を上げている。

まるで珍しいものを目にする時のような視線で私をチロリと舐めると、濃姫様は一層妖しく微笑んだ。

「激しいのね、蘭丸…。可愛い顔して人の心を弄ぶ小悪魔小姓だとばかり今まで思っていたから、貴方にそんな純な一面があったなんて驚きだわ。でも、そういう所も意外性があって好きよ」

その言葉の半分は確かに当たっていますが、半分は間違っています。

正しく手直しするならば、私は好意を持っている女性にだけは優しいですが、それ以外のどうでもいい女性に対しては悪魔の如く容赦がないのです。


(貴女だけは別ですが…名無し)


この広い城内の中で、たった一人。

内心密かな好意を寄せている相手の事を思い出し、私は人知れず心の奥底で彼女の名前を呼んでいた。





名無しは私と同じで織田家に仕える女性であり、信長様直属の軍に籍を置く人間だった。

最初に信長様から彼女を紹介された時は特に思うところもなかったが、『こんな女性が本当にこの織田軍でやっていけるのか』と少々不安に思った。

主君の信長様や奥方の濃姫様といい、織田に仕える武将の光秀殿といい、そして私といい。

他の軍と比べてみても、織田に属する武将達は全員揃いも揃って一癖も二癖もある人間ばかりだからである。

そんな人間達に囲まれながらも何ら臆する姿勢も見せず、名無しはただひたすら己に与えられた職務に専念し、実直な仕事ぶりで徐々に城内での評価を高めていった。

やがて彼女は信長様によって織田軍の内政を取り扱うという責任ある高位の役職に引き立てられる事となり、実質信長様の右腕的存在でもある光秀殿と二人で内務を担う事となったのだ。

そして、そんな彼女が着々と出世への階段を上っていたその同時期。

一見信長様の寵愛を受けておきながら、裏では『小姓立ち』と噂されていた私は、深い怒りと憎しみの感情を内に秘めて日々の生活を過ごしていた。

『小姓立ち』という言葉があるが、それは≪小姓から取り立てられた者。小姓上がり≫という意味の言葉である。

そして、得てしてその言葉は誉め言葉の類などではなく、嘲笑の意味で使用される事が多い。

小姓というのは貴人の側近くに仕え、身の回りの雑用を務めたり、もしくは寺院で住職に仕える役目の者を指す。

当然の事ながら武力や知力に秀でた戦国武将達とは違い、実際の戦場においては殆ど役に立たない非力な存在。

無論小姓の中にも文武両道な者もいて、また、武術にはそれほど秀でていなくても優れた知略を持つ者は自分の仕える主にその才能を見いだされ、引き立てられ、何かと重宝される事もある。

そういった事が名家の出身者や生粋の武将達には疎ましく見えるのか、『小姓立ちの分際で、偉そうに』『小姓上がりが生意気な』と陰口を叩かれる事もよくある話。

信長様の寵愛を受けた私もその例に漏れず、何かにつけては『小姓立ちのくせに』と言われることが多かった。

初めから身分の差や生まれの差で他人を選別する事もなく、徹底した実力評価主義をとられる信長様は、『愚か者の戯れ言など一々気にしなくても良い』と言って下さるが、そうは言っても内心腸が煮えくり返って仕方ない。

私に力がないと言うことは、私を引き立てて下さった信長様にも迷惑がかかるという事だ。

私が馬鹿にされるという事は、信長様まで馬鹿にされるという事。

そう思った私は必死になって体を鍛え、寝る間を惜しんで鍛錬に励み、剣の扱いを習得した。

小姓出身でありながら、実力の程を評価され、武将の位を与えられ、やっと今の地位につけたのだ。

それでもなお私に対する貴族達の中傷は収まることもなく、私は日々磨かれていく剣技の鋭さに比例するかのように沸き上がる強大な苛立ちを、己の体内に押さえ込むことに苦労していた。

その時、私の前にふと姿を見せたのがあの名無しなのである。

『蘭丸…?どうしたの?こんな夜遅くに中庭で塞ぎ込んでいるなんて。何かあったの…?』
『貴女は確か…名無し』

高ぶる気持ちを抑える為に夜の中庭で一人しゃがみ込んでいると、不意に背後から名無しが声をかけてきた。

思えばこの時まで私と彼女はろくに会話らしい会話をしたことがない。

だからこそ、今回の出会いを丁度いい機会だと捉えたのか、名無しはそのまま自然な流れで私の隣に腰を下ろす。

これが普段の私だったなら、きっとこの彼女の行為を内心疎ましく感じていたに違いない。

しかしこの時の私は相当心が弱っていたのか、それとも何となく名無しが話しやすそうな風情をたたえていたからなのか、気が付いたら私は自分から彼女に話しかけ、苦しい胸の内を切々と訴えていた。

余計な口を挟む事もせず、名無しはただ黙って私の話に耳を傾けて、ずっと私のペースで話をさせてくれた。

私の話の全てを受け止めようとするかの如く、何度も頷きながら話を聞いてくれる名無しの姿を見ていると、冷たい氷のようだった自分の心がゆっくりと溶けていくのを感じていた。


『名無し。貴女から見て私はどんな風に見えますか?』

話の終わりに質問を投げかけてみると、名無しが少しだけ驚いた顔をする。

『えっ…。どんな風にって、蘭丸でしょう?』

唐突に振られた私の問いの意味をよく理解できていないのか、名無しが全く見当外れな言葉を返す。


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