異次元 | ナノ


異次元 
【魂喰い】
 




なんと言っても司馬懿は司馬師と司馬昭の実の父親だ。本家本元とも言える彼の魔眼の威力は若き司馬兄弟を遙かに凌ぐ。

どんな女でも司馬懿のあのけぶる瞳で5秒以上見つめられれば急激に高められる緊張と胸の鼓動で呼吸をすることすら忘れ、頭の天辺から足の爪先までサーッと紅潮させて震えながらその場に立ちすくみ、最愛の主人を見るような奴隷の眼差しでうっとりと司馬懿を見上げるというのに。

「私や昭のみならず、あの父上といても平常心で仕事が出来るという驚異的な免疫力。そればかりか、父上と同様…、いや、それ以上かもしれぬ殿の眼光を前にしても臆することなく反論できるあの肝の据わり方は並みの女ではない」

司馬懿の事をきっかけとして、次から次へと疑問が湧き上がってきたのか、司馬師は流暢な話し方で続きの言葉を紡ぐ。

大国・魏に君臨する曹王家の一族であり、王者としての優れた知性と武力、残忍さを併せ持つ魏の皇子・曹丕は冷たい氷のような美貌が印象的な美男子であり、司馬懿と並んで強力な魔眼を持つ一人であった。

司馬懿に匹敵する、もしくはそれ以上のサドっ気とご主人様気質を備える曹丕のアイビームの威力はS男が多いと言われる魏国の中でも間違いなくトップクラス。

どんな女でも一度彼と目があえばすぐさまその足下に跪き、『奴隷扱いでもいい。どうか私をお側に置いて下さい』と懇願したくなってしまう程。まさしくM女のカリスマ≠セ。

そんな曹丕相手ですら、名無しは比較的普通に彼と会話をしているように思えた。

その証拠に、以前曹丕と名無しが二人でいる所を司馬師は偶然見かけた事がある。

『なんだ今日の髪型は。普段に比べて大分爆発しているな』
『爆発しているんじゃありません!これはエアリーヘアー≠チて言うんです。今流行の髪型だからって、張コウがやってくれたのっ』
『この膨らみの部分はどうなってる?』
『ちょっ…曹丕、ダメ!触っちゃいやっ。せっかく張コウがセットしてくれたのに崩れちゃうじゃない〜!』

二人の雰囲気と漏れ聞こえてくる会話の内容から察するに、どうやら曹丕が名無しの事を普段通りの意地悪な口調でからかい、それに対して反論する名無しの図といった感じに見えた。

『フッ。何故やめねばならん。他人が苦労して作り上げた物をグチャグチャに破壊してやるのが楽しいんだろうが』
『ああ〜!やめて!やめて!曹丕のドS!』
『で、結局これはどういう仕組みだ』
『ううう…もうぐちゃぐちゃだよ…。これはその、張コウのしてくれた説明によると、髪の毛の間に空気を入れて、膨らませる感じでフワッとこう……』
『空気で膨らませる?阿呆か。こんなに頭でっかちにすると顔も一緒に膨らんで見えるぞ。顔デカ度120%で似合わないからやめろ。お前は私が認める髪型だけしていればいいんだ』
『なにそれ…!曹丕の意地悪!悪玉菌〜!』
『うるさいドテカボチャ』

同じ魏の武将でもあり美容番長の異名を持つ張コウにせっかくセットしてもらったという名無しの髪型を容赦なく崩す曹丕に、その行為を涙混じりの声で責める名無し。

あの冷酷皇子で知られるクールな曹丕が名無しに対しては心底楽しげな笑みを浮かべながら意地悪行為に及んでいたのも司馬師にとっては新鮮な驚きだったが、『ああん、曹丕様…』と心酔する訳でもなく本気で抵抗の姿勢を見せていた名無しの姿もさらなる驚きだった。

曹丕や司馬懿。そして自分達司馬兄弟に逆らえる女など、この魏城に存在するはずがないと今まではずっと思っていたのに。

自分達を見る時の名無しの目はどこまでも平常だ。穏やかで落ち着きがある。

あれはそれなりの修羅場をくぐってきた女の目だ、と司馬師は思った。


「そう考えると、小動物系の女と言うより────むしろ女狐≠フ類かもしれぬ」


司馬師は、そう言って喉の奥でククッと低く笑う。

彼の言う女狐≠ニいう言葉を聞いた司馬昭は『まさか』と言いたげな様子で大きく目を見開く。

「……兄上。それ、マジで言ってます?」
「私は本気だ。少なくとも、不肖の弟よりは女を見る目には自信があるつもりだ」
「悪かったですね不肖の弟で。ま、兄上の自信過剰っぷりにはもう慣れっこですけど。てか、別に負け惜しみする訳じゃないですけど、名無しが小動物系か女狐系かなんて……そんなの実際に喰ってみなけりゃ分かんないと思いますよ」
「では、喰ってみるか?」


─────私とお前で。


額にかかっている前髪を優雅な手付きで掻き上げて、美しい兄が弟にチラッと意味深な視線を送りながら言う。

するとその視線の意味に気付いた司馬昭は意思の強そうな瞳をギラリと輝かせ、兄の本気度を探る為に聞き返す。

「……殿や父上にもなびかない女だからこそ、兄上は名無しに興味がある。俺達二人と接していてもまるでびくともしないのが癪に触るからこそ、他ならぬ俺達の手で攻め落としてやる……ってことですか?」

間髪入れずにそう切り返した司馬昭に、司馬師は多少驚いたように目を見張る。

司馬昭の読みは、まさに司馬師が考えていた事と一緒だった。

司馬師も司馬昭も、心の底から父親である司馬懿を尊敬していた。魏の名軍師として国内外に名声を轟かせる父を敬い、憧れる心があるのは決して嘘ではない。

だが男子たるもの、いつまでも父に従い、父の背中を追い続けているだけではダメである。それではいつまで経っても己自身の成長が見込めない、と司馬師は常々思っていた。

父親を尊敬する気持ちがある反面、いつかは父親を出し抜き、父親を超えたいと思う気持ち。それは世の多くの息子達が少なからず抱いている思いではないだろうか。

そんな事を漠然と考えていた司馬師の前に現れたのがあの名無し。

司馬懿と同じだけの仕事をこなし、彼と同等の地位に就くのは自分達がどれだけ頑張ってもまだ経験も実績も年齢も伴わないかもしれないが、権力ではなく男としての勝負であれば同じ土俵に上がれるのではないかと。


[TOP]
×