異次元 | ナノ


異次元 
【魂喰い】
 




中庭のベンチに一人腰掛け、人知れず深い溜息をつき、ぼんやりとした表情で地面をじっと見つめていた名無し。

何かに追い詰められているような、心身共に何かに囚われているような。

今自分が置かれている状況がとても切ないような、苦しいような、嬉しいような、泣きたいような、複雑な気持ち。

そんなものを抱えながら出口の見えない袋小路を彷徨っているように感じた名無しの姿に、司馬昭はチクリとした胸の痛みを覚えた。

しかも、愁いを帯びた名無しの表情が何やらとても悲しげで、切なげで、それでいて色っぽくて、思わず背後からギュッと抱き締めたくなるようないじらしさまで兼ね備えていたものだから、司馬昭はあと少しで名無しに背後から近づき、『どうした?何があった?』と尋ね、抱き締めそうになった。

それを留まらせたのはひとえに己の理性と、そっとしておいて下さい≠ニでも言いたげな名無しの小さな背中だ。

あれ以来、笑顔の名無しに会っても今まで通りにどうでもいい話ばかりをするのがためらわれる。

司馬昭の中で、あの時の名無しの姿が脳裏にこびりついて忘れられない。

「なんだろう…仕事の事かな。それとも男の事かな…。実は名無し、ああ見えて好きな奴がいるとか?うわ…だとしたらすっげー気になるんだけど。どうしよう?」

親指の爪をカリ、と軽く噛み、司馬昭が苛立ち混じりの声で呟く。

兄の司馬師が常に冷静で理論的に物事を進めていくタイプだとすると、弟の司馬昭は半ば動物的とも言える程に勘が良くて、直感的なセンスで物事を進めていくタイプだ。

名無し本人に直接聞いた訳ではないので事の真相は分からないが、それでも司馬昭が男の事か?≠ニ思うのであればその読みはあながち間違ってはいないだろうな、と司馬師は思った。

見るからに大雑把な性格で他人事など微塵も気にしていないように思える司馬昭だが、なかなかどうして優れた観察眼の持ち主である事を身内である司馬師はよく知っていた。

こういう面での司馬昭の勘は、非常によく当たるのだ。

「……昭がそう言うなら当たっているかもしれんな。お前、妙な所で勘が鋭いから」
「うげげっ。兄上、それマジでーっ!?」

さらりと返された兄の回答に、司馬昭が目に見えてショックな顔をする。

すると弟のその落胆ぶりの意味を察した司馬師は、野生の豹のように鋭い目を細めながら言う。

「なんだその反応は。まさかとは思うが…昭、惚れているのではあるまいな?あの女に」
「ああ、はいはいそうです…って、突然何言い出すんですか兄上!直球だなー!」

普段通りの軽妙な口調で華麗なノリ突っ込みを返しつつも、司馬昭の瞳には確かな動揺の色が滲む。

その僅かな変化も逃さず、鋭い目線でじとーっと射るように見つめてくる兄の眼光にもはや逃げられぬと感じてか、司馬昭は頭を掻きながらしぶしぶといった様子で続きの言葉を述べる。

「んんん…難しい質問ですね。名無しの事を女として好きか嫌いか、なんてそこまで真面目に考えてみた事はないんですけど……」

物事を真剣に考えるのが苦手なのか、司馬師の問いを受けた司馬昭の口元は普段通りに笑っていても、太い眉の下で彼の両目は明らかに困惑の様子を示している。

「うーん…なんつーか、名無しって小動物っぽくて可愛くないですか?白くて、フワフワして、触ると気持ちよさそうで。俺を見かけた時に『子上!』って笑顔で駆け寄ってくる姿がこう、犬っころが尻尾ブンブン振って走ってくるみたいで面白いっていうか、ついウズウズして余計なちょっかいかけたくなるっていいますか…。ま、そんなところが名無しに対する俺の本音なんですけど」

隠し事が下手で、顔に出る戸惑いや照れの感情は全て本心からのものであると、兄の目から見ても一目で分かるくらいに率直な司馬昭の回答。

よく言えば豪快で飾り気のない体育会系の兄貴肌、悪く言えば単純で分かりやすいタイプの熱血男子の司馬昭は、見れば見る程に自分との違いを司馬師に感じさせる。

(同じ父親の血を引く同じ司馬一族の兄弟だというのに、何故私と昭はここまでタイプが違うのだろうな)

そんな事を今更ながらに感じ、司馬師はしげしげと見慣れた司馬昭の顔を見る。

「……で、名無しがわざと困るようなことをすると、『どうしてそんな事ばっかりするの!?』ってフツーに文句言われるじゃないですか。俺、名無しに怒られんのすげー好きなんですよ。名無しが今にも泣きそうな顔してプリプリ怒ってくんのがもう見てて楽しいのなんのって」
「……は?」
「ついでに言うと、わざといやがらせした時に名無しが『もう!子上ったらっ!!』とか言いつつグーパンチしてくるのがめちゃくちゃ楽しいんですよ。あいつ、必死で俺の胸板ボコボコ叩いてきますけど、悪いけど俺、胸筋とかすげー鍛えてんじゃん?可哀相な事に全然痛くも痒くもねーのって。虎に向かって子猫が必死こいて猫パンチ繰り出してる構図みたいでその無謀具合が可愛いじゃないっすか。ハハッ」
「女に殴られるのが楽しいだと……?それは聞き捨てならん。誇り高き司馬一族の男にあるまじき発言だな。昭、聞きたくないが、お前はマゾか?」
「んー、どうでしょう!ひょっとして普段は俺様でも好きな子にはマゾになっちゃうってやつ?兄上がそう言うなら確かにそんな一面もあるのかもしれませんねー。多分俺、結婚とかしたら意外と女房の尻に敷かれるタイプかも。ハハハ!!」

予想もしていなかった弟の発言にげんなりと眉をひそめる司馬師とは対照的に、当の司馬昭自身と言えばいつも通りの軽いノリ。

ダメだこいつ。有り得ない!!

司馬家の男としてマゾ要素、ましてや女の尻に敷かれるなんて絶対にあってはならない素質。

早くこいつをなんとかしないと…と司馬師が内心漠然とした危機感を抱いていると、ここにきて突然フッと弟の顔付きが変わり、普段のチャラチャラとした軽薄さが次第に消えていく。


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