異次元 | ナノ


異次元 
【月下美人】
 




(あいつ、今後もし同じ発言をしたら俺が直々に狩ってやるぜ)

名無しを変な目で見るだけじゃなく、可愛い弟分の正則にまで余計な事を吹き込むんじゃねえよ。

正則は単純だから、自分が一目置いている相手からそんな事言われたら素直に信じちまうだろ、ホント。

清正は不機嫌そうに目元を歪め、チッと短く舌打ちすると、イライラが募っているせいか今までよりも早足で帰路を急ぐ。

清正が足を進める度に、月下美人の甘い香りが彼をその場に引きとどめようとするかの如く彼の体中にまとわりついてきたが、清正は極力香りを嗅がないようにと口で息をしながら移動を続けた。

長い廊下を黙々と歩いていると、清正の目が見覚えのある部屋を視界に捉えた。

丁度今し方考えていた名無しの部屋だ。

夜遅くだからもうとっくに寝ているものだと思ったが、意外な事に彼女の部屋からはボウッ…と行灯の灯火が廊下へと漏れ出ていて、部屋の主がまだ起きている事を告げていた。

普通の女官なら寝ている時間だろうが、なにせあの名無しの事だ。

普段から沢山の仕事を抱えている彼女であるから、深夜まで働いているのだろうか。

(……今会いに行っても大丈夫だろうか)

名無しがどうやら起きているらしいという事に気付いた清正は、ある考えを持った。

別に名無しの仕事を邪魔するつもりはないが、先程の事もある。

周りの男には気を付けろ。

特に同僚武将の奴ら。

左近とか宗茂とか正則に二人っきりで食事に誘われたり口説かれても絶対についていくなよ。

詳しい事情を話すのは面倒臭いので適当にはしょっておくが、その三点だけは名無しに言い聞かせておきたいと思った。

出来ればこんな夜更けではなく昼間に話をしたいのだが、明日になったらすっかり忘れてしまって名無しに言いそびれてしまうという可能性もある。

「……とりあえず声だけかけてみるか」

もし名無しが今日はもう遅いから明日にして欲しいとか、無理だと言われれば諦めるまでだ。

夜中に女性の部屋にズカズカと踏み込むのはさすがにアレだが、外から声をかけるくらいならいいだろう。

1分もしない内に判断した清正はそうと決まればとばかりに歩みを早め、スタスタと名無しの部屋に向かって足を進めていく。

常に即断即決。それが清正のいい所だ。

ピタリ。

名無しの部屋の真ん前に辿り着いた清正は、そこで一旦足を止めた。

障子越しに部屋の中を見てみると、どうやら戸の向こうにぼんやりと人型らしきシルエットが見える。

やはり名無しはまだ起きていて、室内で何か作業をしているのだろうか。

「名無し。俺だ。清正だ」

強いアルコールの影響で若干掠れた清正の声が、夜の廊下に響く。

「こんな夜遅くにすまん。たまたまお前の部屋の前を通りがかったんだが、出来れば今夜のうちに2、3点お前に伝えておきたい事がある。それだけ話したら長居はせずすぐに帰るつもりだが、今話せるか?」

家族に語りかける時のように親しみに満ちた声音で、清正が用件を話す。

しかし、待っていても名無しの返事は聞こえてこない。

誰もいないか寝ているなら仕方ないが、確かにこの瞬間も灯りはついている。

そして中に人がいるのも確実だと思うのに、一向に返事がないのはどういう訳だ。

無愛想な人間なら話は別だが、名無しは他人の呼びかけを無視するような女じゃない。

「……名無し?」

不思議に思った清正が再度名無しの名前を呼んでみると、中でガタン、と小さな音がした。

やっぱり、誰かが中にいる。

そう思ってもう一度清正が声をかけようと口を開いた瞬間、部屋の中から奇異な『音』が聞こえてきた。

「名無し、清正がそこまで来ているそうだ。……どうする?」
「!!」

己の耳に届いた音の正体を瞬時に悟った清正の両目が、驚きと同時に大きく見開かれる。

(三成!?)

この声、この話し方、このトーン。

聞き間違えるはずがない。


自分の問いに答えたのは、毎日のように自分と口喧嘩をしている因縁の相手────石田三成だ。


(はあ〜!?なんでこいつが…)

なんでこんな時間に、嫌いな奴が、よりによって名無しの部屋にいるのか。

即座に事情が理解出来ず、清正の口元が不快感で『へ』の字に歪む。

普通に考えたらこんな夜更けに男と女が二人っきりでいるなんて由々しき事態だろ、と思った清正だが、いつもコンビを組んで一緒に仕事をしている名無しと三成であれば、日によっては残業等で深夜まで一緒にいてもそこまでおかしい事ではないのかもしれない。

現に自分もちょっとした用事で名無しの部屋を訪ねている訳だし、二人っきりだから即どうこうというのも過剰反応……かも。

「名無し。……三成がそこにいるのか?二人ともまだ仕事中だったのか?」

そう思い、幾分冷静さを取り戻した清正は今の状況を確認しようと名無しに尋ねる。

しかし、耳をすませて清正が室内の音を集めようとしても、清正の問いに対する名無しの答えもなければ、三成の問いに対する彼女の返事もない。

「どうした?名無し。清正が何度も呼んでいるじゃないか。答えてやらないと失礼だろう。首を振るだけじゃ分からん。清正を呼んでいいのか、ダメなのか?」

一向に名無しの声が聞こえてこない中、彼女の代わりに聞こえてくるのはクスクスと笑い混じりに答える楽しそうな三成の声。

その声のトーンがなんだか嘲笑気味なものに思えて、自分がバカにされているように思えて、腹が立った清正はカッとなって名無しの部屋へと続く戸に手をかける。


「名無しっ。いるんだろ!?入るぜ!!」


ガラガラッ。


ピシャン!!


勢い良く一気に戸を開き、同じだけの勢いで後ろ手に戸を閉めた清正の目に、室内にいた人物の姿が飛び込む。


「三……」


広い名無しの部屋の中、布団の上で悠然とこちらを向いて座っている三成の顔を見付け、清正が口を開きかける。

だが次の瞬間、清正の全身は硬直し、それ以上何も音を発する事が出来なくなった。


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