異次元 | ナノ


異次元 
【月下美人】
 




あの後、失恋の痛手でハイになっているのか妙にテンションの高かった正則に付き合わされて日本酒を浴びるように飲んだ清正は、何本瓶を空けたのか全然覚えていない。

元々酒豪が多い豊臣の男性武将陣の例に漏れず、清正自身も普通の男性に比べてみれば相当酒が強い部類に入るのだが、そんな彼ですら帰路につこうと立ち上がった時にグラリと大きな目眩を感じる程に今日の飲み会は凄かった。

自分の部屋に戻るだけなら本当はもっと近道があったのだが、夜風に当たった方が多少は意識がはっきりするのではないかと思った清正は城内の中庭を通って帰るルートを選択した。

昼間の暑さもさることながら、深夜になっても一向に涼しくなる気配がない真夏の息苦しさに比べてみれば、さすがに9月も半ばを過ぎると秋の風になるようだ。

足を一歩進める毎に冷たくひんやりとした夜風が清正の頬を撫で、火照った体に心地良い。

(明日も朝早くから仕事があるし、次の日まで持ち越すときついな。今晩中にきれいさっぱり酒が抜けるといいのだが)

何時起きだったっけ…、などど思いながら清正が廊下を歩いていると、彼の鼻腔をふわりと甘い香りがかすめた。

匂いのする方に視線を向けてみると、月光を受けて暗闇の中にぼんやりと光る白い塊がいくつか彼の視界に映し出される。

その香りと白い発光体の正体は、中庭に植えてある月下美人の群だった。

(……そうか。もう夜だから咲き始めたのか)

豊臣城の中庭に月下美人が植えられる事になったのは、ねねや名無しといった女性武将陣の提案だった。

もともと中庭には城の者達だけでなく他国から客人を迎えた時に彼らの目を楽しませるためにと様々な種類の植物が植えてあり、次は何を植えようという話になった時にねね達の口から挙がったのはこの月下美人の花だった。

『だってどうせなら珍しい花を植えた方がいいだろう?百合の花みたいに白くてキレイで、貴重品で、その上いい匂いまでするなんて最高じゃないか!』

……とウキウキ気分で張り切ってそう告げたねねの提案に名無しや他の女官達も同意し、彼女達のたっての希望で中庭のある一角に月下美人が招かれた。

純白の花嫁のような可憐で美しい花を咲かせるその容姿もさることながら、なんでもこの月下美人という花には他の花には見られない変わった特徴があるようだった。

まず、夜にしか咲かない。

そして咲き始めてから翌朝までのたった一晩でしぼみ、その間に他家受粉が起きなければ散ってしまう。

香りが強い。

一般的には一年に一度しか咲かないと思われていること。

正確には6月〜11月の時期に株の体力が十分に回復すれば一度開花してから2〜3ヶ月後にもう一度花咲く事が出来るのだが、それでも最大で年に2回ほどしか咲かない為、開花する姿を見られるのはとても貴重な機会であること。

そういった特殊性がより一層ねねや名無しのような女性陣の心をくすぐり、魅力的な物として彼女達の目に映っているのだろう。

(女は本当に変わった物とか綺麗な物、いい匂いのする物とかが好きだよな)

夜の帳が降りた黒い世界の中、妖精達が灯す魔法の明かりのように白い花を咲かせる月下美人達の幻想的な群れをぼんやりと眺め、清正が眩しそうに目を細める。

(でも、俺────正直こういう甘ったるい匂いは好きじゃないんだ)

花の匂い、果物の匂い、化粧の匂い、香水の匂い。

世の中の全ての女がそうだとは言わないが、大抵の女が『いい香り』のする物が好きだと知識としては知っていても、清正はあまりこうした物に心も関心も惹かれない。

(なんて言うか、慣れないんだ。人工的な香りもそうだし、自然の香りでも)

豊臣軍が他国に誇る優秀な戦士である清正のような人間にとって、彼の五感を鈍らせる要素はあまり好ましいものではなかった。

一流の殺し屋は敵に自分の気配を悟られない為、現場にいた証拠を残さない為に常日頃から体臭から何まで完全に自分の匂いを消していると言われるが、清正にとっての日常もまたそれと似たようなもの。

鬱蒼と茂る草むらやジャングルの中、獲物を狩る為に身を潜めている獅子や虎にとって人工的な香水の匂い、そして強すぎる花の芳香が嗅覚を鈍らせ狩りの邪魔になるのと同じで、清正もまたこうした香りを鬱陶しく感じるきらいがあった。

(こんなに強い匂いの中、敵がもしその辺に潜んでいたら気付くのが遅れるだろ)

決して植物自体が嫌いなのではない。この花の見た目も本心から美しいと思う。

でも、この何とも言えず甘ったるい香りが苦手だ。くちなしとか、沈丁花とか、金木犀とか…。なんというか、苦手なのだ。

でも、自分以外の人間はみんなしてそういった草花を好み、この庭園を愛でている。

そんな風に思うのは、ひょっとしてこの豊臣の城内で自分だけなのだろうか。

(みんなこの匂いが好きなのか?)

ここに立ちこめている匂い、お前ら本当に平気なのか?

月下美人の花が咲く季節になると、いつもここを通ると鼻の一番奥の粘膜が刺激されてムズムズして、俺は気分が悪くなってしまうというのに。

(……そう言えば、今朝会った時の名無しも月下美人みたいに真っ白な衣装を着ていたな)

たまたま目の前で咲く花の色と名無しが着ていた服の色が同じだった事を思い出し、清正は花の姿に重ね合わせるようにして彼女の姿を投影する。


『一発抜きてえ女だぜ』
『まさに男を狂わせる魔性の壺ってやつだろうね、あれは』


……左近の野郎〜。


(名無しのこと、好き放題言いやがって)


正則に聞いた話が蘇り、清正の中で言葉にならない負の感情がフツフツと再燃する。

さっきも宗茂に言った通り、自分にとって名無しは家族同然に大切な女友達だ。

そんな相手を同僚から『ヤリたい』なんて言われると、自分の身内を男友達に慰み者にされたような、ダブルの意味で激しい怒りを感じる。


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