異次元 | ナノ


異次元 
【堂々巡り】
 




「熱はないみたいだね。良かった」

心底安心したように述べる名無しの微笑みに、司馬昭は胸の奥がキュッと締め付けられるような感覚を抱く。

体調不良の人間を前にした名無しは普段以上に優しい。いつもならこちらが距離を詰めれば何だかんだで逃げようとする癖に、こういう時にはまるで我が身の事のように親身に寄り添ってくれる。

その親切心に甘えたくなる反面、何も知らぬ顔で手を差し伸べてくる名無しに憤りを覚える時もある。

彼女が自分へ向ける感情は友愛でしかないと分かっていながらも、それに満足出来ない己がいる事を自覚しているからだ。

「季節の変わり目だからかな。最近は朝と夜で気温差が結構あるし、疲れも溜まっているのかもしれないね。子上、喉は乾いていない?もし良かったらお茶でも淹れようか」

名無しが腰を上げようとするのを、司馬昭は慌てて制止した。

「いいよ。そこまでしてもらう義理はないから」
「そう?」
「そう。分かったら、さっさと俺の部屋から出て行ってくれって!」

つい口調が荒くなってしまう。駄目だ、落ち着け、と司馬昭は自分に言い聞かせるが、焦りと苛立ちでうまく自分を制御できない。そしてそれが余計に男を苛立たせた。

これ以上名無しがここにいるのはまずい。いや、本当は居て欲しいけど。側に居て欲しいけど。だけど、本当にこれ以上は駄目だって……!

「……そっ、か」

司馬昭の必死の形相に、名無しは何かを察したように表情を曇らせる。

ああ、まただ。またやっちまった。

俺はいつもこいつを悲しませてばかりだ。何で俺って奴はこうなんだろう。

「ごめんなさい、子上。迷惑だったよね」

さっきまでは明るい笑みを見せてくれていた名無しの瞳が、みるみる内に悲しみの色に染まっていく。

───やっとここまで彼女との関係が回復できたところだったのに。

先日あった飲み会の夜、結果的には名無しを暴漢から守ったことで、また以前のように名無しが自分に対して笑顔を向けてくれることが多くなった。彼女の信頼も、徐々にだが回復しているように思えた。

このままいけば、もしかしたら以前のような関係に戻れるかもしれない。そう思うと嬉しくてたまらなかったし、そうなればいいと本気で思っていたのに、どうしてこうなってしまうのか。

「ち…、違うんだって。そうじゃない」

司馬昭は慌てて弁解しようとするが、既に手遅れだ。名無しは沈痛な面持ちで視線を床に落としている。

「ごめんね。私、気が利かなくて……。そうだよね。体調不良でお休みしている人のところに、長居するのはいけないよね」
「いや、だから、違うって」
「そんなこと分かっているのに、子上のことになるとつい心配になっちゃうみたい。余計なお節介をして」
「名無し、俺は」
「本当にごめんなさい。じゃあ私、もう行きます」
「違う!待───」

明らかに落ち込んだ顔と声で謝罪する名無しを目に留めた司馬昭は慌てて否定したものの、彼女は既に立ち上がり、扉の方へ向かおうとしている。このまま帰したら絶対にまずいと直感的に思った男は、ほとんど反射的にその腕を掴んでいた。

「えっ?」

突然腕を引かれた名無しが、驚いた様子で振り返る。その瞳が不安げに揺れているのに気付き、司馬昭は後悔した。

「あ……、いや……」

またしても、感情のままに動いてしまった己の有様に愕然とする。

百歩譲って、咄嗟に掴んでみたまでは良いとしても、この先どうするかなんて全く考えていなかった。困惑した面持ちでその場に立ち尽くす名無しの疑念を払拭する為に、どうにか誤魔化さなくては。

「その……なんだ。資料、ありがと。わざわざ届けてくれてさ」
「そんなの、全然大したことないよ。子上、ゆっくり休んでね」
「あ、いや、いいんだよ。どうせ暇だったし。そうだ、話し相手!話し相手が欲しかったんだよ。だから……いてくれて、嬉しかった」

何を言っているんだ俺は。あまりにもベタベタすぎる。

もう少しいい台詞はなかったのか、と司馬昭は自分で自分にツッコミを入れる。だがその言葉が功を奏したのか、名無しはホッとしたように笑みを零す。

「そう?それなら、良かった」

その瞬間、名無しの体はするりと司馬昭の手から逃れ、再び男に背を向けて扉の方へ足を進めた。

どうやら司馬昭の告げた内容は単なるお礼と彼女への気遣いであると受け止めたようで、これ以上の滞在は遠慮してやはり帰ることにしたらしい。

「待ってくれ、名無し」

すかさずもう一度名無しの腕を捕らえ、慌てた声で名前を呼ぶ。男は今度こそ彼女の腕を離さなかった。

「どうしたの?」

子上が何をしたいのか分からない。

そう顔に書かれた不思議そうな眼差しでまじまじと見つめられ、司馬昭の心臓が激しく脈打つ。

「いや、その……。本音はもう少し、居て欲しいというか」

言ってしまってから多少の羞恥を覚えるが、もう遅い。

予想外の回答だったのか、名無しは一瞬驚いたように目を丸くした。しかし、すぐに温かい眼差しで男を見返し、にっこりと微笑む。

「分かりました。子上がそれを望むなら」

名無しは司馬昭の側に歩み寄り椅子に腰かけた。それを見て男はホッと胸を撫で下ろす。

───子上がそれを望むなら=B

そういえば、これは彼女の口癖なのだろうか。名無しと二人でいる時に、今までに何度も司馬昭はこの台詞を彼女の口から聞いたことがあるような気がする。

自分の望みを優先させるのではなく、なるべく相手の望みを聞き届け、自分に出来る事であれば率先して行動する。思えば彼女のような人間には相応しい言葉のようにも思えるし、そういう生き方が名無しの性格を形作っているのかもしれない。

けれども、この台詞を耳にする度に司馬昭は複雑な気持ちになってしまう。

司馬昭が望むなら、名無しは何でも受け入れるという意味なのだろうか。

男にとって都合の良い解釈をすればそうなるが、果たして本当にそうなのか。

この言葉が適用されるのは、一体どこまでの範囲なのだろうか。名無しの本心はどこにあるのか。

「子上?」

再び黙り込んでしまった司馬昭の様子に疑問を抱いたらしく、名無しが男の顔をそっと覗き込む。その距離の近さにドキリとした。

罪悪感、だろうか。

現実世界での凶行に加え、それだけでは満足せずに夢の中でまでひたすら彼女の肉体を貪り、蹂躙し、食い散らかした。

夢の中では恋人設定ではあったが、そんなものは現実の名無しには何の関係もない。

己の中に潜む凶暴な獣欲を思い返すたびに、司馬昭は激しい自己嫌悪に陥る。

(……それだけ好きなんだと、思う、けどさ……)

俺は、こいつのことを。

司馬昭は、名無しに抱く感情を言葉にしようとしてやめた。

それを本気で言ってしまったら、この関係が壊れてしまうような気がしたからだ。自分がどれだけ彼女のことを想っているか、知って欲しい気持ちと、知られたくない気持ちが入り混じる。

過去にも数回それっぽい言葉を口にした記憶があるが、何度告げても名無しの反応は思わしくなかった。おそらくただの冗談、体のいい嘘としか思われていないのだろう。

「何でもない。それより、もう少しここに居てくれるんだろ?」
「うん」

嬉しそうに頷いてくれる彼女の姿に、自然と胸が温かくなるのを感じた。

何も用事がないのに、名無しがここに居てくれる。この空間で、自分というただ一人の男だけのために、その存在を捧げてくれる。

今だけ、この時だけでいいから、このまま時間が止まってしまえばいいと男は思った。


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