異次元 【吸血王】 もし、そんな目に遭ってしまったら。 例え親しい友人関係だとしても、司馬昭に真実を知られるのが怖い。それに賈充がそんなことをしたと知ったら、司馬昭はどう思うだろうか。 賈充の悪行を司馬昭に訴え、彼の心を傷つけたくはない。司馬昭を苦しめたくない。そう思うと、司馬昭の事を大切に思っていればいるほど、余計に己の身に降りかかった悲劇を名無しは周囲に話せない。 そして彼の親友に汚された自分のような人間は、司馬昭の傍にいるには相応しくないと考え、何も言わずに離れていく。 仕事上二度と会わないというのは困難だとしても、極力彼を自分から遠ざけ、なるべく他人として接しようとするだろう。賈充の思い通りに。 「お、お願い……。賈充……もう、やめ……」 名無しは涙を溢れさせ、眼前の男に必死に懇願した。これ以上こんな辱めを受けるのは耐えられないし、何より賈充の企みに利用され、抵抗できないまま彼の魔手に嵌り込んでいくことが怖かった。 「お願い……お願いします……っ。もうこれ以上は……」 「そうはいかん。俺としても、お前にこの話を聞かせてしまった以上、今更後には引けんからな」 「……!言いま、せん……。このことは、決して誰にも言いません!だから、もう……っ」 言い募る声は、情けないほどにか細い。はらはらと涙を流す名無しを賈充は冷酷な瞳で見下ろす。 「女の言葉を容易く信用するほど俺は甘くはない。とはいえ……そうだな。お前が実際に子上とは何もない、あくまでもただの同僚だというのが真実であると仮定した場合、この手を血に染めるまでもなく、あえて危険度の高い賭けに出る必要はない。逆にこれを苦にして長期間仕事を休職されたり、自殺でもされたら流石に周囲もお前に何かあったと気付くだろう。それも面倒だ。どうするか……」 笑みもなく答えた男が、己の体の下に組み敷いた女を捕食者の目付きでじっと舐め回す。その眼差しの冷たさに、名無しの背筋がゾゾッと凍り付く。 何が最善の策なのだ。この場合。 名無しを司馬昭から遠ざけつつ、その口を封じ、周囲を黙らせ、同時に名無しの思考を支配し、今後も自分の思い通りに操るには。 そんな都合のいい方法などあるわけがない。そう考えた矢先、賈充の脳裏に閃くものがあった。 「……となればやはり、排除ではなく籠絡して虜にするのが最適解か?」 籠絡。虜。 その言葉の意味を理解するのに、名無しは数秒を要した。 「そ、それは……」 つまり賈充は単に名無しを犯すのではなく、名無しを自分に惚れさせ、彼女の愛情を自分に向けさせることで、身も心も支配しようと考えている。 名無しの回答が自分の予想していた物と違ったと分かれば、より安全策を求めるためにリスクの高い排除ではなく名無しを誑し込んで心を懐柔し、それによって司馬昭から引き離し、尚且つこの行為を合意の上≠ノ変えさせる。それが彼の狙いだとでもいうのか? 「……っ、い、いや……」 ───狂っている。 そんな発想が平気で浮かぶ賈充という男も。そして自分の縁談、もしくは娘の婚儀の為ならこんな非道な真似が平気で行えるという一部の貴族連中たちも。 みんなみんな、狂っている。冗談ではない。そのように気狂いじみた理由で犯されてたまるものか。 そう叫びたかったが、喉の奥から声が出てこない。痺れ薬のせいだけではなく、恐怖で身がすくみ、悲鳴すら上げられない状況に陥っている。 そんな名無しの表情を上から眺める賈充が、哀れな獲物を嬲る獣のように目を眇めた。 「心配するな。そこまで手荒なことはせん。俺はこう見えて、閨事では優しい男でな」 嘘だ。絶対に嘘。どう見ても弱った小動物をいたぶってから喉笛に食らいつく肉食獣、もしくは邪悪なサディストにしか見えない。 「すぐにでも他の男のことなど忘れさせてやろう。お前が自分から俺を求めて止まなくなるくらい……な」 男の薄い唇の端から、赤い舌先がチロリと覗く。その仕草に、名無しの全身の肌が粟立つ。 ああ、これが原罪だというのか。 アダムとイブが悪辣で邪悪な意思を持つ蛇に唆され、神に背いて禁断の木の実を食べてしまったという、人類最初の罪。 名無しの両腕を拘束し、彼女を押し倒しているこの男はその蛇の化身。男性にしては青白く色素が薄い肌に、夜の闇を思わせる黒い髪。そして蛇神のように鋭く、かつ宝石のように美しい青い双眸が罠にかかった女を貫く。 蛇に睨まれた蛙。それが今の状況を表すに相応しい言葉だ、と名無しは思った。 「……いや…ぁ…。やめて……」 恐怖に怯える名無しが震える声で哀願しても、男はうっすらと笑うだけで行為をやめようとはしない。むしろそれは逆効果だと名無しに思い知らせるが如く、彼女の手首を拘束する力が強くなる。 「いい子だから、大人しくしていろ」 吐息と共に、耳元へ吹き込まれる囁き。 同僚として接している時の声とは全然違う、欲望と色香を孕んだ声音。普段の賈充からは想像もつかない、艶っぽい雰囲気に名無しの動揺が増す。 こんな男は知らない。いや、出来る事なら一生知りたくはなかった、こんなこと。 賈充とはずっとずっと、気の置けない友人同士であり、気心の知れた同僚として仲良くやっていけるかもしれないとほのかな期待を抱いていたというのに、まさかこんなことになるなんて。 「名無し……そんなに怯えるな」 先刻までの嗜虐的な態度とは打って変わり、まるで慰めるような手つきで名無しの髪を撫で、喉をなぞり、頬に口付けを落とす。 賈充は自分を虜にすると言った。だから、この行為には打算的な意味しか含まれていないはずだ。名無しの体を思いやり、優しいフリをしているだけ。 ……それなのに。 こんな風に優しい声で名前を呼ばれ、慈しむような仕草で瞼にそっと口付けを与えられると、本当にこの男が自分を想ってくれているように錯覚してしまう。 あまりにも多大な緊張と不安と衝撃で、とうとう自分の頭もおかしくなってしまったのだろうか。 「…っ、や、ぁ…っ」 ちゅ、と啄むように首筋に口付けられると、名無しの口からは甘い吐息が漏れた。それは紛れもなく艶っぽい響きで、自分で発したとは思えないほどに淫靡な声だ。 羞恥心が込み上げ慌てて唇を噛むも、既に手遅れだったようで、目の前の男に笑われてしまう。 「くく……。随分と可愛い声を出すんだな」 「ち、違……っ」 「最近は毎日のように顔を合わせていた仲だろう。見知らぬ男相手でもあるまいし、何をそんなに恥じらっている?」 からかうように言いながら、賈充は彼女の耳たぶをぺろりと舐め上げた。 「ひ……っ」 食べられる。頭から丸ごと一思いに飲み込まれてしまう。本心からそう思った。 本能的な恐怖心に囚われ、名無しは咄嗟に目を瞑って身を縮こまらせるが、人喰い鬼は獲物を喰らう代わりに彼女の耳朶を唇でやんわりとくわえたり、舌先でチロチロと耳の穴をくすぐったりする。 「あ……ぁ、んっ……」 唾液で湿った男の舌が耳の中で動く毎に、体の内側がゾクゾクした。あたかも蛇の牙から注ぎ込まれた毒が全身に回るかのように、体の芯から力が抜けていく。 「あっ…あっ…。や、ぁ……っ、は、ん……」 耳元で聞こえる、ぴちゃぴちゃといういやらしい水音。舌の生暖かい感触。それから男の温かい吐息が耳の中に吹きかけられる度に、名無し本人の意思とは関係なく、甘えた声が零れ出る。 [TOP] ×
|