異次元 【吸血王】 「ごめんなさい、なんでもありません。何だか嬉しくなっちゃっただけ」 「……は?」 「賈充のそんな顔を見られたの、初めてなんだもの」 「そんな顔ってなんだ」 「ちょっと困ったような、拗ねたような顔。だって、賈充は何でも完璧にこなしちゃうでしょう?いつも余裕があって、涼し気で、少し意地悪で……。だから、そんな風に感情を顔に出してくれるのがとっても嬉しい」 「……。」 「賈充と親しくなれたような気がして……嬉しかった。私、今凄く幸せだなあって……」 名無しがそういってはにかむと、男の目付きがまた変わった気がした。揺れる双眸へと、暖かな蝋燭の灯りが反射する。 (あ…、賈充の目って、青いんだ…) 青味がかったグレーの瞳かと思っていたが、こうして近くで見てみると思ったよりも青色が強い。サファイアほどの濃い青ではなく、ブルートパーズのように淡い青だ。 (綺麗……) 宝石のように美しい、澄んだ海のような色。名無しは男の瞳に目を奪われた。卓を挟んだ距離とはいえ、こんなにも長い時間彼を見つめたのは、初めてのことだったからかもしれない。 「よく分からんな。お前の考えていることは」 「どうして?」 「俺の噂は聞いているだろう。俺は子上の影だ。人には言えないような汚い仕事も進んで引き受けている。必要とあれば容易く嘘も重ねるし、人を陥れることだってある。子上のためならば、誰であろうと利用するぞ」 珍しく、男は自らの胸の内を吐露し始めた。事務的な、業務連絡でもしているかのように冷静な声色で。 その真摯な眼差しに名無しは言葉を飲み込む。男が言っていることは、疑うまでもない真実だ。さりとて、彼がそうする理由もよく分かる。 賈充は司馬師と司馬昭を守りたい一心で行動している。その決意と覚悟は並大抵のものではないはずだ。 だからこそ名無しは彼のことを頭ごなしに『悪人だ』と非難したくはないし、自分に出来ることがあれば手を貸したい、何かしたいという願いを以前からずっと秘めていた。少しでも彼の役に立てる可能性があるならどんなにいいかと思うのに。 「……知っています」 名無しは頷く。司馬昭の影でありたいと望む彼の気持ちに寄り添うように、静かに目を伏せて。 「それでも、私は賈充が好きだよ」 胸の奥から、言葉が溢れる。 「自分にとって大切な存在を守るために、いつも頑張っていて……それでいて決して表には出ようとせず、誰からの賛美も理解も一切求めない、徹底して黒子に徹する貴方が」 穏やかな声でそう補足した名無しの独白に、賈充は微かに眉を上げた。 大切な物のために手を汚す───それは即ち必要悪≠担わなければならないということ。その罪も罰も、一身に背負うということ。 他人に何と言われようが、どんな目で見られようが賈充は自ら望んでその道を選んだのだ。それだけの重い決断をした人間を、誰が責められよう。 「私みたいな人間に出来ることなんて、たかが知れていると思うけど。それでも、賈充が疲れた時とか、辛い時に話を聞くことくらいは出来る気がして……。些細な物でしかないけど、賈充が子上に望むように、私も貴方の力になりたい」 やっと言えた。ずっと前から思っていた本心を。 きっとこんなもの、彼のような男性にとっては無用でしかない、ちっぽけな言葉だと思うけど。 「……。」 男は無言で瞬きを繰り返す。気怠げな瞳は普段通り冷たくて無表情で、何を考えているのか分からない。 けれども、その内面では何か変化が起きているように感じられた。静かな海が、ほんの少しだけ波打っているような感覚。 「その言葉は、お前の本心か」 「もちろん」 「子上ではなく、俺のために何かしたいと……本気で、そう願っているのか」 「はい。私に出来ることがあれば、何でも」 迷いのない回答に、男は瞼を伏せた。長い睫毛が影を落とす様に心を奪われる。 「何でも、か」 確かめるように反復する男の瞳に、見た事のない感情の色が滲む。 「では───言葉通り、俺の望むがままになってみるか?」 突然、男の纏う空気が変化した。それまでよりずっと強く濃く感じるのは、その眼差しのせいだろうか。 見つめるだけで人が殺せそうなほど鋭いその眼光に射抜かれて、ギリシャ神話に登場する怪物・メドゥーサに睨まれた獲物のように名無しの肉体が石化する。 (……!?) 身動きが取れない。比喩ではなく、本気で。金縛りにあったみたいに、身体が動かないのだ。 カタン、と名無しの手から滑り落ちた箸が床に落ちる。男は緩やかに立ち上がり、名無しに近付いてきた。 「俺のためならば、何でもすると……そう言ったな」 まるで蛇のように絡みつく声と視線に絡め取られ、全身が硬直する。手足には一気に鳥肌が立ち、寒気にも似た何かが背筋を這う。 怖い、と反射的に思った。知り合いの男性が別人のような顔付きと声に変わり、体も思うように動かなくなってしまったのだ。怖いに決まっている。 「い、言ったけど……。でも、その……」 これは、なんだ。 奇妙な脱力感と強い倦怠感を覚えるが、それでもなんとか唇は動かせる。 言葉を発しようと口を開くも、男の手が顎を強く掴み上げたせいでその先は続けられなかった。痛みに顔をしかめる名無しを見て冷笑する男が恐ろしくて、全身の震えが止まらない。 「ようやく効いてきたようだな。警戒心の薄いお前でも、流石に体がそのようになれば危機感も芽生えるか」 「賈、充…、なに…を…」 「お前が飲んだ酒には遅効性の痺れ薬を仕込んでおいた。その料理にも、だがな」 「く、す、り……」 そんな馬鹿な。何故そんなことが出来るのだ、と名無しは反論しようと思った。 名無しは賈充と卓を挟む形で彼の正面に座っていた。店員が運んできた酒は直接彼女の目の前に置かれたし、料理だってそうだ。男は一度も名無しの杯や食器には触れていないし、何かを混入させる隙など一切なかったはず。 そんな彼女の思考を先読みするように、男は語る。 「言っただろう。ここは俺が良く利用する店で、人目を気にせず好きなことが出来る場所だと」 「!!」 「この店の人間は、費用を払えば客側の大抵の要望に応える『裏の店』だ。女の注文した分の酒と食事だけにこの薬物を混ぜて欲しい。そう頼めば、事は済む。酒だけでも十分だったが、食事にも混ぜたのは単なる保険だ」 そんな、馬鹿な。 その言葉で全てを理解した名無しは言葉を失う。つまり、この店に来た時点で自分にはもはや成す術などなく、こうなることは既に決定事項だったということを。 そして、もう一つの残酷な事実を彼女はまざまざと突き付けられることになる。 名無しから離れた賈充は何を思ったのか、個室の入り口とは反対側の襖の方に歩いて行った。そして、音もなく襖を開くと、そこに隠されていた物を名無しの目に見せつける。 「……!」 それ≠ェ視界に飛び込んできた途端、名無しは愕然とした。 男が開け放った襖の奥には、別の部屋が存在していた。そこにあったのは、大人が優に二人は横になれるサイズの布団と二つの枕。 それらが何を意味するのか、分からないほど名無しは子供ではなかった。 [TOP] ×
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