異次元 | ナノ


異次元 
【吸血王】
 




「変わった名前のお酒だね。どんな味なんだろう…」
「酒の種類が多すぎて迷うなら、俺が選んでやる。載っているのは大体飲んだことがあるからな」
「本当?じゃあ、お願いしてもいいかな?」
「そうだな。名無しなら<百花香>がいいだろう。杏露酒や桂花陳酒に似た果実酒で女に人気があるし、香りが華やかで口当たりもいい」

傍に控えていた店員に声をかけ、賈充は手際よく注文を済ませる。

そんな姿も様になっているなあと名無しは感心し、その様子をただ見守っていた。迷いなく品物を選ぶところといい、先程の台詞といい、店の常連なのだろうか。

「……注文は以上だ。何か用事があれば呼ぶが───それ以外は一切構うな。二人にしてくれ」
「かしこまりました」

店員は笑顔で了承すると、一礼して部屋から退室した。

城下町の表通りから少し離れた場所。看板が出ていない。店内は思ったよりも広く、個室がメインで作られている。内装も豪華であり、ただ食事を楽しむだけであれば金額的にも少々お高めに感じる格式の高さ。

以上のことから想像するに、ここはいわゆる『お忍びの店』なのではないか、と名無しは思った。一般市民や普通の文官や兵士達は入れない、完全に一見さんお断りの、高級官僚や政治家、芸能人、組織の重役クラスといった人間達が利用する店。

それならば、秘密を重視する賈充がここに自分を招待したのも納得できる。

「賈充、こんなお店を知っていたんだね。私、全然知らなかった」
「そうか。まあ城内でも知る者は限られているがな。隠れ家的な雰囲気がいいだろう。俺は仕事でもよく利用する」
「ああ、やっぱり…。そんな感じじゃないのかなって思ったの」
「ここは店員の教育が行き届いている。客の名前は決して外部に漏らさないし、店内で何が起こったのかは当事者同士にしか分からない……。密談に適した場所と言える」

賈充はそう言うと、名無しに向かって意味深な視線を寄越した。暗い光に満ちたその瞳に見つめられると、まるで吸い込まれそうな錯覚に陥る。

「つまり、人目を気にせず好きなことが出来るし、生ぬるい話だけではなく際どい話も出来るというわけだ。誰にも邪魔されない二人きりの空間で、じっくりと話し合おうではないか」
「……っ」

今、このほんのりと薄暗くてムードのある個室で、賈充とただ二人きり。それだけで、この上なく鼓動が早くなる。

話す内容など最初から分かりきっている。自分は賈充の縁談話の相談に乗るためにここに来たのだ。

それなのにこうして改めて言われると、何だか妙な緊張が走り、とても落ち着かない気持ちになる。

「どうした名無し。まだ酒も飲んでいないというのに、随分と顔が赤いようだが」

賈充は余裕たっぷりの笑みを浮かべながらこちらの顔を覗き込んでくる。先程の台詞には、何の意味もないのだろうか。それとも今の表情も含め、全て分かってやっているのだろうか。

「そ、それは賈充が……」

言いかけて、途中で言葉を飲み込む。何を言ってもからかわれるような気がして。こんな状態ではまともに会話など出来やしない。

そんなやり取りを何度か続けているうちに、襖の向こう側から失礼します≠ニいう店員の呼びかけが聞こえてきた。注文した料理と酒が運ばれてきたようだ。

「お待たせいたしました」

店員が運んできた品物はどれも食欲をそそる香りがして、見た目にも華やかだった。特に野菜の盛り合わせが彩り豊かで美味しそうだ。

「それではごゆっくりどうぞ」

店員が去ってまた二人きりになると、ますます緊張してきてしまう。

美味しそうな料理ばかりなのに、実際に食べるとなるとなかなか手が進まない。何しろ目の前に座っている賈充が気になって仕方がないのだ。

彼が何かを飲んだり食べたりする度に、喉仏が上下する様子に目を奪われてしまう。そんな視線に気付いているのかいないのか、賈充は先程からこちらをじっと見つめている。

冷徹な、それでいてどこか物憂げな眼差し。

耐えられず視点をずらすと、今度は彼が酒杯に口を付ける際、唇を舐める舌の動きが妙に艶めかしく感じられてしまい、一層落ち着かなくなる。

「飲まないのか?料理も冷めるぞ」
「……う、うん……」

促されるまま名無しも自分の酒杯に手を伸ばす。確かにせっかくの料理を温かい内に食べないのはもったいない。

賈充が選んでくれた酒を口に含んでみると、今まで飲んだどの酒とも違う、独特の風味が広がった。甘味が強いが、くどくはない。口にした瞬間にほのかな花の香りが鼻孔を擽る。

「あ、美味しい」

思わず感想が口を突いて出た。次に賈充おすすめの<翡翠蟹>と<豚腿包>をそれぞれ一口ずつ食べてみる。

「これも美味しい……!」

どちらも肉と野菜が絶妙に合わさっており、素材の味を活かした味付けはシンプルだが、だからこそ飽きのこない美味しさだった。特に蟹料理にとろりとかかっている餡掛けの味がたまらない。夢中で頬張る名無しを見て、賈充が満足げに微笑む。

「気に入ったようだな」
「この蟹料理、本当に美味しいね!こんなの初めて……」
「ふ…、口に合ったなら何よりだ。一応、この店の名物だと聞いている」
「素敵なお店を紹介してくれて本当にありがとう、賈充」
「礼には及ばない。お前に喜んでもらえるなら、それでいい」

流暢な口調で告げて、賈充は自らの酒杯を傾ける。やはり絵になる男だと、つい視線を奪われる。

彼が酒を飲み干すまでの一連の動作を目で追いながら、名無しは当初の目的を思い出す。

「そういえば、賈充。縁談のお話なんだけど……」
「ああ。詳細はそこに置いてある」

賈充が顎で指し示した方を見ると、そこには大きめの封筒が置かれていた。これが例の縁談に関する資料等ということか。

「中を見ても大丈夫?」

まだ食事の途中ではあるが、あまりにも料理とお酒が美味しいので、このままではどんどん飲酒も食事も進んでしまう。

すっかり酔ってしまって頭が働かなくなる前に、大事な用事を済ませておいた方がいいだろう。

そう考えた名無しが男に尋ねると、賈充は無言で封筒を掴み、器用に卓の上を滑らせて名無しの方へ移動させた。それを慎重に受け取り、中に入っていた書類を一枚ずつ取り出して目を通していく。

「わっ…。す、すごい」

中に入っていた資料の厚みに、自然と声が漏れた。一つや二つではない。件数にすると20近くあるだろうか。

賈充は身分の高い男性で、結婚適齢期の年齢ではあるのだが、だからといってこれほどの縁談が舞い込む男性の数は貴族達の間でも少数だと思う。

これらを全て断っているというのなら、賈充が言っていた『相手の両親がしつこい』というのはどの女性なのか。それとも、全部がそれに該当するのか。これほどの人数相手では、上手く断ろうにも先が思いやられる。

「こんなに沢山来ているなんて。賈充って、モテモテ大魔神だね」
「なんだそれは。誉め言葉と受け取っていいのか?」
「うん、もちろん」

名無しが頷くと、賈充は嫌そうな表情を見せた。彼が仕える司馬昭ではないが、顔にはきっぱりと面倒くせ≠ニ書いてある。

「確かにこれだけお申し込みがあったら、断るのも大変だよね」
「ふん。望まぬ縁談の申し込みなど、ただの面倒な手続きでしかない」

今までに何人の人間から告白されただの、モテてモテて困っちゃうだのと自慢げに語る人間も中にはいるが、司馬師や司馬昭といい、鍾会といい、名無しの身近に存在するモテ男達の反応は大概このようなものだ。


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