異次元 | ナノ


異次元 
【吸血王】
 




正直、今までは賈充に嫌われているのではないかと思っていた。自分を見つめる男の目には、常に冷たさが宿っていたから。

それでも最近はそれが少し和らいだような気がするし、単に仕事上の付き合いだけではなく、時折鍛錬や食堂への同行を持ち掛けてくることもある。そして何より、賈充と過ごす時間はとても楽しいものだった。

賈充は決して冷たい男などではない。むしろ、話してみると意外と話しやすいし、冗談だって言う。

(私は、ずっと賈充のことを誤解していたのかもしれない)

心の中でそう詫びながら、名無しは自分が正しいと思った行動を取るために動き出す。

───それが自分の為にも彼の為にもなると信じて。




(多分この辺りだと思うけど……。思ったより早めに仕事が片付いて良かった!)

残っていた業務を全て片付け、手早く着替えを済ませた名無しは、時間を見計らって約束の場所へと急ぐ。

賈充の言いつけ通り、体のラインをゆったりと包み込むような衣装と、顔を隠す為の布を被っているので、遠目からでは顔立ちや体形が判断し辛く、すぐさま名無しとは気付かないだろう。

賈充が渡してくれた地図は、シンプルながらに要所毎の目印を押さえていて分かりやすかった。こういう部分にも、空間認識能力や地理把握に優れた彼の能力が発揮されているような気がする。

地図によると、城下町の大通りに面した店という訳ではなく、路地を入ったところにひっそりと店を構えているらしい。名無しは何度も図面を確かめながら、大通りから外れた裏路地へと足を踏み入れた。

薄暗い路地を、きょろきょろと辺りを見渡しながら歩く。この辺りは普段滅多に通らない道なので、土地勘が全くない。

賑やかな大通りとは一転、ほんの数本奥の道に入っただけでそこは別世界だ。人通りもまばらで、見た事もないような商品を扱っている露店や、怪しげな壺を売る商人もいる。

これぞ裏路地、という風情に圧倒されながら歩いていると、ぽつぽつと飲食店や酒屋、宿屋などが軒を連ねる一角へと出た。ふんわりと漂う料理の匂いや酒の匂い、そして賑やかな客引きの声が食欲をそそる。

(……!あった……、ひょっとしてここかな?)

少し入り組んだ道を進んだところに、ようやくこれだと思われる店を見つけることが出来た。建物は大きすぎず、かといって個人商店ほどの小ささでもなく、落ち着いた雰囲気の佇まいで、軒先には小さな提灯が掲げられている。

不思議なことに、店の顔とも言える看板らしきものが見当たらない。場所的にはここで間違っていないと思うのだが、本当に大丈夫なのか少々不安を抱く。

名無しは意を決して、そっと店の扉を開けた。

「いらっしゃいませ」

店内に入ると、店員の女性が出迎えてくれた。表看板がないことにも多少の戸惑いを感じたが、いざ店内に足を踏み入れて内装を目にした名無しはさらに驚く。外装から予想していた内容以上に高級感のある造りで、とても裏通りにある居酒屋とは思えない。

黒をテーマ色とした店内には周囲を照らすには十分な量の、かといってうるさすぎない程度の灯りが設置されており、全体の雰囲気と相まってどこかミステリアスな雰囲気が漂っている。

受付に貼られている見取り図によると、カウンターは一切なく、個室がメインの作りになっているようだ。

裏道にこんな雰囲気のいいお店があるなど、全然知らなかった。仕事柄、様々な人間と打ち合わせをこなす賈充だからこそ知り得た店なのかもしれないが、城下町のお店には多少詳しいと思っていた自分などまだまだなのだと痛感する。

「あの、私、賈充殿にお招きいただいた者なのですが……」

そう伝えると、店員はにっこりと微笑んで『お待ちしておりました』と頭を下げる。良かった、このお店で合っていたのだと安堵した。

「賈充様のご予約ですね、承っております。どうぞこちらに」

賈充から直接伝言を受けているのか、それとも客の情報は完全に暗記しているとでもいうのか、店員は予約台帳を確認することもなく丁重に奥の部屋へと案内してくれた。

通された部屋の襖には見事な鳳凰の絵が描かれており、それがまた高級感を演出している。ちょっぴり緊張しながら中に向かって一応声をかけ、襖を開けて覗いてみると、室内には既に賈充が座っていた。

「早かったな」

そう言って名無しを出迎えた彼は、いつもの軍事服ではなく上品な私服に身を包んでいる。

黒地に銀糸で繊細な刺繍が施してある衣装は賈充の黒髪や白い肌によく映えて、軍事服と同様、留め具に使用された水色が効果的なアクセントとなり洗練された印象を醸し出していた。

思えば、こうして賈充の平服姿を見るのはこれが初めてだ。普段見慣れている軍装姿も非常によく似合っているが、こういったプライベートでの装いもまた違った魅力を感じて、思わず見入ってしまう。

「どうかしたのか」

なかなか部屋に入ってこない名無しを不審に思ったのか、賈充が怪訝な表情になる。慌てて『いいえ、何でも』と口にしながら入室する。

いけない、いけない。つい見惚れてしまった。賈充の相談に乗るためにも、今はきちんと冷静になって彼の話を聞かなければ。

「賈充、もう来ていたんだね。ごめんなさい、もしかして待たせちゃった?」
「いや、俺も少し前に着いたばかりだ。約束した時刻までまだ十分余裕はあるし、謝る必要はない」
「本当?ならいいんだけど……。結構早めに城を出たつもりだったのに、もう賈充が来ていたから遅れたのかと思って心配しちゃった」
「誘った方が早く店に着くのは社会人としての礼儀だろう。それより、座れ」

元より賈充は時間に正確な男性だと知っていたが、業務時間外でもそれを徹底しているところは流石である。賈充に促されるまま、彼と向かい合う形で座布団の上に正座すると、店員がおしぼりとお冷を持ってやって来た。

「さて、何を頼む?」

賈充が、お品書きを広げてこちらに差し出す。料理名や値段と共におすすめの酒なども書かれていたので、目を通してみる。

ざっと見る限り、どうやらここは創作料理店のようだ。創作と謳っているだけあって、聞いたことのない品名がずらりと並んでいる。

「値段は気にするな。呼んだのは俺だ、好きなものを頼め」
「そんな…!大丈夫だよ賈充。お給料が出たばかりだし、私もちゃんとお金を持ってきているから…」
「気にするなと言っただろう。こういう場で女に払わせるほど俺は野暮じゃない。遠慮は不要だ」
「い、いいの…?賈充、ありがとう」

同じ職場で働く関係だというのにそういう訳にもいかないが、彼がそこまで言うなら今日だけは甘えさせてもらおう。名無しはしばし考えた後、男に助言を求めた。

「どれも気になる物ばかりだけど、初めて来たお店だからちょっと迷っちゃう。賈充のおすすめの一品ってある?」
「この店は創作料理が売りだが、俺が今一番気に入っているのは<翡翠蟹>だな。あとは<豚腿包>か」
「そうなんだ。賈充のお気に入りなら、きっと美味しそうだね。出来たら、お野菜も少し欲しいなあ」
「ではこの二つと、副菜に野菜を幾つか頼もう。酒はどうする?お前が飲まなくても俺は飲むが」
「そうだね、賈充が飲むなら私も少し頂こうかな。せっかくだし」

そう思ってメニューの『酒類』の項目に目を通すが、こちらも珍しい名前ばかりがずらずらと並んでいて、どれがどんなお酒なのかよく分からない。


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