異次元 | ナノ


異次元 
【吸血王】
 




賈充という男性は、魏の名臣・賈逵の子であり、我が国の武将であると同時に有能な政治家でもある。

司馬師や司馬昭の腹心として活躍する彼は内政に係わる事案を主に担当しているそうだが、とにかく頭が良く智謀に長けており、表向きの業務だけではなく、いわゆる『裏』の業務にも深く携わっている。

司馬兄弟を光とするならば、賈充は闇。光あるところには常に影があるように、司馬家に害を及ぼす存在や厄介事を秘密裏に処理する役割を担うのが、彼だ。

そんな賈充が内密に≠ニいうことは、即ち司馬師や司馬昭に知られてはならない極秘事項の報告、あるいは内通者を探ろうとしているか、あるいは秘密裏に誰かを排除しようとしているか……。

いずれにせよ、何やらきな臭い気配がする案件だ。この誘いを受ければ、自分もそんな裏の世界に関わることになるかもしれない。

「くく……お前の想像していることを、当ててやろうか」
「!」
「陰謀、画策、引き抜き、暗殺。二人で話がしたいと聞けば、十中八九そういった類のことを想像しただろう。何か怪しい思惑があるとしか考えられない、とな」
「……そ、それは……」

ずばりと言い当てられてしまい、名無しはバツの悪そうな表情を見せた。

薄笑いを浮かべたままじっとこちらを見据える賈充に何と答えてよいのか反応に困り、ただ押し黙るしかない名無しの様子を興味深そうに眺め、男はふっと息を漏らす。

「だが、それはお前の誤解だ」
「……。」
「俺は別に、妙なことを企んでいるわけではない。縁談の件でお前に相談がある」
「……誰の?」
「俺だが」

賈充の口から、至極あっさりと返ってきた回答。縁談!?賈充に!?

「えええっ!?賈充、結婚するの!?」

驚きすぎて大声を出してしまった。だってそんな話、聞いたことがない。

いや、もしかしたら自分は知らなかっただけで司馬昭や司馬師には話を通してあるのかもしれないし、これが初めてというわけではないのかもしれないが……とにかく初耳だ。

「そんなに驚くようなことか。成人した男であれば本人の意思とは関係なく湧いて出る話だろう」
「別におかしくはないんだけど……」

意外だったのと、まさか賈充がそんな話を自分に持ち掛けてくるとは思っていなかったからで。それをそのまま説明すると、賈充は煩わし気に目を眇める。

「正確にはまだ候補だがな。先日きっぱりと断ったはずだが、相手側の両親がすこぶるしつこい」
「それは…、うーん…大変だね…」
「この世に男など腐るほどいるだろうに、なぜ俺如きに執着するのか理解に苦しむ。断られたなら断られたで、さっさと別の男を探せばいいものを」

この口ぶりから察するに、どうやら賈充は縁談を前向きには考えていないようだ。だが先方の気持ちを想像して、名無しはこっそり納得する。

(賈充はそう言うけど……。賈充みたいに優秀な出世頭で、これだけカッコいい男性ならぜひともうちの娘に!ってなるよね)

この若さで要職に上り詰め、将来有望。更には彼ほどの美丈夫ともなれば、周囲は放っておかない。

その上、賈充は司馬師や司馬昭の腹心でもある。そんな男に自分の娘を嫁がせるということは、当然、司馬家にも繋がりを持つことが出来て、まさに一石二鳥。それはすなわち権力の拡大に直結するということでもある。

どこに出しても恥ずかしくない、名実ともに自慢の婿。これを逃す手はない、と思うのは親として当然だろう。

「そういう事情もあって俺の機嫌は非常に悪い。このままだと仕事にまで支障をきたす恐れがある」
「なるほど…。ええと、それで、私に相談っていうのは…?」
「相手側の顔を立てつつ、俺に興味を失うような都合のいい展開を考えろ。早急にな」
「そ、それはまた、難しいことをおっしゃる…!」
「ふん、狸め。話は聞いているぞ。お前も俺と考えは同じだろうが。自分の元に来る縁談話を全てのらりくらりと躱しているそうだな」
「うっ……、それはまあ、そうですけど」

図星を突かれ、名無しは気まずそうに視線を逸らす。誰から聞いたのかは知らないが、賈充にまでその情報が伝わっているらしい。

「だったら知恵を貸せ。このままでは俺の貴重な時間が無駄になる」
「でも、上手い事縁談を断っているのは子元や子上も一緒だよね?それに賈充は子上の親友なんだから、私なんかに尋ねるよりも、子上に相談した方が……」
「あの能天気かつ他人のことにはどこまでも無責任な男に下手に相談を持ちかけてみろ。断りまくっている己の行いをよそに、『おー、いいじゃん賈充!お前の力なら第五夫人くらいまで軽く養えそうだし、処女だろうがバツイチだろうがジャンジャン受けてやれよ!』などと言って、逆に俺を煽りかねない」
「……あー……」

確かに……。

その場面が容易に想像できてしまい、名無しは苦笑いするしかなかった。司馬昭ならそれくらいのことを言いそうだ。賈充に来た縁談話を面白がり、嬉々として酒の肴にでもするだろう。

「そっか。言われてみれば、子上って確かにそういうところがあるかもね」
「あるどころの話ではない。この俺ですらあいつの思い付きと気まぐれには未だに毎日振り回されている」
「ふふっ、そうは言っても二人は凄く仲良しでしょう?子上も賈充といると楽しそうだし。男同士の友情って、素敵だよね」
「まあ、腐れ縁だからな。そういった部分もあるが」

溜息混じりに、賈充がぼやく。

「そんなこともあって、特に子上辺りに知られると絶対に面倒なことになる。だからこそ内密に、と告げたわけだ」

ああ、そういうことか。ここにきてようやく賈充の言いたいことが名無しにも分かってきた。

考えてみれば、賈充には以前書庫で危ないところを助けてもらった恩義がある。

賈充の求めるような妙案を出せるかどうかは自信がないが、こんな自分でも何か彼の役に立てることがあるのだとすれば、是非とも力になりたい。

「分かりました。賈充の期待に応えられるかどうかは分からないけど、私でよければ」

にっこりと微笑み、名無しは快く了承した。

だったら、なるべく残業しなくて済むように手早く仕事を終わらせなければ。あれこれ考えながら本日の予定を脳内で組み立てる名無しの前に、賈充が一枚の小さな紙を差し出す。

「では今夜20時にこの店に来い。俺の名前で席を取っておく」

賈充から手渡された紙切れには、店名と簡素な地図が描かれていた。

所在地から考えるに、おそらく城下町にある食事処か居酒屋の地図だろう。仕事上の付き合い等でそれなりに城下町の飲食店には詳しくなったと思っていたものの、全く知らない店名だった。迷わずに辿り着けるだろうか。

「先程も言ったように、この件は他言無用だ。お前と俺が業務外の時間に二人で会っている事自体知られるのが面倒なので、誰にも気付かれないように変装でもして来い。俺もそうする。いいな?」
「分かりました」

現地集合、現地解散。

面倒事を避けるためなら、出来るだけ周囲に知られないように行動するべきだ、という賈充の主張はもっともなので、名無しは素直に頷く。

この時間帯ならばおそらく仕事も終わっていると思うし、服を着替える余裕もあるはずだ。

丁度兵士たちの交代の時間にも重なるので、上手くいけば誰にも見咎められずに抜け出すことが出来るだろう。

この一月半の間に、以前と比べて大分賈充とは親しくなれた気がする。

司馬師や司馬昭がいなくても、たまに賈充の方からふらりと名無しの元に現れては短い話をするようになっていた。それは、時には他愛もない世間話や仕事の愚痴。あるいは司馬昭の失敗談。あるいは、先日城下町で見つけた美味い店の話。

司馬昭達を交えて会話をする時とはまた違った彼の一面が垣間見え、彼との距離が少し近くなった気がして嬉しかった。


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