異次元 | ナノ


異次元 
【吸血王】
 




女など、どいつもこいつも似たようなものだ。

どうせ殿に対する忠誠心も、仕事に対する情熱も、子上への信頼も、上辺だけの見せかけに過ぎん。

殿に仕え、この城で文官として働き始めたのも、子上達と親しくなったのも、他者に対して親しげに振る舞うのも、全ては打算。他の多くの女達と同様、条件のいい男を捕まえてさっさと退職し、生活の安定を得る為だと相場が決まっている。

ならば司馬懿か司馬師、もしくは司馬昭の愛人希望者か?とも賈充は思ったが、彼女が司馬の男を見る時の眼差しは、親愛の情に満ちてはいるがそれだけだ。

数多くの貴族娘や女官達がほんのりと頬を紅潮させ、熱の籠もった瞳で彼らを見つめる中、名無しの眼差しにはそういった媚びる色がない。要するに、異性愛ではない。

彼女と司馬昭が一緒にいる現場に遭遇しても情事を匂わせる雰囲気は全く感じられず、また彼女自身もそういった誘いに乗るような素振りはない。

その上、名無しは司馬師や司馬昭だけと特別親しいというわけではなく、鍾会や夏侯覇といった他の男武将とも同じくらいに親密な空気を作り出しており、彼女の中で彼は特別≠ニいう存在は一人も見受けられなかった。

と、いうことは、司馬昭との関係もまた、純粋に『父親の同僚』としての関係に過ぎないのか。

(───となれば、次に危惧するべきはこの女の性質か)

道端の雑草の如く無害な女なら多少は目こぼしもしてやるが。

善良なだけで何の毒にも薬にもならないばかりか、余計な正義感や倫理観を司馬師や司馬昭に植え付けて彼らの冷静な判断力を曇らせたり、この先に続く厳しくも険しい覇道を歩むにあたり、かえって害をなす存在となるような女ならさっさと消しておかなければ。

そんな風に彼らの関係性を注視していた賈充であったが、事態はある日一転した。

忘れもしない、あの夏の夜。深夜、見回りの番に当たっていた賈充は、中庭で一休みしようと足を運んだ。

その晩、何故か城内はひどく静まり返っており、不気味なくらいだった。夜道を歩いていると、まるでこの世界にたった一人で取り残されたかのような孤独感が襲ってくる。

かといって賈充は必要以上に他者と馴れ合い、群れる質ではない。むしろ、この静寂な夜の城内を一人きりで歩くのは気が楽ですらあった。

だからこうしていつも誰もいない深夜の中庭で気を休めているのだが……今夜は先客がいたようだ。

中庭の長椅子に、名無しが一人でポツンと座っていた。

いくらここが城の中でも、こんな深夜に女性が一人で出歩くのはさすがに危険だ。それに、夏の夜とはいえ夜はそれなりに冷える。彼女みたいな女性文官が、あのような薄着では風邪を引いてしまうだろう。

(ち……、面倒だな)

厄介事に巻き込まれるのは御免だが、見てしまった以上、このまま放っておくわけにもいかない。これがただの女官というなら放っておくが、相手は名無しだ。

司馬昭の父の同僚であり、司馬昭ともそれなりに親しくしている間柄の人間というのであれば、彼の家臣という自らの立場上、無碍にすることはできない。

舌打ちを零し、おい、と声をかけようとした直後、賈充は何者かの視線に気付いた。自分に向けられる視線ではなく、自分と同様、女に向けられる視線について。

そちらの方角にすぐさま目線を移すと、柱の陰からそっと名無しのいる長椅子の様子を窺う男の姿を認めた。

何者かと思い目を凝らした結果、予想もしていなかった人物の正体に、賈充はあと少しで『なっ……!』と声を上げそうになる。

(子上……、こんなところで何を───……)

そこにいたのは、司馬昭だった。

どうやら彼は、自分とは逆に名無しに接近するつもりもなく、ただ黙って観察しているらしい。名無しに気付かれることのないように、慎重に彼女の様子を盗み見ている。

(なんだ、この違和感は)

賈充の中で、ざわりと胸騒ぎが起こる。

あの司馬昭の眼差しは、自分の知る男のものとは明らかに違う。

普段は気安く名無しに声をかけ、女性に対して明るく接し、人懐っこい笑顔を振り撒くあの青年と同一人物だとは思えない程に物憂げで、仄かな熱を孕んだ視線だった。

彼は長椅子に座る女をじっと見つめたまま動かない。声をかける機会を伺っているようにも思えるし、まるで獲物を狙う獣のように息を潜めて、女の動向を観察しているようにも見える。

暗がりの中、名無しは相変わらず無言のままで腰かけていた。

賈充のいる位置からは名無しの表情が良く見える。二人の男に目撃されているのに全く気付かない素振りで、大きな溜息を漏らし、地面をぼんやりと見つめている。

……泣き出す、のだろうか。

彼女の眼差しに浮かんでいるのは、深い悲しみや憂いの色だ。何かに追い詰められているような、心身共に何かに囚われているような、誰かに助けを求めるような、複雑で、何とも言えない悲痛な表情。

司馬昭の立ち位置は丁度名無しの背後に当たるが、彼女の後ろ姿を見るだけでもそんな感情が十分読み取れるのだろう。

賈充の視線の先で、司馬昭は今にも名無しにその逞しい両腕を伸ばし、『どうした?何があった?』と囁いて彼女を抱き締めそうな気配があった。

司馬昭は何か言いたげだった。でも言えない。近づくことも出来ない。おそらく、名無しの姿があまりにも儚く、迂闊に触れれば消えてしまうのではないかと思える程だったから。

賈充はそれまで抱いていた違和感の正体を知る。

(これは……子上の男としての顔か)

この日を境に、司馬昭が名無しを見る目付きが明らかに変わったような気がした。

名無しの前でチャラついた軽い雰囲気を漂わせているのは相変わらずだが、彼女と離れている時に向ける視線が、妙に艶めかしく、男っぽい。

名無しの些細な表情の変化も見逃さず、その一挙手一投足に心を配る司馬昭の姿は、同僚や仲間というより異性に対するそれに近く感じた。あくまでも、主観だが。

思えば、司馬昭は司馬懿の次男にしてはかなり甘い部分がある男だ。

普段仲がいいと思っていた相手の弱っている姿を目撃して、つい庇護本能をくすぐられた。男として何とかしてやりたい、力になってやりたいと思った。……実際には、そんな程度の平凡な感情かもしれない。

それだけといえばそれだけのことなのだが、この一件で賈充は名無しに対する警戒心を一気に高めた。

(あの女は、子上の周囲に漂うどうでもいい女達とは違う)

司馬昭の心の中に入り込み、兄の司馬師と共に教えられてきた帝王学や、目的を達成する為には手段を選ばない情け容赦のない戦略や戦術、あるいはそういった価値観というものを根底から覆すような───司馬昭が目指すものを根本から引っ繰り返しかねないような危険な女なのではないか。

それは司馬一族が覇権を握るためには全くもって余計なお節介で、司馬昭の将来に決してプラスにはならない。

あの女が今後も司馬昭の傍をうろつくのであれば、これまで以上に煩わしい事態になりそうだ。


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