異次元 | ナノ


異次元 
【吸血王】
 




「……名無し、か」
「名無しねえ……」

……えっ?

何やら意味深な口ぶりで呟く司馬師と司馬昭に、夏侯覇はぴくりと反応する。

「なんですか、その微妙な言い方」
「ん?いや、別に深い意味はないけどさ……。そういえば名無しは何か言ってたのか?お前のエロ本騒ぎに関して」
「それが、驚くほどに呆気なかったです」

名無しとの会話を振り返り、夏侯覇はハハッと笑う。

仕事を終えてこちらの部屋に向かう際、偶然名無しと顔を合わせた夏侯覇は、これ幸いとばかりに彼女を捕まえて先程の事件について愚痴をこぼした。

城内でこれだけの騒ぎになっている以上、そして自分を見る周囲の目付きからして身近な人間にも絶対にあらぬ誤解を受けちまっただろうなあ……と覚悟の上で焦りながら事情を説明し、頼むから誤解しないでくれ。俺のことを信じてくれ!と言い募る夏侯覇に対し、名無しの反応はと言えば完全に男の予想に反したものだった。

『ふふっ。知ってるよ、きっと子上がまた執務室をこっそり抜け出して夏侯覇の部屋でサボっていたんでしょう?』

そう簡単に言ってのけたのだ。夏侯覇が呆気に取られていると、名無しは尚もニコニコしながら頷き返す。

『夏侯覇がそんなことをするはずがないのにね。大変だったね、夏侯覇。皆に色んな事を言われちゃって……。他の人はどうかは分からないけど、私のことなら大丈夫。夏侯覇のことを、信じているから』

穏やかに微笑む名無しに、夏侯覇は驚きを隠せない。

てっきり自分は、そんな噂を耳にした名無しに罵られ詰られるか、あるいは下手したら軽蔑の眼差しを向けられるかもしれないと思っていたのだ。

……まさに先刻、自分を蔑みの目で見つめた楼礼のように。

それなのに、この反応。

疑心の欠片も抱かずに夏侯覇を信じ、それどころか全面的に味方になってくれた。心の中ではあれこれ思っているけれど、本人を目の前にしてとりあえず取り繕っているというような嘘っぽい気配もない。

こちらが拍子抜けするくらいにいつも通りの対応で、特に怒った様子も見せなければ、気まずそうに顔を背けるわけでもなく、ただ普通に笑顔で挨拶をしてくれたのだ。

(何だよ、それ……)

そこまで信用されているとは思っていなかったし、そんな彼女の気持ち自体はとても嬉しく感じる。けれども、こうもあっさり俺の人間性を信用するってどうなんだ。

「……そういう奴なんだよなあ」

あの時の名無しの温かい微笑みを思い浮かべ、夏侯覇は複雑な気持ちを抱く。

彼女は誰に対しても穏やかで優しいが、その一方で他人を疑わないというか、どこか抜けている部分がある。もう少し人を疑った方がいいんじゃねえの?と思わずにはいられない。

もうちょい警戒しろよ、名無し!そう憤りつつも、彼女の自分に対する信頼を目の当たりにすると夏侯覇は何も言えなくなるのだった。

「けどまあ、そんなあいつだからこそ、誰かが傍にいて守ってやらねえとって思う人間は多いんでしょうね。きっと」

椅子の背もたれに上体を持たれさせ、夏侯覇は小さく笑む。

ふと顔を上げ、再び他の者と目を合わせた瞬間、自分に向けられる二つの鋭い視線に気付き、夏侯覇は息を飲んだ。

「ふーん。誰か≠ェ傍にいて、ねえ?」

司馬昭が頬杖をつきながら、思わせぶりな視線を夏侯覇に向けていた。

その横では司馬師もまた夏侯覇と同様に椅子の背もたれに体を預け、こちらをじっと見つめている。

二人揃って、まるで隠し事を暴こうとする刑事か裁判官のような目付き。

「ちょっと、何すか。そんな目でこっち見ないでくださいよ。俺、何か変な事言いましたっけ?」

夏侯覇はたじろぎながら司馬昭と司馬師に抗議する。すると、司馬昭は大きく両腕を天井に向けて伸びをしながら、わざとらしく低めた声で男に告げる。

「べっつにぃ〜。良かったじゃん?あいつに誤解されずに済んで。貴重な味方がすぐ近くにいて何よりですねえ〜」

司馬昭は卓の上にだらしなく頬杖をついた姿勢に戻り、にやにやと夏侯覇を眺める。

その言葉はどこか皮肉めいて聞こえた。

その言い方は、まるで……。

「その名無しという女を、誰か≠ナはなく、お前が守ってやりたいのだろう?」
「!!」

突然降らされた賈充の独白に、夏侯覇は弾かれたように男の顔を見やる。

「……とでも言いたげな台詞だな、子上」
「まあ、私にもそう聞こえるが」

司馬師もまた、肘をついたままちらりと夏侯覇に視線を注ぐ。

「くく……。だ、そうだ。夏侯覇、どうなんだ?」
「なっ……!ち、違うって!そんなんじゃなくて、ただあいつが人を疑うことを知らない奴だから……!」

慌てて口を開く夏侯覇に、三名は『はいはい』とでも言いたげな顔で素っ気なく相槌を打つ。

「いやいやいや、何なんですか皆さん、その含みのある言い方。俺は別に、あいつに変な気なんてこれっぽっちもないですからね?司馬昭殿だって分かってんでしょ。俺とあいつは単なる友達同士なだけですよ」
「ま、そうなんだろうけどさ。でも夏侯覇が名無しのことを大切に思ってるのは事実だろ」
「そりゃそうでしょ。俺はあいつのことを性別を超えたマブダチだと思っていますもん。実際いい奴ですよ、あいつは」

司馬昭の厭味ったらしい態度にも全く動じることなく、夏侯覇はさらりと答える。

夏侯覇は快活そうな見た目の通り、ストレートな気質の男だ。裏表がない分、嘘をつくのが下手とも言えるが、どこまでも真摯な目付きで司馬師達を見返す男の口調からは彼の人柄の良さが滲み出ていた。

「なるほど、マブダチね。つまりは、仲良しこよしってことだよな?」
「当たり前でしょ!男とか女とか一切関係なく、あんないい奴、仲良くしようって思わない方がおかしいっすよ。一人の人間として」

司馬昭の連続攻撃にも夏侯覇は怯まない。

いきなりの突っ込みに多少動揺はした様子だが、男の表情からは特に嘘や誤魔化しをいっているようには思えない。おそらく、本心からそう思っているのだろう。

一癖も二癖もあるひねくれ者が多いとされるこの城の中で、夏侯覇の真っ直ぐな気性は貴重だ。それは賈充とて素直に認めている。

だが、それは裏を返せば愚直であるとも言える。どんな美点も裏返せば欠点となるものだ。

男として、また武将としての夏侯覇の力量は高く評価するに値するが、素直だったり優しい人間は時と場合によっては冷静な判断を欠き、情に絆されることも多い。

(信用は出来るが、手足として利用するには危惧する面が多く心許ない、か……)

賈充は盃を口元に近づけて、好青年然とした夏侯覇の顔を横目で眺める。

善人性。それは賈充にとって自分にはない美徳であり、同時に唾棄すべき欠陥とも言える。

動物園の檻の中に閉じ込められている珍獣を離れた位置から眺めて楽しむように、自分達の周りにいなければ別にそれでいい。けれども身内の中に、それも己が仕える司馬昭の身近にそういった輩がいるというのは考えものだ。

賈充は司馬昭に対し、厚い忠誠心を抱いている。

彼のことは友としても家臣としても心から信頼しているし、尊敬もしている。軽薄な男という表向きの仮面に隠されたその才覚と人の上に立つ者としての優れた資質に、敬意すら抱いている。

(だからこそ───俺はあの女にも警戒心を抱いている)

賈充は卓の上に盃を置くと、現在の話題の中心となっている名無しという女性の事に思いを馳せた。

『賈充、紹介するぜ。こいつは名無しっていうんだ。仲良くしてやってくれよな!』

いつもながらの軽い口調で司馬昭から彼女を紹介されたのは、一体いつの事だったか。

司馬昭に紹介された女と初対面の挨拶を交わした瞬間、賈充は彼女のことをすぐに要注意≠ニ判断した。

何がどう、という訳ではない。ただ直感でそう感じたのだ。


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