異次元 | ナノ


異次元 
【吸血王】
 




「子上、ここにいるんだろう」

その音に続いて発せられたのは、司馬昭が聞き慣れた男の声。

「げっ!その声は賈充だな?」

一気に血の気が引くような感覚を抱き、司馬昭は慌てて椅子から立ち上がる。彼が部屋の扉に辿り着くよりも早く、外から扉がガチャリと開かれて声の主が姿を現した。

「やはりここにいたか」

呆れたような表情を浮かべながら賈充はズカズカと部屋に踏み込み、司馬昭の傍まで歩み寄ると、彼の手元にある本に視線を落とす。

「またサボりか。こんな昼間から堂々と仕事もせず、いかがわしい本に熱心とはいい身分だな」
「人聞きの悪いこと言うなよ。別にサボってないし、俺はこう見えて結構忙しいんだぞ?今は休憩中なだけだって」
「くだらん言い訳は止めろ。お前はいつも口先だけで結局仕事をしないのだから、説得力に欠けるんだよ」
「全く、お前はいつもそうやって人の揚げ足を取りやがって……。っていうか、どうして俺がここにいるってお前に分かったんだよ?」
「お前を探していたら司馬昭様なら先程夏侯覇様のお部屋に入っていくのをお見掛けしました≠ニ語る兵士がいたのでな。来てみれば、案の定だった」
「あー、なるほどな。そういう訳か。城の中ってそういうところが面倒だよなあ。誰も見ていないようでいて、案外見られているもんだから」
「城の警備とはそういう物だ。特に子上は190pもある大男だからな。ウロウロしていると遠目でも目立つのだろう」
「悪かったな、大男で」

賈充の嫌味な言い方に、お前も十分デカいじゃねーかよ!と、司馬昭はムッとして唇を尖らせる。

「とはいえ、今回ばかりはそのおかげで助かったがな。とりあえず、楽しい読書は中断してさっさと戻るぞ。司馬師殿が愛弟をお待ちだ」
「うへぇ、兄上が〜?面倒な予感しかしねえ…」

司馬昭は露骨に嫌な顔をしながら、渋々と手に持っていたエロ本を机に置いてソファーから立ち上がる。

そのまま本を抱えて賈充と一緒に司馬師の元へ向かうつもりだったのだが、その場で10分ほど賈充と話し込んでいたこともあり、ついその存在を忘れて夏侯覇の部屋に置き去りの状態で司馬昭は賈充と共にその場を後にしてしまった。

それから30分ほどして夏侯覇の女官がやってきて、主の部屋を清掃しようとした矢先に司馬昭のエロ本に気付いたことで事態は急展開を迎えることになる。

「キャ────ッ!!!!」

エロ本を発見した女官は悲鳴を上げ、腰を抜かしてその場にへたり込む。

まだ年若く、生まれ育った村を出て城へ奉公に上がってから間もない彼女は、男性と手を繋いだことすらない清らかな身であった。

男女のキスやセックスなど想像の世界。白馬に乗った見目麗しく、清潔感溢れる王子様にうっとりと憧れるお年頃。

『あなたは私の運命の相手だ。お迎えに来ました、愛しの姫君』

などという、どこぞの少女漫画のような夢を見ていた彼女にとって、司馬昭のエロ本は刺激が強過ぎた。

彼女の視界に飛び込んできたのは、生々しい男の欲望の塊。

表紙に描かれた数人の美女の裸体。豊満な肉体を惜しみなく晒した煽情的なポーズを取っているだけではなく、何故かその股間には大きなブツがにょきっと生えており、女性だというのに下手すれば普通の男性以上に凶悪な大きさの代物が、本を手にした彼女に見せつけるようにそそり立っている。

「ひいっ…!!あ、あわわわわ……」

女は愕然とする。当然の反応だ。自分が想像していたような王子様とヒロインの甘い抱擁、ロマンチックな艶本とはあまりにもかけ離れていたのだから。

ショックの大きさに女官はバッタリと床に倒れ、そのまま気を失う。

すぐに騒ぎを聞きつけた他の女官や侍女が何事かと集まってきたことで室内は大混乱に陥り、さらに大騒ぎに拍車をかけることに。

『ねえ、お聞きになった?夏侯覇様のお部屋に、とんでもなく破廉恥な御本があったんですって』
『殿方だからそういった本の一冊や二冊、お持ちでも不思議ではないのでしょうけど……』
『それにしても、ふた、なり…に、けもみみ…ですって?私、初めて聞いたわ。それって一体どういうものかしら』
『私も知らないけれど、きっと殿方には大人気の趣向なのでしょうね』
『ええええ……。私はちょっと……そういうのは遠慮したいわね。殿方って皆あんな本がお好きだとしたら、やっぱり私達とは感覚が違うんだわ』
『そうよねえ。夏侯覇様って、もっと真面目で爽やかな方だと思ってたのに……』

女官達がひそひそと小声で話す。しかしながら、驚きと興奮のせいなのか、彼女達の声は次第に大きくなっていき、結局その場にいた全員に会話の内容が筒抜けとなる。

おかげで、ここだけの話よ∞誰にも言っちゃだめよ。実はね…≠ニいった女子特有の内緒話も全て筒抜け。かくして、夏侯覇の部屋にあったエロ本の存在は、あっという間に多くの人々に知れ渡ってしまったのだった。

それは勿論夏侯覇本人の耳にも入った次第で、全く身に覚えのない話を聞いた夏侯覇は即座に『俺じゃないって!』と全力で否定するが、時すでに遅し。

噂を耳にした司馬昭本人もさすがにまずいと思ったのか、自分が仕事をサボって夏侯覇の部屋に入り浸っていたこと、その夏侯覇の部屋に自分のエロ本を置いていったことを正直に周囲の人間に打ち明け、夏侯覇への疑惑を晴らすために彼なりに尽力してくれたのだが、一度広範囲に浸透してしまった噂を払拭するのは非常に困難なことである。

その結果、最初に夏侯覇が放った『俺、もう死にたい』という台詞に戻るというわけだ。

「いや、ほんとに悪いことをしたと思ってるよ。これはマジで。でも誓ってわざとじゃないんだぜ。それにほら、周囲の目がどうこうっていうんなら俺なんかもっとそうだろう?チャラ男だの、サボり魔だの、空気よりも軽い男だの、散々な言われようだからな。つまりお前は俺の仲間なんだよ!わかるか?いわば、お前と俺は同じ道を歩む同志ってわけさ。だからそう落ち込むなって」
「同じ道を歩む同志って……何だかカッコいい風に言っていますけど、それ完全に自虐じゃないですか……」

夏侯覇はげんなりした顔で司馬昭を見上げる。

司馬昭は夏侯覇を慰めるように明るい口調で話すが、当の夏侯覇にとっては自分の置かれている立場の不遇さを思い知らされただけだった。

城内において、もはや自分は司馬昭と同レベルの扱いなのだろうか。同性である男連中は

『なんだよ、司馬昭殿が置いて行った本だったのか!?マジ受ける!!』
『ま、細かいことは気にすんなよ』
『夏侯覇って女どもからは爽やか好青年って印象で大人気だったからな。そんなお前が俺たちみたいに汚らわしい目で見られたり、殿方って不潔!≠チて責められんのは悪いけど笑っちまうわ。むしろ同性としてめちゃくちゃ同情するし親近感湧いた。これから仲良くしようぜ!』

と腹を抱えて笑いながら、思い思いの慰め文句を夏侯覇に述べ、肩を叩いて励ましてくれる。そんな周りの反応が嬉しいやら悲しいやらで、夏侯覇は羞恥のあまりその場で死んでしまいたい衝動に駆られた。

「もういいです。怒ったところで今更どうしようもないですし、司馬昭殿なりに一生懸命俺の疑いを訂正しようと陰で頑張って下さっていることは俺の耳にも届いているんで。それに、別に俺は自分が司馬昭殿と同じレベルまで堕ちたとは思っていないですし」
「そう言って貰えて嬉しいよ。俺のせいでお前の評判まで微妙な具合になっちまったのは本気で申し訳ないと思っているけど、お前、サラッと後半結構な毒を吐いたな」
「そうですか?事実じゃないですか。まあ、司馬昭殿が真面目に仕事をすれば俺も誤解されずに済んだんですけどね。とりあえず今回の手打ちの条件として、俺の年棒を5倍にしてください」
「5倍って、それ下手すりゃ俺の年収以上じゃねえか。そんな無茶な要求が通るわけ……」
「大丈夫、司馬昭殿なら通せます。司馬昭殿が今まで真面目に仕事をしてこなかったせいで、今回のような事が起こったんですから。上司として、何よりも男として責任を取ってください」
「う……。お前、容赦ねえな……」

司馬昭は苦い顔をする。もうちょいまけて∞嫌です≠ニいうやり取りを飽きもせずに繰り返す両者を横目で眺めつつ、その場に同席していた司馬師と賈充は『また始まったか』と言いたげな表情で酒を飲む。


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