異次元 | ナノ


異次元 
【茨の檻】
 




『殺してやる』と即座に殺意を沸騰させられるほどの憎しみと聞いて名無しの頭に浮かぶのは、曹操に対する馬超の強烈な怨恨だった。

あれほどの強い思いを、今この瞬間、法正に対して抱けるというのだろうか?

今日法正に直接伝えたように、ほんの一時間ほど前までは彼の事が好きだった。一人の人間として、職場の同僚として尊敬していた。

こんな男のことなど大嫌いだ。

いっそ殺してやりたいと願うほど、法正のことを瞬時に憎めるのなら、これほど悩まずに済んだのに。

「あ…ん…っ。う…うぅ……!」

互いの唾液を交換し、飲み干すように男の喉仏が上下する度に、名無しの体からどんどん力が抜けていく。

(いけない……!)

名無しは快楽に涙を滲ませて、甘い鳴き声を上げながら、それでも彼の下から脱出しようと一生懸命身を捩る。

持てる力の全てを振り絞り、『やめてください』と言わんばかりに男の厚い胸板を何度も押し返すと、ようやく法正が顔を離す。

二人の唇を繋ぐ唾液の糸がツゥッ…と光り、法正は己の指でそれを拭う。

「……は…ぁ…、…ほう…せ、い、ど…の…」

もうすっかり体が溶けてしまって、思うように言葉が出せない。

呼吸すら満足に出来ない程に乱れてしまっている名無しとは対照的に、こんな時でも法正は普段と変わらない冷静な面持ちで名無しを見下ろしている。

「お願い、します…。こんなこと…もう…お許しください」
「……。」
「分かって、います…。法正殿のご迷惑を顧みず、余計な事をしてしまった非礼はお詫びします…」
「……。」
「も、もう…法正殿には近付きませんから…。法正殿が私をお嫌いだとしても、どうかご慈悲をお与えください…。お叱りは、受けます。法正殿のお望みのままに、どのような罵倒でもお受けします…」
「……。」
「ですが…、どうか、このまま辱められるくらいなら…いっそ法正殿の手で、私を───」

名無しの両目に、涙が溢れる。

己の愚かさがこの事態を招いたというにも関わらず、大切な同僚を殺せと言われるくらいなら、自分が殺される方がよっぽどいい。

「それが俺の暴行に対する、あなたの反論という訳ですか」
「……は、い……」
「本当に、それが精一杯の抗議のお言葉ですか?」

務めて落ちついた声で投げかけられる法正の問いに、名無しはコクリと頷く。

法正殿は、怒っている。だからこんなことをされるのだ。

そうでなければ、法正殿のように紳士的な男性がこんなひどい真似をするはずがない。

全部私が悪いから、こんな目に。

逞しい男の体に組み敷かれながら、名無しの心は自責の念と己に対する後悔と嫌悪で一杯だった。

我慢しようとしても堪え切れずに溢れ出る涙で目尻を滲ませ、悲壮感に満ちた声を絞る名無しの頬に、法正の手が近づいてくる。

───殴られる。

名無しはそう思い、ぎゅっと硬く目を閉じた。

しかし、いつまで経っても一向に暴力が与えられる事がなく、不安に思いつつも名無しは徐々に両目を開く。

怒りに染まった法正の顔があるはずだと思ったのに、彼女の視界に飛び込んできたのはまるで真逆の光景だった。

そこにあったのは、相変わらず完璧なまでに調和の取れた、端正な男の顔。

「…さすがに、予想外でした」
「…えっ」
「あなたは実に健気の一言に尽きる。いくら名無し殿が他人を傷つけることを好まない女性とはいえ、死ね、カス、とっとと私の前から消え失せろこのクズ野郎とか、てっきりそのような罵詈雑言を浴びせられるか、思い切り顔面を引っぱたかれるか、ぶん殴られるかといった報復くらいは覚悟の上でこの凶行に及んだのですが」

ゆっくりと、法正の美しい顔が迫ってくる。

名無しの間近で輝く、黒曜石に似た彼の双眸。

「好きでもない男にここまでされて。あなたはそれでも相手を殺すくらいなら、自らが消滅すると仰るのですか」

何故これほど、この女性は自分のような男を許そうとするのか。

これが、法正の事を心底好きで好きで仕方がないという女性が言うのならまだ分かる。

そうではないのに同じ状況に陥った際、名無し以外でここまで言えるのはおそらく法正が見てきた人間の中では劉備だけだ。

別に法正だから、仲間だから特別だという訳ではない。

劉備や彼女にとっては犬猫にでも簡単に与えられる類の愛であっても、それに魅入られ、惹かれたのは自分だ。

「ああ……。なんと優しいお咎めだ、それは」

溶けそうな声で、法正が呟く。

城の廊下で、執務室で、戦場で、今までに何度も男の顔を見ていたが、これほどまでに至近距離で法正と見つめ合う状況に陥ることはなかったので、名無しの腰がぶるりと震えた。

それだけではない。

こんな風に悩ましげで、男の情欲に濡れた淫靡な眼差しで、熱を宿す声音で法正にうっとりと囁かれるのもまた初めての経験だったから、名無しは見えない鎖でがんじがらめにされたような錯覚に陥った。

男らしくてカッコいい美男子はこの蜀軍の中に何人もいるが、法正の魅力は単純な『いい男』という言葉だけで言い表すには少々どころか多々不足している。

法正はいつもほのかに良い匂いがして、何の香料をつけているのだろうと気になっていたが、以前諸外国を旅している行商人に見せて貰った麝香の匂いに似ている、と名無しは思った。

一口にムスク系と言ってもその香りの種類は色々あるが、元々、ムスクは雄のジャコウジカから採れる動物性の香料で、オスがメスを引きつけるためのフェロモンの香りである。

そう。名無しが思い描く法正という美男子は、男の色気の象徴。まるでフェロモンの塊だ。

女性でも扱いやすく似合うように調合されたものや、日常使いしやすい清涼感のある石鹸のようだと評されるホワイトムスクもあるが、法正をイメージする香りはそれとは違う。

もっと柔らかく、それでいて濃厚で、力強さを感じさせる、重くて男っぽい香り。

ホワイトムスクへの反逆的な側面を強調するような、ダークムスクの香り。

「何やら誤解されているようですので、一つ訂正しておきますが」
「あ、あの…、法正殿…?」
「あなたは俺のような悪党を庇って下さる良き守護者であり、同時に俺の犠牲となる獲物です」

法正は涙目で男を仰ぐ名無しの顎を掴み、強引に視線を合わせる。

「ですから俺は名無し殿を辱めたいのではない。その身をたっぷり可愛がって、悦ばせて差し上げたい。要するに、心行くまで───味わいたいのです」
「……ん、んん───っ……!」

未だ唾液が乾かずにどろどろに濡れている名無しの唇に男の唇が重なり、隙間なく蓋をした。

数分前まで交わしていたキスも十分深いものだったが、名無しの口内で暴れ回る男の舌の動きはさらに激しさを増している。


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