異次元 | ナノ


異次元 
【熱視線】
 




せめて涙でぐしゃぐしゃになってしまった惨めな顔を宗茂に見られることだけは避けたい。

そう思い、彼から隠れるようにして両手で自分の顔を覆いながら涙に濡れていた名無しの頬に、ふわりと柔らかい何かが触れた。

そして次の瞬間、名無しの体は宗茂の逞しくて長い両腕に抱き寄せられ、包み込むようにしてしっかりと抱き締められる。

数秒前名無しの頬に触れたと思ったのは、名無しの顔に頬を寄せた宗茂の艶やかな髪の毛だった。


「───すまない……」


どう答えようか考える間もなく、宗茂の口からは勝手に名無しへの謝罪の言葉が零れ出た。

福島正則にからかわれるまでもなく、宗茂は女性にモテる男であった。

今名無しがしているようにして女性の側から告白され、涙を流され、宗茂様が好きです。どうか私と付き合って下さい。結婚して下さい≠ニ懇願されるのは日常茶飯事の事であった。

そんな女達の申し出に対し、相手を傷付けないように、それでいてきっぱりと断るのは宗茂にとっては慣れた事。

今までの人生、自分でも覚えていないくらいに数え切れないほどこなしてきた『行事』にしかすぎなかった。

だがこんな風にして名無しが頬を真っ赤に上気させ、今にも消えてしまいそうな声を必死で絞り、震える体を奮い立たせ、涙ながらに自分に告白している姿を間近で目にした直後、宗茂の中でも『何か』が弾けた。

彼自身でも上手く説明が出来ないくらい、不可解で強烈な感情に襲われた。

体の奥底から湧き上がるような熱い衝動に駆られた。

それが彼女に対する申し訳ない≠ニいう懺悔の気持ちなのか、彼女の思いに今まで微塵も気付かなかった事に対する自責の念なのか、それとも全く別な『何か』なのかは宗茂にも分からない。

けれども、あの名無しが泣いている。

いつも穏やかな笑みを浮かべていて、誰に対しても平等に接していて、周囲の人々に対しても細やかな心配りを忘れない名無しがこんな風にして子供のように泣いている。

自分が他の女性に取られてしまうという事実に、普段の彼女にはらしくない程に素直で感情的な一面を垣間見た瞬間、宗茂は咄嗟に名無しへと手を伸ばしていた。

その小さな体を抱き締めずにはいられなかった。

「君に対して……俺はなんと言葉をかけていいのか分からない。何が出来るのか分からない。どう謝ればいいのかも……」

宗茂の言葉を聞いた名無しは、内心酷く傷付いていた。

(どうしてあなたが私に謝るの?宗茂)

別に自分は謝罪を求めていた訳ではない。お詫びの言葉なんて聞きたかった訳じゃない。

振られただけでもショックが大きい事なのに、同情心に満ちた声音で『ごめんね』なんて思い人から優しく謝られてしまうのは、より一層悲しくて惨めな事だ。

私が本当に欲しいのは、決してこんなモノ≠ネんかじゃないのに。

「そんな事言わないで……宗茂」
「いつからだ?名無し。いつからそんな事を考えていた」
「分からない……。つい最近気付いたような気もするし、もっとずっと前からそう思っていたような気もする。もしかしたら、あなたと初めて出会ったあの時からなのか……」

呻くようにして名無しがそう告げた途端、名無しの鼻腔をふわりと何かがかすめる。

それが宗茂の髪の毛から漂う高級で上品な石けんの匂いだと気付き、名無しの瞳に一層涙が滲む。

まるで恋人のように、宗茂に寄り添う。

彼の吐息を肌に直接感じ、あの低い声で愛撫するように耳元で囁かれる。

彼の心臓の鼓動が名無しの胸にも伝わってくるくらい、空気の入る隙間がないくらいに強い力で抱き締められる。

いつかそんな日がくる事が以前の名無しには憧れだったのに、実際にその夢が叶ってみるとなんて想像以上に辛い事だろう。なんて虚しい事だろう。


(だってこの腕は、もう私の物じゃない)


宗茂は、もう自分の物じゃない。今後宗茂の隣に微笑みながら座す役目は、私じゃない。


宗茂が熱っぽい声で愛の言葉を囁くのは私じゃない。


彼が今後その腕に抱く女性は、肌を重ね合わせる女性はどうあがいても私じゃない。


その事実が名無しの脳裏を過ぎった直後、最愛の男性に抱き締められているという幸福感は一気に消え失せ、代わりに例えようもないくらいに深い悲しみが名無しを襲う。

「名無し。俺とした事が気付いてやれなくてすまなかった」

自分を呼ぶ宗茂の声に、名無しがビクンッと体を跳ねさせた。

(そう言えば、さっきもそう呼ばれた…!)

その言葉に触発されたようにして、名無しは宗茂の胸を両手で力一杯押し返す。

急に強い抵抗を示した名無しに驚いて宗茂が腕の力を緩めると、名無しは宗茂の腕に自分の手を重ね、ゆっくりと自分の体から引きはがしていく。

「初めてだね、宗茂が私の事をちゃんと名前で呼んでくれるだなんて」
「……!!」

名無しの言葉に、宗茂がハッとしたような顔をする。

「宗茂、私の事いつも『君』って呼ぶから、いつかはちゃんと名前で呼んでくれるようになるといいなと思ってた。お互いを名前で呼び合えるような、そんな親しい関係になれたらいいなと思ってた……」

そう告げて宗茂を正面から見つめる名無しの顔に浮かぶ物は、とても切なさに満ちた悲しい微笑みだった。

そう。

ほんの些細な、人に話したらきっと馬鹿にされるようなささやかな願いに過ぎないのだろうけど。

それでも自分は本気で『いつかそんな日が来たらいいな』と思って、ほのかな期待とトキメキを胸に抱きながら今まですっと過ごしてきたのだ。

大好きな人に名前で呼ばれる。大好きな人に抱き締めて貰える。

その二つの大きな夢がまさにこうして叶ったはずなのに、今の名無しには少しも嬉しいとは思えない。


なんでそれが、よりによって。


どうして────こんな悲しい思い出に。



「突然変な事を言ってごめんね宗茂。あなたを困らせたい訳じゃなかったのに」
「……名無し」
「その上、あんなみっともない姿まで見せちゃって。私ったら、やっぱりちょっと今日は普段より飲み過ぎちゃったみたい。格好悪いよね……。宗茂、お願いだから今日の事は全部忘れて。ねっ?」
「……。」
「もうすっかり酔っぱらっちゃって、自分が何を言っているのか自分でも全然分からなくなっちゃったの。さっきのは訂正。ほら、えーと、なんだっけ……。そ、そうだっ。かなり時期外れだけど遅いエイプリルフールって事で!」

そう言って名無しは宗茂にニッコリと笑いかけ、さっきまで泣いていたのを誤魔化すようにして自分の目を手の甲でゴシゴシと拭う。

明るい口調でフフッと笑う名無しは、すでにいつもの彼女の姿に戻っていた。

そんな彼女を、宗茂が油断のならない険しい眼差しで見つめている。


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