異次元 | ナノ


異次元 
【茨の檻】
 




「ですが…、法正殿は、こう仰いました…。『今まで俺が出会ってきた人間の中で、名無し殿は過去最高にひどい女』だと…」

そう。確かに法正はそう言った。それは明らかに否定的な意味を持つ言葉ではないか。

震えながら細い息を漏らす名無しの唇を、男の指先がそっと撫でた。

「ふ、もしかして悪い方に捉えましたか」
「…悪い、方…?」
「俺の本音が気になりますか?」

法正殿は、何を言っているのだろう。

気になる、という気持ちはある。しかし同時に、聞かない方がいいような気もしている。

混乱する思考で黙り込む名無しをよそに、法正は勝手に話を続けた。

「俺が言いたかったことはこうです。名無し殿は俺の心をかき乱す、罪作りな女性です、と」
「……!?」
「誤解を招くような言い方だと思いますか?それはお互い様というものです。名無し殿だって異性相手に『お慕いしています』だなんて誤解されやすい台詞を平気で吐いて、俺の反応を試したでしょう」
「…っ。試してなんて…!」

試してなんていない。

そう叫んで男の腕を振り解こうとした刹那、そんな彼女の考えを見透かしていたのか男の両腕に力が入り、名無しは苦しげに顔を歪ませた。

「実に気に食わない展開だ。この法考直が、目の前の女にここまで無視されるとは」
「…ほう、せ…」
「俺は考えた。あなたの手を煩わせる事もなく、俺だけが働いて満足できるような展開を」

名無しから受けた親切がここまでくると、普通の方法では到底返し足りない。

もはや自分に出来る方法は文字通りこの体で返す≠ュらいしか思いつかないが、かといって命を投げ出せば彼女も同じことをして終了だ。

「だったら別の意味で体を使うしかない、と思った訳だ」

名無しの背後で、男が笑う気配がする。

「俺には出来るが、名無し殿には不可能。一方的にヤれる、恩の一方通行。これなら絶対にあなたのような性格の女性は同じことをやり返そうと思わない……そんな方法で」

耳に触れる唇の感触に、濡れたものが混ざる。

男の舌で優しく耳朶を舐められているのだと分かると、全身を貫く痺れが一層強くなった。

「なに、を…」

自分の頭に浮かんだ考えの恐ろしさに、名無しは驚愕した。

法正殿、一体何を。まさか。

必死で身を捩って逃げ出そうとすればするほど余計に強く抱き締められ、名無しは混乱の極みに陥った。

どうかこの予感が外れて欲しい。男の舌の動きはただの冗談であり、からかわれているだけなのだと思いたい。

「俺の体を使って、全身全霊であなたに尽くす。あなたをたっぷり楽しませて、涙が出るほど悦ばせて、意識が飛ぶほど感じさせて、一晩中ご奉仕≠キる……。まあ、つまるところ───そういうことだ」
「ひっ…、ぁ……」

絶望する。

男の舌が、今度は名無しの項に移動した。

身構える名無しの白い首筋を濡れた舌先が這い上がり、くすぐったさと怯えが入り混じった感情に身が竦む。

野獣。

法正の強い眼光が、首筋に当たる牙が、男の大きな手に備わる鋭い爪が、自分の身も心もズタズタに引き裂く。

比喩ではなく、名無しは本心からそう感じた。

「やっ…!」

身体が宙に浮いている事に気付いたのは、己の両足が地面から離れてから数秒後。

男の力が一瞬緩んだかと思うと、今度は素早く背中と両膝の後ろに腕を回され、法正はそのまま名無しを抱き上げた。

お姫様抱っこをされているという状況に名無しの思考が辿り着くよりも早く、彼はその場で方向転換してベッドの方に向き直る。

男が移動する間カツカツカツ、と小気味良い靴音が何度か名無しの耳に届いたが、放心状態だった名無しの金縛りが解けたのは二人がベッドに辿り着いてからだった。

「っ、あ」

少々乱暴な動作でベッドに投げ捨てられ、名無しの全身が柔らかいシーツとクッションの上に深く沈む。

ギシ、とベッドが軋む音を立てて、法正が名無しに覆い被さってくる。

「放して…っ」
「おやおや…。暴れると怪我をしますよ、名無し殿」

本心から気遣う言葉なのかただの演技なのかは不明だが、名無しに対する法正の口調は相変わらず丁寧だ。

普段なら礼儀の出来た人だ、いつお会いしても紳士的な態度を取られる方だと心温まる要素の一つだったはずなのに。

今となっては全てが幻のように思え、逆に薄ら寒いものを感じる。

「放して…、法正殿、放して下さい!どうしてこんな…」
「言ったでしょう。あなたにご奉仕するのだと」
「やめて…ください…。私、嫌です…!法正殿っ」
「本当に?」
「本当です!」
「だったら、本気で抵抗したらどうです」
「本気でって…、だからこうして…!」
「そんなに嫌なら、俺を殺せばいい」
「…………な」
「あなたもやり返せばいい。望むままに。俺のように、好き放題に」

黒い、闇のように底が見えない法正の瞳で見下ろされ、名無しの手足が強張る。

殺すって、誰を。

怖ろしい想像に、指先まで冷たくなる。

「…な、に、を…、言って…」
「言葉通りの意味ですよ。俺が聞いた話によると、女性にとって『強姦は心の殺人』だそうじゃないですか。だったら死ぬ気で抵抗した結果、加害者が死んでもそれは自業自得。正当防衛と言えるでしょう」

話しながら、法正が名無しの手を掴んで大きな枕の下へ誘導する。

指先に、硬い物体が触れた。

法正に促されるままにそれを掴んだ瞬間、名無しはぎょっとして大きく息を吸う。

「小刀です。護身用のね」

低い声が、容赦なく名無しの頭上に降ってくる。

「何かあった時の為に、枕元に置いてあるんです。定番でしょう」

顎をしゃくった法正に引きずられ、名無しもまた頭を動かして、手にしたモノの正体を確認しようとする。

「どうぞご自由にお使いください。ああ、それとも刃物より鈍器の方がお好みですか。名無し殿は普段鉄扇を愛用されていますしね」
「そ…んな……」
「金槌なら工具箱の中にあったはずなので、今から持ってきましょうか。紐状の物で絞殺するのが良ければ丈夫な縄もご用意しますよ。別に素手で締めても構いませんが。あるいは毒物でも飲ませて、俺が苦痛にのた打ち回って死んでいく様をご覧になるのをご所望で?」

この人は、一体何を言っているのだ。

さっきまでにこやかに談笑していた相手を殺す。職場の同僚を、殺す?

そんなこと、出来るはずが───ない。

「……嘘」

込み上げる恐怖に、泣きたいような気持が募る。

「こんなの…おかしい…。おかしいじゃないですか…」
「何がです」
「だって…おかしいじゃないですか…。これが、法正殿には出来て、私には出来ない、報恩…?そんな…、そんなことって…」

理解が出来ない。

どんな発想をすればこれのどこがそう≠セと言えるのか、男の思考回路が全く持って理解できず、名無しの全身が粟立つ。


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